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ただの庶民だが私にも言わせてほしい
生き難くなっている日本
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変わり行く家族のカタチ
天野 雀
戦前まで大家族が基本であった日本の家族形態は、戦後、夫婦と子供2人の4人家族が標準世帯となった。行政、企業もこの標準世帯を基準に社会保障制度を整備し、家電製品などの開発を行ってきた。
しかし今日、夫婦2人だけの世帯や単身世帯が増える一方で、標準世帯は減り続けている。2005年日本の合計特殊出生率(1人の女性が一生に生む子どもの数)は1・25。2007年には単身世帯数が標準世帯数を追い越すと予想されている。標準世帯と呼ばれる夫婦と子供2人の家族モデルは、わずか25年間しか続かなかったのだ。
標準世帯とは実は、「人口ボーナス」と呼ばれる人口構成の変動期に起こる特殊な現象だったのである。
「人口ボーナス」とは、人口学などで使われる用語で、「多産多死」の状態から「少産少死」へ移行する途中で一時的に「多産少死」の時期が現れることを言う。日本の場合、昭和ひとケタから団塊の世代(1947〜51)までがそれに当たる。
単に人口だけが増えたわけではない。人口が多い団塊世代が社会の中心となることで経済の発展は加速され、高齢者や子どもは多くの現役世代に支えられることが可能となった。この時生み出された様々な社会の豊かさが、「ボーナス」となって蓄積されたのである。
しかしその標準世帯にも変化が訪れた。結婚は家と家との関係ではなく、個人の自由な選択となり、女性の社会進出も進んだことで、高学歴化、晩婚の傾向が増して、子どもを産まない選択をする人が増えたのである。
その結果、70年代後半から「2度目の人口転換」が始まった。大家族制から標準世帯への転換に続き標準世帯数も減少を開始した。出生率は再び低下し始め、その傾向は現在に至るまで続いている。
出生率の低下は日本に限った現象ではない。多くの先進諸国が同様の傾向を示しているし、東アジアの一部の国でも少子化が急速に進んでいる。
シンガポールでは、1970年の特殊出生率は3・0を越えていたが、2003年には1・25にまで減少した。同年の台湾では1・24、韓国では2002年に1・17と、いずれも日本に劣らぬ深刻な少子化に陥っている。
シンガポールや台湾などそもそも人口の少ない国では、少子化が端的に人口減少として現れるため、より深刻な問題として受け止められている。シンガポールでは政府が官製合コンを主催して結婚を奨励し、台湾でも2004年から出産奨励キャンペーンが繰り広げられ、政府はテレビやポスターなどでも出産を呼びかけている位だ。
家族というカタチにこだわらない
70年代から既に少子化が問題となった欧州では、出生率低下を食い止めることに成功した国と、今も出生率低下が進んでいる国に大きく分岐している。
フランスでは10年前に1・6台であった特殊出生率が、2003年には1・9にまで回復した。育児休業制度や児童手当などを充実させ、女性が子育てと仕事を両立させることを支援する政策などが行われてきた。
ノルウェーでは、父親の育児参加を支援する政策が成果を上げている。もちろん、フランスやノルウェーで成功したからと言って、こうした政策を日本にそのまま導入すれば良いわけではないだろう。
そもそも人と人との繋がり方を根本的に見直すべきではないかと思ってしまう象徴的な話がある。
「私を引き取ってください」
2004年イタリアの新聞にこんな広告が載った。この広告を載せたのはローマ郊外に住む79歳のジョルジオ・アンジェロツィ氏だ。自分を「おじいさん」として引き取ってくれる家族を募集した広告記事を載せて欲しいと、自ら大手新聞社に電話で依頼したのである。
ジョルジオ氏は一人暮らしで老人ホームへの入居費用を賄えるお金もなく、この広告を依頼した。自分の年金から毎月500ユーロを家計に入れ経済的な負担はかけないことを条件とし、高校生のいる家庭なら勉強を教えてあげることもできるとアピールした。
彼の記事が全国紙に載ると、テレビなどでも取り上げられ、彼を引き取りたいという葉書や電話が100件にものぼった。イタリアだけでなく、アメリカやニュージーランドなどからも申し込みがあったという。
同じラテン系の国スペインには、一人暮らしの高齢者の自宅に学生が下宿する制度がある。1991年から大学と州政府が共同で運営するこの制度は「助け合い下宿」と呼ばれる。一人暮らしの高齢者が光熱費などの費用を受けとり、学生に部屋を提供し、学生は下宿代の代わりに家事などを手伝う。これまで600人が参加した。
イタリアやスペインのこうした話を聞くと、家族というカタチにこだわるよりも、人と人とのつながりや触れ合いが大切なのだと実感してしまう。
家庭にすらないセーフティネット
残念ながら今の日本では、家庭の中にすらセーフティネットが無くなっている。厚生労働省のホームページによると、児童虐待相談件数が1999年(平成11年)の約1万1600件から、2005年(平成17年)には約3万4400件となり、およそ3倍に急増している。
これは児童相談所が受けた相談件数のデータだから、水面下ではもっと多くの虐待が発生していると思わせる。 虐待をうけた児童のこころの傷は大人になってもなかなか消えない。虐待を受けた児童がトラウマを抱え、大人になっても家庭をもつことに消極的になったり、今度は自分が子どもを虐待してしまうことも多いという。
家族は人間関係の基本だ。たとえ虐待がなくても、夫婦仲が良くない家庭や、親が忙しく会話の少ない家庭であれば、そこで育った子どもは家族を求める気持ちが希薄になっていくと言われる。
人を支えられるのは人だけだ。家族は社会の基本単位であり、社会のセーフティネットの基本だ。しかし今の日本では、家族すらが機能不全に陥っているのだ。イタリアやスペインのように、親と子、あるいは夫婦というカタチにこだわることなく、家族を代替できる人と人との繋がりを作り出していくことが必要だと思う。
(20代・会社員)
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優勝劣敗のなかで不寛容になる社会
和泉菊蔵
最近家族間での殺人事件の報道が多い。 ニュース番組では、「不完全な家族構成は犯罪の温床になる」などと解説する評論家もいる。
こうした評論家は大抵、父親と母親がいて2人以上の子どもがいる家族を理想化し、それ以外の家族には問題があるなどという。こういう主張がまかり通れば、片親しかいない家族や、離婚経験者などが冷ややかな視線を浴びるようになると思ってしまう。
「問題のある家庭」についてもっともらしく語るテレビ番組を見ながら、わが家にはそのような問題がないと安心する人もいるかもしれない。しかし、問題だと指摘された家族と共通する点がある人々は、苦々しい思いをするだろう。
こんなテレビ番組を見るたびに、もうすこし寛容な社会になれないものだろうかと思う。少しぐらい周囲と違うところがあっても、受け入れられるような社会のほうが住みやすい。少数意見であっても耳を傾けてくれるのが民主主義ではないだろうかと言いたい。
とは言いつつ、その寛容さと民主主義が最も欠如しているのが自分自身かもしれないと最近気が付いた。異なる意見を受け入れるというのは、私にとって大変な苦痛なのだ。自分の意見と真っ向から対立する意見には恐怖心を感じてしまう。
特にこの2、3年、以前に比べてますます他者の意見に不寛容になってきている気がする。私の心に余裕が無くなってきている感じだ。自分と異なる意見、あるいは他者そのものを脅威と感じる事が多くなってしまったのだ。
何故だろうか。言い訳するわけではないが、やはり近年の日本社会における競争の激化や成果主義、リストラの横行と無関係ではないように思える。成果主義のもとでは同僚は常にライバルであり、最下位に甘んじれば会社に居場所が無くなるという恐怖心を煽られる。
今までは同僚と仲良く協力して仕事をし、プライベートでも付き合いもしてきた年配者にすれば、成果主義にはとても違和感があるに違いない。
若者は最初から成果主義の中で競争にさらされるから、同僚はライバルであると教えられる。だからやたらと成績、給料、点数などにこだわっている若い人が目に付く。その一人が自分なのだ。
どっちにしても、優勝劣敗社会の中で競争に敗れ、リストラされたなら路上に放り出されるしかないと思うから、誰にも余裕が無いのである。
職場でも家庭でも人間関係がギクシャクしていたら、人は一体全体どこで生きていけるのだろうか。人事ではなく考えてしまうが、とても出口があるとは思えない。
(20代・エンジニア)
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自殺対策基本法が成立したが
山渕 藍
今年のゴールデンウイークに富士の樹海を歩いた。 「樹海に迷い込んだら出られないなんていうのは迷信ですよ。出られなくなるのはもともと出て行くつもりのない人だけなんですね」と、ガイドの男性が語っていた。富士の樹海で自殺する人は、毎年3000人近くに上るという。
日本で年間の自殺者がはじめて3万人をこえたのが98年。以来ずっと3万人を下回ることのないまま今日にいたっている。社会主義が崩壊して突然資本主義社会に投げ出された旧ソ連邦・東欧諸国の自殺者数には及ばないとはいえ、先進国と呼ばれる国の中ではワーストである。
その日本でも、今年やっと自殺対策基本法が国会で成立した。
自殺は社会的問題
世界では毎年100万件の自殺が生じていると推定されている。これは全死亡者数の2・5パーセントで、ほとんどの国で死因の10位以内に入っている。また未遂者は最低でもその10倍に達するだろうといわれる。未遂した人は自殺を繰り返すリスクも高い。
WHO(世界保健機関)は、「自殺は、その多くが防ぐことができる社会的な問題」と明言しており、これを受けて各国は自殺予防の対策を行ってきた。
世界的に自殺問題の深刻さが最初に認識されたのは87年の国連総会だ。その後93年に国連とWHOが主催して自殺予防のための包括的国家戦略ガイドライン立案と、実施のための専門家会議が開かれ、ここで作成されたガイドラインが96年に国連で承認され各国に配布された。
ガイドラインでは、各国がそれぞれの実情にあわせて情報収集や研究のための組織を作ることを提唱している。自殺の原因は複雑なものである。生物学・心理学・社会学的視点から包括的な取り組みを必要とする。それでガイドラインでは専門家のみならず一般の人々に対しても正確な知識を普及することを提言している。また銃や薬物など自殺を誘引する危険な手段へのアクセス規制やメディアとの協力、遺族へのケアの必要性などについても触れている。
『STOP!自殺 世界と日本の取り組み』(海鳴社)の共著者である本橋豊氏は、自殺予防戦略の国際比較を行い、各国のアプローチには古典的な公衆衛生学に基づくものと、新しい公衆衛生学であるヘルスプロモーションに基づくものに大別できると指摘している。
古典的な公衆衛生学には、予防医学の考え方を採用したものと、疫学のアプローチによるものの2種類ある。いずれも個人のリスク要因を重視し、医学的観点を強調するのが特徴だ。自殺の手段へのアクセスを封じるために銃器の規制、薬物の規制といった行政主導の発想にも立つ。
一方、新しい公衆衛生学であるヘルスプロモーションは、健康増進を個人の生活改善に限定してとらえるのではなく、社会的環境の改善を含まなければならないと考える。96年のWHOオタワ宣言以来の考え方だ。ヘルスプロモーションでは、包括的アプローチを重視し、NPOとの連携や社会的支援のネットワークを作るなど、関係する団体間のパートナーシップ、ネットワークの構築を重視する。地方分権に応じた地方レベルのプログラムや社会的弱者対策なども重視する。
ヘルスプロモーションのアプローチは実際フィンランドで取り入れられて成果が上がっているため、今後ますます注目されていくだろう。
ヘルスリテラシーを高める
ところでWHO会議の中で日本についてはどのように報告されたのだろうか。93年の報告では次のように指摘された。
「中高年や高齢者の自殺が問題化している。今後、さらに高齢化が進むなかで、自殺の問題が引き続き深刻である可能性が高い。自殺に関する一般の人々の捉え方も、自殺予防活動を進めるうえでの妨げになっている」
社会全体のメンタルヘルスリテラシーが低い場合、個々のケースの治療や自殺予防の妨げになるばかりでなく、自殺対策への社会的支援が得られないという問題にもつながってくる。
自殺は決して他人事ではない。身の回りの人に対して、もしあの時メンタルヘルスへの理解が自分にあれば違った対応ができたのに・・・、と思ったことはないだろうか。身近に精神的な悩みを抱える人がいるとき何とかしてあげたいが、どうすればいいのかわからないという経験は誰にもあることなのだ。
この6月に成立した自殺対策基本法の「基本理念」では、「自殺対策は、自殺が個人的な問題としてのみとらえられるべきものではなく、その背景に様々な社会的な要因があることを踏まえ、社会的な取組として実施されなければならない」と謳っている。
経済不況下でのリストラ、過重な労働、不安定な就労といった好ましくない環境におかれていることが自殺の大きな要因であることは、専門家ならずともわかりきっている。日本社会そのものを健康にしない限り、自殺を減らすことはできない。道のりはまだまだ遠い。
(40代・OL)
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(2006年11月15日発行 『SENKI』 1229号3面から)
http://www.bund.org/opinion/20061115-1.htm