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戦後は終わった、どころではなく、まだ戦中なのである。  【「1940年体制」/野口悠紀雄/95年5月、東洋経済新報社】
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投稿者 hou 日時 2006 年 11 月 13 日 23:10:16: HWYlsG4gs5FRk
 

http://www5a.biglobe.ne.jp/~NKSUCKS/1940nen.html

「1940年体制」/野口悠紀雄/95年5月、東洋経済新報社

 『これは歴史認識を持つために重要な書物であり、読まねばならぬ』とずっと思っていたが、やっと時間を作って熟読した。内容は重いが、歴史の面白さをこれほど強く感じたことはない。今の日本を作ったのは、戦中に総力戦遂行のために強権発動で整備されたシステムであり、その意味で日本は戦時体制が終わっていない、というのが本書の主張であり、非常に説得力があり同感できるものだった。

 一般的に、終戦によって大きな断絶があり、占領軍による戦後改革こそが今日の日本を形作る原型となった、との考えが一般的だが、本質的な断絶は、戦前と戦中の間にあったというのだ。なかでも重要なのは1940年の税制改正で、戦費調達のために導入された給与所得の源泉徴収制度、そして地方への補助金・交付税による支配体制だった。GHQは金融改革、官僚改革をやらなかったのである。有権者意識を奪う巧妙な手段として、普段なにげなく徴集方法に不満を持っていた源泉徴集制度の起源が戦中にあったとは全く知らなかった。

 戦争に勝つためのシステムは、経済に勝つためのシステムにもなり得た。この歴史の皮肉が何とも興味深い。また、経済成長を終えた今の日本が抱えている様々な弊害も、この勝つためのシステム(=供給者優位のシステム)に根を持ったものであり、それが受益者にとって様々な不都合を生んでいるのだということを、どれだけの人が認識しているだろうか。1940年体制の構築は、戦時の異常な状況のなかでこそ為し得た大改革であり、だからこそ、それを平時に壊す改革がいかに難しいことか、ということを、どれだけの人が理解しているだろうか。

 日本は根本的なところで、戦時体制が未だ続いている。マスコミも同じである。「体制そのものは、直接統制から間接統制へ、強制から自発へと大きく変わってきたが、単一の目標−−太平洋戦争と経済−−のための国家総動員体制であるという点で、『戦時』的だとするのである」(榊原・野口〔1977〕)。本書は触れていないが、これはマスコミ・ジャーナリズムについても全く当てはまっており、本質を突いていると思う。国家総動員法に基づき制定された新聞事業令(1941年)等による言論統制、大本営発表の仕組みは、「自発」的な「間接統制」として、今でも記者クラブを通して、立派に機能しているのである。戦後改革で解体された軍部と内務省に替わって台頭した政官業の権力構造を「情報」によって補完している点で、本質的に変わっていない。日本のマスコミは、戦中から一貫して、受益者(市民、個人…)の側に立っていないのだ。これは「権力の監視」を第一の使命とするジャーナリズムとは別のものである。本書の主張に同調する榊原英資が日本のメディアに対して懐疑的である理由はこのへんにあるのではないか。

 戦後は終わった、どころではなく、まだ戦中なのである。戦時の緊急体制が続いているうちは、本当の豊かさを感じられるはずがない。我々(団塊ジュニア)の世代で、何としても戦時体制を終わらせたいものだ。具体的には、供給者(生産者、官僚、政治家)優先の社会を、受益者(消費者、生活者、有権者)優先の国に変えて行くのが、我々の使命ということである。それを私の歴史認識としてはっきり持つことができた。変革のテコとして、ジャーナリズムは大きな役目を負うことができるはずだ。情報の流れを逆流させることによって、受益者主体の権力構造に少しでも変えることができれば、と思う。「現在の経済体制は日本の歴史においても特殊例外的であり、したがって原理的には変革可能である」との言は、我々に希望を与えてくれる。(2002年11月)

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 政府の基本的な役割は、経済成長をリードすることではなく、衰退産業の調整や、低生産性部門に補助を与えることであった。
 
 1940年の税制改革で、世界ではじめて給与所得の源泉徴収制度が導入された。所得税そのものは以前からあったが、これによって給与所得の完全な捕捉が可能になった。また、法人税が導入され、直接税中心の税制が確立された。さらに、税財源が中央集中化され、それを特定補助金として地方に配るという仕組みが確立された。

 経済的・社会的弱者に対する保護制度が、社会政策的な観点から導入されたことである。農業・農村対策がその典型である。現在にいたるまで農業政策の基本となっている「食糧管理法」は、1942年に制定された。これは、単なる食糧管理にとどまらず、江戸時代から続いた地主と小作人の関係を大きく変え、地主の地位を大きく低下させた。…41年には、借地・借家人の権利を強化するための「借地・借家法」の改正が行われ、契約期間が終了した後でも契約が解除しにくくなった。この背景には、家賃統制を実効的なものにすること、とりわけ、世帯主が戦地に応集したあとに残された留守家族が、借家から追い出されるのを防ぐという目的があった。
 
 経済の基幹部分における戦時と戦後の連続性は、榊原・野口〔1977〕によって指摘された。ここで、著者らは、…「高度成長を支えた経済体制は、基本的に戦時総力戦体制の継続であった」との仮説によって高度成長メカニズムの分析を試みた。

 ウォルフレン〔1994〕は、次のようにいう。「戦後の日本が、多くの点で新しい日本であることは否めない。…しかしながら、日本では権力がどのように行使されるというテーマにそって考えると、変化より継続性の方が重大であるようだ。支配エリートの動機が継続されているだけでなく、彼らがつくった制度も継続されているのである。…(戦後日本の)再生の主力となったのは、米占領軍に指導された『デモクラシー』による経済的、政治的再編成ではなく、…一度は捨てた戦争中の『封建的』な慣習だったのである」。

 ここで指摘したいのは、経済構造の基本的部分では戦時体制が敗戦にもかかわらず生き残ったこと、そして、高度経済成長に対して本質的な役割を果たしたということである。…榊原・野口〔1977〕は、つぎのように注記している。「われわれがここで、『戦時』ないしは『総力戦』という言葉を使うのは、現在の経済体制の1つ1つのエレメントが第2次大戦中のものと類似したものだという意味ではない。体制そのものは、直接統制から間接統制へ、強制から自発へと大きく変わってきたが、単一の目標−−太平洋戦争と経済−−のための国家総動員体制であるという点で、『戦時』的だとするのである。」いずれにせよ、重要なのは、日本が戦時体制から脱却していないということである。この意味で、日本経済に『終戦はなかった』といわざるをえない。

 日本型企業や業者行政など、しばしば日本特有と考えられているものは、昔から存在していたのではなく、総力戦遂行という特定の目的のために導入されたものだった。金融も、自由な市場での直接金融方式から統制的な間接金融に変質した。税財政制度もそうである。税制は、それまでの地租、営業税中心の体系から、直接税中心の体系に変わった。地方財政は、分権的なものから、国に依存する体質に変化した。農村の状況も、大きく変わった。江戸時代から継続していた地主と小作人の関係が、食糧管理制度の導入によって本質的な変化を遂げたのである。都市における地主の地位も、「借地法・借家法」の強化によって弱体化された。

 日本型システムが日本の長い歴史や文化に根差しているとの考えは、往々にして、「だから変えられない」という運命論に結びつきやすい。…本書は、これに対して、現在の経済体制は日本の歴史においても特殊例外的であり、したがって原理的には変革可能であるという認識に立つ。これは、きわめて重要である。

 1937年に始まった中国との局地戦争は、当初の思惑に反して長期的な全面戦争となった。…『国家総動員の中枢機関』として、1937年、内閣に企画院が設けられた。そして、1938年には、『国家総動員法』が制定された。これは、『国防目的達成ノ為国ノ全力ヲ最モ有効ニ発揮セシム様人的及物的資源ヲ統制運用スル』ことを目的としたものであり、国の資源と労働力のすべてを戦争目的のために動員する統制権限を、政府に委任した授権立法である。この法律は、1933年のナチス・ドイツにおける授権法の日本版といわれた。

 (「国家総動員法」によって制定された主要勅令として、1941年12月の新聞事業令がある)

 国民生活が圧迫される中で、それまでのような高い配当性向は所得分配の観点から望ましくないとの考えが強まった。このため、1939年に国家総動員法にもとづいて施工された「会社利益配当及資金融通令」によって、企業の配当に規制が加えられることとなった。…1940年には、「会社経理統制令」が制定され、配当統制がさらに強化された。さらに、役員賞与についても規制が加えられた。また、役員の構成も変化し、内部昇進役員の比率が高まった。こうして株主の権利が制限され、企業は従業員の共同体的な性格のものとなった。

 政府は「総動員法」によって物資、物価の統制令を施行し、生活必需物資の公定価格を定めた。1939年3月には、初任給が公定されることになり、9月からは、賃上げを建前として認めないという賃金統制が行われた。この例外は、従業員全員を対象にして一斉に昇給させる場合とされた。これによって、定期昇給の仕組みが定着した。さらに、実態調査にもとづいて、初任給から昇給額までが政府によって決定されるようになった。


 1937年に産業報国会が作られた。これは、労使双方が参加して事業所別に作られる組織であり、労使の懇談と福利厚生を目的としたものであった。内務省の指導によって産業報国会は急速に普及し、労働者の組織率は、1938年ですでに4割をこえた。

 中村〔1993〕は…「日本の組合が企業別組合として結成され、現在に至っているのは、戦時中からの産業報国会などの組織が衣替えして成立したからである」と指摘している。

 日本の大企業は、もともとは部品に至るまで自家生産する方式をとっていた。それが、戦時期の増産に対応するための緊急措置として下請方式を採用するようになった。…1960年代の末にトヨタに部品を納入していた子会社の40%以上は、その下請け関係を戦時期に築いていた(Dower〔1993〕)。

 1931年において、フローベースの産業資金供給の実に87%が直接金融である。戦後の姿に比べると、きわめて対照的といえる。これは、財閥の力が強かったことにもよるが、金融市場における統制色が希薄であったこと、多額の資産を保有する資産階級が存在したことが最大の原因である。
 1939年には、「国家総動員法」にもとづいて「会社利益配当資金融通令」が施行され、大蔵大臣が日本興業銀行に対して、融資などの命令をなしうることとした。…政府は、興銀を通じる命令融資制度によって、資金の配分をコントロールすることができるようになったのである。…このような資金統制の結果、産業構造は大きく変化した。消費関連の軽工業の比率が低下し、重化学工業の比率が上昇したのである。

 1940年に発足した第2次近衛内閣は、「新経済体制」の一環として、金融統制の強化を目指した。企業が利潤を追求するのは株式で資金を調達するからであり、これにかわる資金調達手段があれば、利潤追求がなくなるだろうという考えによるものである。…41年には興業銀行を中心とした「時局共同融資団」が設立された。これは、メインバンク制の始まりであるといわれる。42年には「金融統制団体令」(総動員法に基づいて制定)によって「全国金融統制会」が設立され、これによる共同融資が大規模になされた。そして同年に、最後の仕上げとして「日本銀行法」が改正され、総力戦遂行のための金融統制体制が完成することになった。また、銀行に審査部門が設立された。それまでの日本の銀行は長期金融の経験が乏しく、十分な審査能力を持っていなかったのである。これによって資本市場の役割はさらに低下した。…都市銀行はオーバーローンになって日銀に依存する体質となった。…従来は産業資金供給の6割程度を占めていた株式の比重が、1939年から顕著に低下し、戦争末期には、極めて低い値になった。これに対して、貸し出しの比重は39年から顕著に上昇し、(41年を除けば)株式に代わって産業資金の半分以上を占めるようになった。


 大蔵省は1942年に制定された「金融事業整備令」にもとづき、再編成を強行した。いわゆる「一県1行主義」の徹底化をめざして、金融機関の整理を遂行したのである。その結果、1935年末に466行あった普通銀行数は1941年末には186行にまで減少した。さらに、1945年末には、実に61行にまで激減した。主要な銀行の実質的な構成は、この当時から現在に至るまで、殆ど変化していない。

 官僚の発想法、官対民の関係、そして税財政制度などは、明治以来一貫して続いてきたわけではない。戦時経済期に、大きな断絶がある。現在に引き継がれているのは、その断絶後の部分である。現在の官僚たちは、明治の「天皇の官僚」の子孫ではなく、戦時期の革新官僚の子孫なのである。

 36年には「自動車製造事業法」が制定された。この後、37年から41年にかけて、「人造石油事業法」「製鉄事業法」、…などの産業別の「事業法」が次々と制定された。…事業経営を許可制とし、事業計画も許可制とする。これらを通じて、企業は政府の監督や統制を受け、また、設備の拡張、生産計画の変更などの命令も受けることになる。…41年8月には「重要産業団体令」が制定され、これにもとづいて、1941年から42年にかけて統制会が数多く作られた。これは、重要産業において、業界ごとのカルテルを結成し、会員企業に対する統制を行うためのものであった。…ここで戦後の政府と業界団体の原型が成立したとみる。これが形を変えて業界団体となり、戦後の業者行政に用いられたのである。

 一般に、1936年の2・26事件以降の日本社会では、軍部によるファシズム支配が確立されたといわれている。…この時期に重要な役割を果たした集団として、「革新官僚」の存在があげられる。彼らが主張した政策は、戦後に引き継がれることとなった。…新官僚の系譜は「革新官僚」に引き継がれた。ここに含まれる人々は、新官僚と重複する部分も多い。ただ、新官僚が内務官僚中心だったのに対して、革新官僚は経済官僚中心であった。革新官僚が活動する場は、1937年に設立された内閣企画院であった。
 
 40年6月、近衛は本格的に新体制運動に乗り出した。近衛のいう「新興勢力」とは、「革新派」を指した。麻生久の社会大衆党、赤松克麿の日本革新党、中野正剛の東方会などの革新勢力を結集し、前衛政党的な新政党を結成しようとした。供奉も「米内内閣打倒、近衛内閣樹立」運動を行った。こうした経緯を経て、7月に第2次近衛内閣が成立した。10月に、新体制運動の中核体として、「大政翼賛会」が発足した。しかし、地方行政の主導権を主張する内務官僚、既成政党の主流、軍部、右翼などに妨げられて政治指導の一元化に失敗し、大政翼賛会は精神的色彩の強い組織以上のものにはなりえなかった。

 1931−36年度の平均で見ると、国税収入の約3分の2が間接税であった。また、地方財政も分権的だった。…国からの補助金や交付税は存在しなかった。…1940年の税制改正でとくに重要なのは、戦費調達のために導入された給与所得の源泉徴収制度である。…また、法人税が独立の税となった。これらの改革の結果、所得税、法人税という直接税を中心にすえた税体系が形成されることとなった。…所得税と法人税の国税収入に対する比率は、40年税制改正以前は20−30%であったが、改正後は、40−50%となった。…間接税に対する直接税の比率は、1930年代の前半まで0・5程度しかなかった。それが、1939年に1を超え、以後、終戦まで同じ傾向が続いている。戦後は、この比率が若干低下したが、1930年代の前半までの値に比べれば、かなり高い水準を維持した。以後、直接税中心の税体系は、現在に至るまで続いている。現在、国税収入の約7割が、直接税である。
 
 まず所得課税を国に集中させて、所得税、法人税を基幹税とする国税の体系を作る。これを財源として、特定補助金を地方に支出し、それによって中央政府の決定した仕事を地方に執行させる。さらに、地方債によって補助事業の執行を支える。その際、地方債は起債計画にもとづいて認可することとした。…地方譲与税、地方交付税交付金、国庫支出金という中央政府からのトランスファーは、1938年までは地方財政総収入の10%程度でしかなかったが、40年度税制改正によって急激に増加し、2割程度になったことが分かる。このような「地方財政の中央依存体質」は、戦後さらに強化された。表にみるように、中央政府からのトランスファーは、50年代以降も40%程度の水準となっている。

 一般に、大規模な税制改革は、政治的な抵抗のために、きわめて困難な課題である。これは、1980年代の消費税の導入過程をみれば、明らかなことであろう。1940年の税制改革は、戦時という異常な背景のもとで初めて可能になった大改革であった。…源泉徴収や国に集中する財源は、戦後のシャウプ使節団の勧告で、改革のターゲットとなったものである。しかし、実際には、源泉徴収も国に集中する財源も、現在にいたるまで税制の最も基幹的な部分として存続している。

 社会保障制度も、戦時体制として整備された。…1938年の「国民健康保険法」、39年の「職員健康保険法」などにより、適用対象が拡大され、ほぼ全国民を対象とするものとなった。また、41年に「労働者年金保険法」が制定され、老齢年金などの支払いが規定された。これは、44年に「厚生年金」となり、対象が職員と女子にも拡大された。これらの施策の直接的な狙いが、労働者の転職防止にあったことは疑いない。 

 1940年体制は、総力戦のために生産力を強化するというだけでなく、社会政策的性格をあわせもっていた。その代表的なものとして「借地法・借家法」と「食糧管理法」をあげることができる。これらは、戦時経済下で弱者を保護するために導入されたものである。

 日本の小作料は、徳川時代から現物小作料制が続いていた。つまり、小作人は、地主に対して米で小作料を収める形態をとっていた。その額は、収穫の半分程度であった。食糧管理制度によって供出制がとられ、この形態は大きく変わった。すなわち、在村地主の飯米分をのぞいて、小作農は地主ではなく政府に米を供出し、その代金を地主に払えばよいこととされた。こうして、小作人は直接に政府から収入を得られるようになり、小作料が事実上、金納制に変わったのである。さらに政府は、生産者から直接に買い上げる場合には増産奨励金を交付して高く買い上げる一方で、地主から買い上げるときにはこれを給付しないこととした。…それまでは、小作料は収量の50%にも達していたが、43、44年産米では38%に低下し、さらに45年産米では、18%にまで下がった。…これは、戦後の農地改革、農村の状況、さらには保守政治の基盤に関して、重要な意味をもつことになる。

 戦時体制が、第2次世界大戦の敗戦にもかかわらず、消滅しなかったのである。この点で日本は、同じく枢軸国であったドイツやイタリアとは極めて異なる路線を歩んだことになる。

 1945年から47年にかけて、4大財閥をはじめとする財閥会社からの子会社・孫会社の分離、財閥所有株式の処分、人的支配網の切断などが進められた。これが「財閥解体」であり、農地改革とならぶ最大の「経済民主化措置」といわれている。

 農地改革は、戦後改革の代表的なものと考えられている。戦前の日本の農村では、小作が一般的であった。1941年において、全耕地の約半分は小作地であり、耕地を全く持たない純小作人が全農家の約3分の1を占めていた。農地改革はこうした状況を根底から改革し、広範に自作農民を創設したとされている。
 
 政府機構における戦前との連続性は、驚くべきものである。消滅したのは軍部だけであり、内務省以外の官庁は、殆どそのままの形で残った。…人事の年次序列においてさえ、戦前からの完全な連続性が維持された。…公職追放総数21万人のうち、軍以外の官僚はわずかに2000人前後、それも内務省がほどんどで、大蔵省にいたっては総数9名にすぎない。…地方自治がうたわれたにもかかわらず、財源は依然として国に集中されたままであった。

 官僚機構が無傷で生き残った第一の理由は、占領軍が直接軍制ではなく、日本政府を介して行う間接統治方式をとったことにある。ドイツの場合には、ナチスに強い憎悪を抱くユダヤ人グループが占領政策に影響を及ぼし、中央政府の徹底的な解体が行われた。

 軍部は解体され、財閥に対しては財閥解体がなされた。また、警察制度を始めとする内務省関係については、日本側の強い抵抗にもかかわらず、強引ともいえる改革がなされた。それにもかかわらず、経済官僚については、なぜ手付かずで放置されてしまったのであろうか。これは、戦後改革における大きな謎といわなければならない。 

 当時の内務省文書課長であった萩田保は、つぎのように述べている。(神〔1986〕)「われわれ自身8つ裂きにされようとは夢にも思っていなかった。これほどまでに解体された理由は2つある。ひとつは、内務官僚の中に英語の達者な人間がいなかったこと。内政ばかり考えていたから、英語など必要ないという風潮が内務省の中にあって、これが大蔵省のようにうまく立ち回れなかった最大の理由だ。第2は、内部の不統一だ。…」

 きわめて重要だったのは、金融機関が、「集中排除法」の適用を免れたことである。1947年に「過度経済力集中排除法」が公布され、独占的支配力のある企業は、分割されることとされた。当初は金融機関も対象になることとされており、帝国、三菱、安田、住友の4行は分割されることとされていた。…銀行業は集中排除法の指定免除となり、銀行の分割は中止された。

 第一の特徴として、終身雇用と年功序列型賃金を軸にした「日本型」の雇用慣行があげられる。…第二の特徴として、企業別の労働組合があげられる。 


 経済学の教科書にある「企業」は、株主が所有する利潤追求のための組織であり、従業員は契約に基づいて「雇われる」に過ぎない。しかし、日本の企業は、これとは異質の社会的組織である。…こうして、日本的企業における企業と従業員との関係は、単なる一時的な労働契約ではなく、運命共同体的な性質を帯びている。 

 40年体制によって確立された金融システムが、資源を成長分野に割り振るうえで重要な役割を果たしたと考えられるのである。

 第一に、人為的低金利政策によって信用割り当てを行い、基幹産業と輸出産業に資金を重点的に配分したこと、第二に、「金融鎖国」体制をしいて資金の国際的な流れをシャットアウトしたことがあげられる。
 人為的低金利政策は、つぎの2つによって支えられていた。第一は、金利規制である。1947年に制定された「臨時金利調整法」により、金利が法的に規制され、かつ歩積・両建・にらみ預金等、実質金利引き上げの手段がきびしく規制された。第二は、大蔵省の行政指導による店舗規制である。金利を人為的に低く保つことによって生じる既存の金融機関の間での競争に対して、店舗行政によって競争を調整した。その際、経営基盤が比較的弱い中小金融機関が優遇された。
 この結果、いわゆる資金偏在現象が生じた。中小金融機関は店舗面では優遇されたために預金は集まったものの、金利規制のため、一定以上のリスクをもつ中小企業あるいは個人に貸し出すことは難しかった。営業基盤が地域的に限定されているこれらの機関は、大企業を顧客に持つことはできず、必然的に余剰資金を抱えることになった。これが、コール市場などの銀行間市場を通じて都市銀行に流れていったのである。旧財閥系銀行を中心とする都市銀行は、基幹産業と強く結びついており、吸収した資金を重点的に基幹産業に流した。さらに、日本興行銀行を中心とする長期信用銀行は、債権発行についての独占的地位を持ち、地方銀行・相互銀行・信用金庫等が集めた資金を金融債で吸収して、基幹産業に流した。…大蔵省は1つの新規免許も出さず、1つの金融機関もつぶさないという「護送船団方式」をとり、この金融ハイアラーキーを保った。…さらに「外国為替管理法」によって、日本の金融は、海外から遮断された。

 もし自由化が早期に行われていたとすれば、発展途上国の一部にみられるように資本の海外逃避が起こり、貯蓄が国内資本の蓄積に向かわなかった可能性も十分ある。…地方銀行・相互銀行・信用金庫等の中小金融機関は、もし人為的低金利政策がなければ、その資金を中小企業が多い自らの顧客に貸し出すことが可能であり、また有利でもあったに違いない。その場合には、日本の産業構造はかなり異質なものになっていたはずである。したがって、金融統制がなされなかった場合に比べて、大企業、製造業、輸出産業に重点的に資源が配分されたことは、認めてもよいと思われる。直接金融が主流であるような経済では、50−60年代の高度成長を実現することは、多分できなかったであろう。…占領軍が金融改革に全く手をつけず、その結果、戦時型の金融体制がそのまま維持されたことは、高度成長のための極めて重要なファクターであったといえる。
 …高度成長の実現にとって、産業政策的な政府介入がどの程度の重要性をもっていたかは疑問である。経済学者は、一般に否定的な見解をとっている。


 日本型経営システムにおいては、年功序列型賃金と終身雇用を同時に実行しなければならない。年功序列賃金というのは、ネズミ講と同じ原理なので、これを継続するには、中高年労働者と若年労働者の比率を一定に維持しなければならない。そのためには、企業は常に成長していなければならない。…企業の目的は、利潤追求ではなく、成長そのものになる。このためには、資金を借り入れで調達することが必要であり、また、有利でもある。こうして、日本型経営システムと間接金融は、密接に結びつくことになる。

 以上のメカニズムに組み込まれた主体を整理すれば、基幹産業における大企業と金融機関である。重要な主体が欠落している。それは、貯蓄の供給者たる家計である。これは、国民の零細貯蓄がより有利な収益を得る機会を奪われたことを意味する。

 さまざまな補助金、政策金融措置、税制上の措置などによって、高生産性セクターからの所得移転を行った。その典型が農業である。「食糧管理法」によって国際競争からは保護され、国内でも強い統制下におかれた。また、流通業・サービス業も様々な規制によって保護された。さらに、生活面でみる限り、都市対農村という地域間関係でも格差が拡大しなかった。…ここで注目したいのは、格差是正のために使われた政策手段が、教科書的な社会保障制度ではなかったことである。実際に用いられたのは、戦時体制下で導入されたものが多かった。食料管理制度を通じて消費者米価と生産者米価の差額が一般財源で補填され、農業部門への補助が与えられたのは、その典型である。…また財政を通じる農業や後進地域への補助金が重要な役割を果たしたが、これを支えたのは1940年に戦費調達のために導入された給与所得の源泉徴収制度を中心とした税体系である。…なお、間接金融体制の中で金利が固定されたことから生じる一種の「さや」を利用して、財政投融資による政策金融が行われた。それらのかなりのものは、低生産性部門への補助に使われた。

 戦後の日本社会で、「産業化」がなんの反対もなく国民的な目的となりえた基本的背景は、地主階級が社会的影響力を持たなかったことだと考えられる。

 制度を作るのが人間である以上、重要なのは、その背後にある思想や理念である。…40年体制の特徴として第一にあげられるのは、「生産優先主義」である。つまり、生産力の増強がすべてに優先すべきであり、それが実現されればさまざまな問題が解決されるという考えである。戦時経済においてこれが要求されることは明らかだ。ここで注目したいのは、戦後の高度成長期においても、この考えが支配的だったことである。つまり、経済が成長すればその成果として人々の生活が豊かになるはずだし、生活を豊かにするにはそれしか方法がない、という考えが社会的なコンセンサスを得ていた。「消費は浪費であり、したがって悪徳である」「生活の質の向上などは、怠け者
の要求」という通念は一般的であった。…手段が目的化してしまうのである。…このような価値観は、「仕事が全てに優先する」という会社中心主義と巧みにマッチした。生産性向上の成果を賃上げで蚕食してしまうのでなく投資にまわしてさらに会社を発展させる、という方針に異議を唱える人々は少なかった。

 40年体制の導入に伴って、顕著な変化が見られる。すなわち、1930年には6%でしかなく、30年代前半までは10%程度しかなかった貯蓄率が、35年頃から急速に高まり、38年には20%を超えている。そして、41年には30%を超え、戦争末期には実に40%近くにまで達している。…1950年代には15%程度であり、60年代には20%程度んまで上昇した。これは、「生産第一主義」が社会的な価値観となっていることの反映といえるだろう。

 1980年代になってから、高度成長期の生産優先主義からの脱却をめざして、「消費者重視」が政治の目標として意識されるようになってきた。標語やスローガンのレベルでは、宮沢内閣の「生活大国5ヵ年計画」で「生活者重視、消費者重視」が強調されている。これは、細川内閣にも引き継がれ、さまざまな場面で強調されるにいたった。

 消費者の立場から考えれば、円高は明らかに望ましい現象である。これは、日本の通貨価値の上昇であり、日本国民の労働が高く評価されるようになったことを意味するからである。…これは、外国を旅行すれば、すぐに分かる。それにもかかわらず、円高は国難であるという意見が一般的になる。 

 金利政策に関しても、為替政策と同じことがいえる。これについても、本来は生産者と消費者の利害が異なるはずである。実際、マクロ的に見ると、家計が貸し手部門で企業が借り手部門なので、金利の引き下げは、家計の利子所得の犠牲において、企業の利子負担を軽減させることになる。  
 このように、為替政策や金利政策のように消費者との関連が直接的に把握しにくい分野においては、依然として「生産者優先」の考えが支配的である。これは、「消費者重視」がいまだにスローガンのレベルのものでしかないことを示している。

 1970年代前半に社会保障制度が大幅に拡充・整備され、雇用とは別の側面からの保障が行われることになった。したがって、現在の状況では、二重の保護が与えられることになってしまう。このため、負担が膨大なものとなるのである。

 40年体制は、明確な目的に対して全国民を総動員するという「戦時体制」であった。「成長」という総力戦に関してうまく機能したシステムは、「変化」に対しては機能しないのである。

 仮に自民党が自由主義を標榜し、社会党が社会主義を標榜する政党であるのなら、前者が消費税反対、後者が消費税推進の立場をとらなければおかしいはずである。消費税が必要とされる背景には、第4節で述べるように、将来の高齢化社会における社会保障費の問題がある。…ここでの政党間の対立は、本来あるべき政策理念に基づく対立ではない。単なる政権党対反対党の構図以外のなにものでもない。
 
 「リベラリズム」という概念に関する混乱と誤用がある。これは、本来は、右で述べたように個人の自由を基本とする立場である。…しかし、日本では、「社民リベラル」というように、これとは逆の立場の主張に「リベラリズム」という表現を使うことが多い。…これは、米国で、「リベラリズム」が「保守主義」に対立する概念として使われるkとおが多いのに影響されているのであろう。しかし、これは米国の歴史的条件を背景とした特殊な用語法である。アメリカでは、もともと自由主義的な政策以外のものは考えられなかった。その大枠の中で、「ニューディール・リベラル」として、「オールド・リベラル」に対比したに過ぎない。

 40年体制における社民主義的な政策は、生産者を対象に行われてきた。…しかし、豊かな社会における社民主義的政策は、消費者を対象として行う必要がある。つまり、生産者保護政策から一般的な社会保障政策に転換する必要がある。…日本における今後の社民主義の役割は、従来は官僚体制によって推進されてきた政策路線を、その目的において継承してゆく一方で、政策対象を生産者から消費者にシフトさせ、かつそれを「民主的な」決定過程を通じて実現されるものへと転換してゆくことであるといえよう。

 社民主義的な立場からいえば、資産課税の強化が主張されて然るべきである。フェビアン協会の主張に見られるように、土地に対する課税の重視は、社民主義の正統的な考えである。地価が高い日本では、とりわけその必要性は高い。しかも、資産蓄積の進展に伴って、資産格差は拡大する。この問題への対処は、日本における今後の社民主義の最大の課題であるはずだ。具体的には、固定資産税や相続税の強化が主張されなければならない。この点において、官僚体制が徴税の容易さから消費税の強化を求めるのとは、明確に異なる路線が選ばれることとなる。


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