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自由と責任のエシックス 革命無罪は虚構の論理  【黒木慶子】
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投稿者 愚民党 日時 2006 年 11 月 19 日 19:11:08: ogcGl0q1DMbpk
 

自由と責任のエシックス

革命無罪は虚構の論理

黒木慶子  

 本紙1222号に掲載された「自由には責任が伴うという重荷」(桜木明)を読み、あらためて「自由」と「責任」の問題について考えてみた。

 以前、同じく本紙でのインタビューで、アーティスト内海信彦さんは次のように語っていた。「戦争責任があれば革命責任というのもある。……革命の目的や理想は正しかったがやり方が間違っていたというとらえ方をも批判する必要があるんです」(1051号)。

 「正義の革命」の名のもとに、これまでどれほどの命が失われたことか。そこに思いを馳せるとき、戦争責任のみならず革命責任の重みを受けとめることはとても重要だ。ましてそれが「必然」とされてきたのなら、なおさらである。

必然と自由のアポリア

 「私に分かっているのは総督を殺すことが必然なのだということだ。それはテロルと革命とにとって不可避なのだ」(ロープシン『蒼ざめた馬』晶文社 P12)。19世紀ロシア・テロリストのサヴィンコフは、ロープシンの名で自らの体験をこう綴っている。彼の真意をこれだけで汲むことはできないが、少なくともここでは総督を殺すことは「自由な意志行動」ではなく「必然」とされている。

 いわゆる公式マルクス主義的な歴史法則発展史観に導かれた革命運動の過程でも、同じように様々な行為の動機づけが「必然」のうちに処理されてきた。

 「もし、人間の行動というものが……物理的物体運動のように自然法則的必然性に服しているとすれば、責任ということも正義ということも、事の原理上成立しえない、と多くの論者たちは考えます。ここに『意志の自由』という大問題が登場する所以となります」(廣松渉『存在と意味』第2巻)

 哲学者廣松渉の指摘をまつまでもなく、自由と必然、決定論と非決定論のアンチノミーの解決は、近代哲学の大きなテーマだった。カント、ヘーゲル、フィヒテ、シェリング…。多くの哲学者が様々な解決を試みるなかで、エンゲルスは「自由とは必然の洞察である」と述べた。そのエンゲルスに導かれた公式マルクス主義が、20世紀の革命運動を大きく推進してきたことは疑いえないだろう。

 でははたして、これら自由と必然のアンチノミーをめぐる様々な思索の中で「責任」の問題を導きだしうるのにもっとも成功したのは誰なのか。その疑問に、「カント」の独特な解釈をもって応えようとしたのは、柄谷行人の『倫理21』である。柄谷の弁を聞いてみよう。

 「人が何かをやってしまったら、それがどんなに不可避的なものであろうと倫理的に責任があるのは、『自由であれ』という当為があるためです。そこで、彼に事実上自由はなかったにもかかわらず、自由であったかのように見なさなければならないわけです」(P74)「カントは、道徳性を『自由である』ことのみに見出します。自由がないならば、主体が無く責任がありえない。そこには、自然的・社会的な因果性しかない」(P75)。

 柄谷が『倫理21』で展開しているのは、この世のものは常に様々な関係、原因に規定されてある以上、当然人間の行為も「自由」(ここでは他に原因がなく純粋に自発的・自律的という意味。以下同じ)ではありえない、だがしかし、われわれがそのことに「責任をもつ」ことができるのは、現実に自由ではなくても、「自由であったかのように見なす」時だということである。カントのいう義務とは、まさにその「自由であれ」という義務に他ならないと柄谷は解釈しているのである。

 どのような犯罪もそこには必ず原因や理由がある。そこで「○○が自分をしてそうさせたのだ」と言い訳することも可能だ。しかしそうであったとしても、起きた結果に対しては自己原因的であることが求められなければならない。でなければ、「責任」という道徳的原理は生まれてこない。いわば「責任のとして機制」を柄谷は言ってるわけである。

 たしかに、カントの倫理学を自然的・社会的因果性をいったん括弧でくくり、自己原因的=自由であることを意志することから道徳性がはじめて措定されるものとして読む読み方もあるだろう。柄谷はそれが戦争責任をはじめとして、さまざまな責任や倫理を考えるうえで、最も根本的だとひっぱっているのだから。

 これに対し、カントの道徳律は彼がニュートン力学の影響下、人文にも科学を持ち込もうとして、「人倫をはなれた叡智界の最高善」を措定した結果言われているのであって、「として」機制で解釈するのは無理という見方もある。柄谷の解釈はよくあるカントへの批判に対する柄谷的な回答でしかないというわけだ。

 カントの道徳律をマックス・ウェーバーの、結果がうまくいかなければ他人や状況のせいだとする「心情倫理」に対し、結果を自らのものと受けとめる「責任倫理」と同一のものとして読み込むのは無理ということになる。

 私はどちらかといえば廣松はそう解釈していたと思う。実際の生活の場面でどのように思惟したときに、人は「主体的」になれるのかを考えてみるとよい。犯罪とまではいかなくても、「こうなったのは○○のせいだ」とか「○○がそうさせたのだ」というように、おきた結果に対してその原因を「自分以外の誰か」に仮託することはとてもありがちなことだ。それが高じればルサンチマンになり、やがて他者を恨むようになっていく。対象が人間ではなく、「法則」として考えれば「必然」ということになる。だが、人はそうしたあり方をみて「なんと無責任なやつだ」「自分の問題ではないか」と非難するのである。

 そのような現実をふりかえるとき、「自然的・社会的因果性をいったん括弧にいれて『自由であれ』と意志せよ」という定言命法は、自己責任を促す有効な手段となるのだろうか。

責任をとるということ

 「あたかも自分が原因であるかのように考えるとき、責任が生じる」。ではどのように責任をとるのか。柄谷は連合赤軍の場合を例にあげ、次のように書いている。

 「彼らは、旧左翼(スターリン主義)の非人間性を否定するところから出発した新左翼でした。連合赤軍の指導者は、逮捕されてから、彼が打倒しようとしていた当のものに自らがなってしまったことに絶望して、自殺してしまった。それは責任の取りかたの一つではあります。もう一つの望ましい責任の取り方は、この間の過程を残らず考察することです。いかにしてそうなったのかを、徹底的に検証し認識すること。それは自己弁護とは別のものです」(同上、P79)。

 自殺したのは森恒夫である。本紙1041号で荒岱介が「軍事武装闘争を遂行するという形で闘いを作り上げていこうとすると、自分たちが出発点としては否定していたものに入っていく以外ないようなパラドックスを新左翼は抱えてしまった」と、連合赤軍の問題をとりあげていた。そのパラドックスに苦しみ、「自殺」という形で責任をとったのが森恒夫だった。そして柄谷も言うように、謝罪や服役、自殺というようなことだけが、「責任をとる」ことではないというのはその通りだろう。

 2度と同じ過ちを繰り返さないためにはどうしたらよいのか。その問いかけ無くしては、新たな思想も新たな社会も切り開くことはできないからだ。もちろん犯した罪への謝罪は前提であり、日本の戦争責任がいまだ内外で追及されるのは、それさえもまともに行おうとしないことへの苛立ちによる。そのうえで、なぜあのような侵略戦争を遂行するに至ったのかといった過程を、徹底的に検証し認識することは極めて大切だ。

 翻って、連赤事件や内ゲバに代表される新左翼の抱え込んでしまったパラドックスを自覚し、その思想的内容を可能なかぎり検証することは、有効な「革命責任」のとりかただと私は思う。

 内海氏が言うように、「革命の目的や理想は正しかったがやりかたが間違っていた」ということではなく、まさに「革命の目的や理想そのものに誤りがあった」ことも見据えられるべきことなのである。

 その意味で「責任倫理」とは、自然的・社会的因果性をいったん括弧に入れつつも、時にその括弧を外して、それを生みだす現実的な要因を内容的に突き出すことを通じて完結するのである。

実現目的と正義

 「革命の目的と理想」にまで責任が問われるのはなぜか。そのことについて考えてみたい。晩年、廣松渉は『存在と意味』第2巻で、行為の規範的な価値評価の視覚を「行為の動機」「行為の目的」「行為の所作」とに振り分け、「行為の目的」においては正義・不義を、「行為の所作」においては正当・不当を、「行為の動機」においては善・悪をそれぞれ基幹的な価値評価基軸としていた。

 そのうえで、「価値的に高い目的の達成と低い目的の達成とが選択的に可能な場面において、高い目的の達成を期する行為は正義的行為であり、低い目的の達成しか期さない行為は(このより低い*レ的なるものがそれ自身としては大きな正価値であってさえ)不義的行為である」(『存在と意味』第2巻岩波書店 P454〜455)とした。

 人間の行為が社会的な価値判定をうけるのは、「行為の所作」が正当か不当かのみならず、そこでめざされたもの=「行為の目的」が、はたして正義にかなうものであったかどうかまでが射程にされる。そこから責任とは、実現的目的とその価値性とのかかわりにおいても規定されるということである。

 では廣松の言う「高い目的を実現する行為は正義」「低い目的を実現する行為は不義」とは何をもって価値判定されるのだろうか。たとえば「共産主義社会の実現」は、新左翼運動を担ってきたものたちにとって「最高の目的」であり、ゆえに「正義」だったはずである。

 ところが、今やその「正義」とされたものが実は「不正義」だったことが、たとえばソ連・東欧社会の崩壊によって明らかにされてしまった。共産主義の実験=計画経済とプロ独の実施は、どの国も完全に破産した。この歴史の審判をうけとめるならば、「高い目的を実現する正義」とはあくまで実現可能な、現実社会でできうるかぎり可能な範囲においてしか規定されえないものであるべきことがみえてくる。「高い目的」「低い目的」は「空想上の高い目的」と「現実的な低い目的」などではないのである。

 それは人間存在の本質的あり方から照らしあわせても合点がいく。人間の行為は、根源的に協演であり、諸個人はこの協働のなかで各人に与えられ、課せられてある分担を受け持った役割行為を担う。つまり、諸個人の行為は協働的役割行為というありかたで、それぞれの、その都度の「目標―目的」達成行為を遂行していく。その役割行為がまっさきに「正当・不当」の価値評価を余儀なくされるのは、役割行為が当該の共同体的な規範性を内具したものであるからだ。

 そして当該の共同体とはけして単一ではなく、「家族」「会社」「政治的共同体」「日本社会」というように幾重にも重層的に折り重なって存在している。従ってすべてに通底する規範性もあれば、各共同体にしか通用しない規範性もあることになる。

 その場合問題なのは、当該共同体にしか通用しない規範性のレベルである。そこで掲げられていく実現的目的がどんなに理想に燃えたものであろうと、当該共同体以外のものにとっては、およそ受け入れがたいケースも多々あるのだ。「ポアもやむなし」で有名になったオウム真理教の規範は、それ以外の人間にとっては、絶対容認できない独善的なものでしかなかったことは記憶に新しい。

 そう考えれば話は見えてくるだろう。同じく「奴は敵だ。反革命を殺せ」などといって、内ゲバを構造化させた新左翼の規範も、そう語っている人間にしか到底通用しないドグマでしかなかったのである。

 家族と国家の間に、様々な中間共同体は存在する。それに応じてそれぞれの規範が内具化していくことはたしかに避けられない。その場合、当該共同体の規範とその規範に基づいた行為が、社会的なサンクションをうけ責任を追及されるのは、それが「他者危害」や「人権の保護」といった人間社会を司る最低限のルールに抵触する場合なのである。

 その意味で、どんな共同体もけっして通用的価値基準から自由ではありえず、革命無罪ではすまされないのだ。目的のためには手段を選ばないのは間違いなのである。  

 以上、まとめてみるならば、責任倫理がはたらく機制を考えたとき、「責任をとる」ということのなかには、自己原因にもとづく自省だけに終わらせず、そこにいたる過程をも徹底的に認識し、検証することもまた重要であり、行為の所作、動機、目的にまで及んで責任は問われるということになる。そのなかでも「正義・不義」の問題は「行為の目的」の内容にまでかかわってくるのであり、目的は正しかったが行為はまちがっていたなどとは簡単にはいえない。

 実現目的の内容がどこまでリアリティがあり、社会的妥当性をもちうるのか。全く不可能な形而上学的真理を掲げていくら「正義」をもちまわっても、それはただの心情倫理にしかならないということなのである。

 そしてここから、これからの社会運動の使命も自ずと明らかになるのではないか。カタストロフィーに陥らない可能性のなかの最善の選択が正しいのである。革命問題も倫理学(エシックス)で考えなければならないのだ。

 私は倫理学から考えることを措定し、内ゲバの回避を訴えたブントの選択はそうした点で正しかったと思っている。東ヨーロッパの崩壊後、現実的可能性の喪失に対しビビッドな対処をとろうとし、共産主義革命を放棄した対処もしかりだろう。    

(『理戦』編集部)


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(2006年11月15日発行 『SENKI』 1229号5面から)

http://www.bund.org/opinion/20061115-2.htm

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