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□言葉を巡る狂想 [どん底あるいは青い鳥。]
http://donzokoblue.blog55.fc2.com/blog-entry-147.html
2006/11/11
言葉を巡る狂想
美しい国日本では「核保有の是非」ではなく「核保有議論の是非」が問題になる。でもって「核保有議論が是」とされることは「核保有も是」とされることに等しい。議論をしたのちに「核保有は非」という結論が得られる可能性はこの国にはない。議論をする、すなわち「KAKU-HEIKI」と口に出した時点で核兵器は実体化されるのだ。言葉が本来の意味を持たない国ならではの現象である。
存在を否定したいものの名前は語ってはならない。イジメがあっては都合が悪いのであれば、その言葉を口に出してはならない。たとえ目の前でイジメがあっても、それをイジメと呼んではならない。口に出したが最後、それは存在することになり、存在するものは様々な面倒を惹き起こすからだ。
同じく「言葉の問題」としては、タウンミーティングでの文部省の「やらせ」がおもしろかった。
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政府主催の教育改革タウンミーティングで「やらせ質問」があった問題で大分県教委は、政府の質問案に沿って発言したのは県教委の職員4人だったと発表した。
また青森県八戸市では県や市教委が集めた教員ら「関係者」が参加者の半数以上を占めていたことが明らかになった。質問の自作だけでなく、教育関係者が自ら演じ、聴衆まで身内で固めようとした実態が浮かび上がってきた。(引用元)
http://www.asahi.com/politics/update/1110/016.html
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「聴衆まで身内で固めようとした実態」などとは、いかにもいやらしげである。他の記事でも「やらせ」「自作自演」「情報操作」「世論誘導」と、何とも不穏な言葉が続く。
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小泉前政権が「政府と国民との直接対話」をうたい文句に導入したが、あらかじめ質問者を用意し、政府側の意に沿った質問をさせるやり方は国民の強い不信を招き「情報操作」との指摘も出ている。
昨年の場合、1カ所につき平均1100万円の開催費をつぎ込むなど「劇場型政治」の典型とも指摘されてきたが、自作自演のPRショーの疑いをぬぐえなくなっている。(引用元)
http://www.mainichi-msn.co.jp/today/news/20061110k0000m010135000c.html
国の政策への理解を深める場を「世論誘導」に利用しようとした同省の責任があらためて問われそうだ。(引用元)
http://www.asahi.com/politics/update/1109/010.html
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果たして国民は、そこまで「強い不信」を抱いているのだろうか。少なくとも私の場合は「まあ、そういうもんやろね」で終わってしまう。それよりも、必要とあれば中央政府は直ちに各地の県教委〜市教委などを通してそれなりの人員を確保し、やらせを仕込めるだけの力があるのだなあなどと、別なところで感心してしまった。
仮に何の仕込みもなしに、でろ〜んと会合を設けたりしたらどうなるか。政府を支えるサイレント・マジョリティは、そんな会合にはまず出席しない。だから「当日参加者のうち、半数以上が、教員やPTA関係者などの関係者(引用元)」ということになる。聴衆は主催者が自分で集めなければならないのだ。
聴衆は集まっても、そもそも日本人というのは自分の意見を大勢の前で積極的に語ったりはしない。何も言わずに「察し合う」のが日本人のやり方であり、自分の意見を明快に語るなどは顰蹙ものでしかありえない。自分の思いを言葉にするとは「察し」を不可能にすること、台なしにしてしまうことだからだ。
従って、ただ集められただけの参加者たちは沈黙する。するとそのミーティングはどうなるか。何とも締まりのない、無意味なものに見えるだろう。そのテイタラクを目にした大臣なり政治家なりは担当者に「もっと体裁を整えろ」と発破をかけるだろう。つまり発言者の仕込みもやはり必須なのである。
関係者以外で積極的に参加し、発言する者ももちろんいる。しかしそういう人はたいてい日頃から教育問題などに関心を寄せている「意識の高い人々」であり、彼らの意見は十中八九、政府の思惑に沿ってはいない。だから必要なのは政府寄りの発言サクラである。それではじめて釣り合いが取れ、政府にとっても有意義なミーティングとなるというものだ。
仮にここで「政府の思惑に反する発言」のサクラまで仕込んでしまうと、それは一つの御芝居となる。さすがの御役人様たちも、そこまでの悪ノリはしなかった。教委やPTAの役員たちが「そういうものかと思って」やらせを引き受けたように、御役人様も「そういうものだと思って」やらせを仕込んだのだろう、その程度のことだと私は思う。
文科省の人というのは、陰謀とか操作などというよりも、単によい動機を持つ善良な人々であって、どちらかというと理想論で動く人たちなのかなあと思ったりする。サッカーくじで大穴を開けるくらいだから、算盤勘定も苦手なのだろう。
ゆとり教育というのもたぶん「時間を与えればそのぶん子どもらは自分の頭で考えるようになるはずだ」といった思惑で実施したのではないだろうか。すると時間の空いたぶん、考えることも覚えることもしない子どもができてしまった。
そこで遅れ馳せながら気づいたのかどうか、今度は必要なのは時間ではなく「言葉」であると言い出した。
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文部科学省が現行の学習指導要領の基本理念となっている「ゆとり」教育路線から「言葉の力」を基盤とする教育への転換を目指しているという。(引用元)
http://www.bnn-s.com/bnn/bnnMain?news_genre=17&news_cd=H20021023032
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このニュースは2006年2月のもので、その後どうなったかはわからない。ただゆとりといい言葉の力といい、文科省の人々は何かしら「自分の力で考え、独自の意見を言える国民」を造りたがっているように見受けられる。
ところがその一方で、タウンミーティングの開催理由ともなった教育基本法には「公共の精神」「伝統」「郷土愛の名を借りた愛国心」などを盛り込むべく大真面目なのだから驚いてしまう。それらはすべて日本ならではの「察し」を有効にするためのものであり、それゆえに「言葉」だの「自分で考える」だのといったことをすべて圧殺する方向へと働くものだからだ。
ここでも御役人様たちは、その善良さでもって「公共のことを考え、自分を抑えるのはいいことだ」くらいの頭で励んでいるのだろう。言葉がなくては成立しないタウンミーティングなるものにおいて、言葉を殺すための論を仕込みによって繰り広げる。なかなかブラックな茶番である。
文科省のみならず、日本人の選択は結局のところ「察し」か「言葉」か、二つに一つだ。「言葉なき察し」を採って言葉を殺し個を殺すのか、それとも察しを捨てて言葉を採用し、沈黙の融合を諦め個々へと分離するのか。どちらか一方は捨てるしかないのに、心のままに二つとも採ろうとするから愉快な迷走をしてしまう。
もしかして「察したところ」のみを過たず言葉にしてほしいなどという虫のいいことを考えているのか。であれば言ってほしいことだけを発言させる「やらせミーティング」はむしろ理想のものだったことになる。ところが今はそれで責任者を処分するとかどうとかというのだから、日本人の欲しがるものは結局のところ、何かしら「道理を外れたもの」だということかもしれない。
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