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「『懺悔の年賀状』これからは天国から送ります」 池田政枝さんの一生/韓国・東亜日報(薔薇、または陽だまりの猫)
http://www.asyura2.com/0610/asia6/msg/858.html
投稿者 gataro 日時 2007 年 1 月 18 日 19:25:41: KbIx4LOvH6Ccw
 

http://blog.goo.ne.jp/harumi-s_2005/e/b9e6df37c5324025119fc77b1b823367 から転載。

2007-01-17 22:06:49

「『懺悔の年賀状』これからは天国から送ります」 池田政枝さんの一生/韓国・東亜日報 [社会]



「泣き喚きながら娘を探していた親たち、私をじっと見つめていた幼い少女たち、彼らの姿は私の中で大きくなっていく一方です」


日本の富山県富山市在住の澤田純三(78)さんは、毎年、こんな内容が書かれた年賀状の束を受け取ってきた。差出人は日本の植民地時代に韓国で小学校教師として勤めた池田政枝さんだった。


普通の年賀状と違う点は受取人が書かれていないことだ。名前の代わりに「知り合いに送ってください」という頼みが書かれた手紙が一緒に送られる。澤田さんが日本の強制動員で被害を被った韓国人への補償運動を展開していたため、同氏に発送を頼んだわけだ。


池田さんは毎年、このように知人らを通じて、1000通から1500通の年賀状を発送してきた。できるだけ多くの日本人が自分の告白と懺悔を読んで記憶させるためだった。


敗戦直前、日本の無軌道ぶりがピークに達していた1944年、ソウルの芳山(パンサン)小学校で日本語を教えていた池田さんは「女子生徒をできるだけ多く富山の軍需工場に送れ」という朝鮮総督府の指示を受けた。


日本の「皇国臣民論」に心酔していた池田さんは、他の日本人の教師とともに夜ごと生徒たちの家を訪問した。「日本に行けば、おなかいっぱいご飯も食べられるし、女学校にも通える」と、幼い弟子たちをたぶらかした。当時は、池田さんもそう信じていた。


彼の口車に乗せられた小学生6人は、翌年の3月、他の「勤労挺身隊」の少女100人あまりとともに、ソウル駅で「涙の列車」に乗った。


1945年8月、日本に敗戦した後、はじめて池田さんは自分がしでかしたことがどんな結果を招いたかを知った。彼は弟子らを探しに出た。


6人のうち5人が帰国していることは確認したが、弟子らは「日本であったことは考えたくもない」と言い、彼に会おうともしなかった。


1945年12月にようやく日本に帰った後、「韓国方面の空は見上げることさえできないほど」良心の呵責に苦しんでいた池田さんは、1991年4月になってやっと行方が分からなかった弟子1人の消息を風の便りで知った。彼は富山のあるテレビ局の企画取材班とともに3ヵ月間その弟子を探し歩き、韓国で弟子に会うことができた。心から謝罪する池田さんを弟子は恨まなかった。「先生は幸せですか?」と、静かに聞いただけだった。


真の謝罪の道を教えてくれたのは、数ヵ月後、弟子の娘から送られてきた手紙だった。「百回謝罪するより、行動するのが重要だ」という内容だった。その時から彼は自分が無邪気な幼い弟子たちに対して犯した罪を広く知らせるのに全力を尽くした。


「挺身隊動員は民間業者がしたことだ」と白を切る日本政府に向かって、池田さんは「戦時に生徒を挺身隊に動員したのは、逆らえない『天皇陛下』の命令だった」と叫んだ。


「罪を犯したまま死ぬわけにはいかない」と決心した池田さんは、自分の半生をつづった「二つの祖国」という本を出し、いろんな講演や集会で「日本人は植民地時代の朝鮮に有益なことをした」とする一部歴史学者の主張がいかにでたらめなものかを、肉声でまざまざと証言した。


50歳まで教師をしたおかげで受け取った年金は、最大限残して強制連行補償運動を展開する市民団体に寄付した。他の都市に証言のために行くときには、交通費を節約するため、いつも夜間バスを利用した。手紙の封筒もチラシを使って、自分で作った。


池田さんの証言は、挺身隊と日本軍慰安婦問題の責任逃れを図ってきた日本政府が事実を認め、公式謝罪をするようにした大きな契機の一つとなった。毎年送っていた懺悔の年賀状は、心臓病と高齢で体が不自由になった池田さんが、過ちの過去を美化しようとする傾向の日本社会に投げかける小さな警告だった。


毎年、池田さんの年賀状を人々に送ってきた澤田さんは、この間、知人との電話で、今年から年賀状が届くことは永遠にないことを知った。


池田さんは昨年12月4日、奈良県生駒市の自宅で一人で寂しい最期を迎えた。家の前に郵便物がたまるのをいぶかしんだ隣人が死後4日目にやっと彼の最後の姿を確認した。享年84歳。遺書は見つからなかった。


日本社会への池田さんの叫びは今も長い余韻を残している。


「日本の植民地時代は、過去のことではありません。私はその(支配の)一員でした。日本の若者は韓国の独立記念館を訪れ、被害者が書いた歴史を自分の目で確かめてください」

http://japan.donga.com/srv/service.php3?bicode=060000&biid=2007011325038

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和田です。
生駒市在住、植民地朝鮮の元教員・池田正枝さんが12月4日亡くなられました。
享年85歳でした。
 池田さんは一昨年秋から体調を崩し、昨年10月頃は持ち直し12月に亡くなら
れる前に、年賀状も準備されていたようです。亡くなられたことが分かったのは4
日後で、いわゆる「孤独死」でした。韓国「東亜日報」1月13日号は、東京特派
員記事で、2頁ページ目全面で池田さんの半生を伝えるなど、異例のことだったよ
うです。池田さんのことは日本より韓国でよく知られていることなのでしょうか。

 池田さんは植民地朝鮮に生まれ育ち、国民学校教員になられてから、教え子たち
を内地「女子挺身隊」に送り出すよう命令をうけ6人を送りました。(それも自分
で志願したように見せかけよ、との命令でした。)
 日本に引き揚げてから、小学教員や高校通信教育教員をしながら、そのことの責
任を考え続け、6人の安否を調べ続け、一人だけが長らく分からなかった。韓国で
やっと再会されたのですが、その娘さんからは「もう来ないで」と言われたそうです。
「女子挺身隊」の名目は工場労働でしたが、なかには「従軍慰安婦」にされた
ケースもあり、「挺身隊」と聞けば韓国ではそのように受けとられがちでした。
 池田さんは50歳で退職してからも、同和・障害児教育、野宿者支援、アムネス
ティ、韓国民主化運動支援、反戦平和の運動、各地講演やミニコミなどへの投稿、
など様々な運動に関わりつづけ、長文の年賀状は毎回1000〜2000通も出されたそう
です。
 何度となく韓国に赴き、オモニたちとも対談されましたが、「針のむしろ」の思
いだったでしょう。出征前に結婚した男性に、無事に復員して離婚を言い渡される
など、私生活面ではあまり恵まれず、以後独身でアパート暮らしでした。
 その自伝的な内容は、『二つのウリナラ(わが祖国)--21世紀の子どもたちへ』
(解放出版社)に書かれています。

 池田さんを知ってから長いですが、池田さんには私たちの知らない、たくさんの
人々との交流があったようです。池田さんを惜しんで、『二つのウリナラ』の聞き
手でもあった、生駒市在住ジャーナリスト・川瀬俊治さんらが、以下のように「偲
ぶ会」を計画されています。
◆池田正枝さんを偲ぶ会
 日時:3月18日(日)午後2時〜
 場所:奈良市男女共同参画センター(JR奈良駅西側)

以上、幾つかのメーリングリストと知り合いの方へBCCでお伝えします。
                           07/01/18 和田喜太郎

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