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日韓】竹島年表(補足)(島根県HP) 及び、前msgのURL
http://www.asyura2.com/0610/asia6/msg/432.html
投稿者 Kotetu 日時 2006 年 11 月 07 日 09:22:09: yWKbgBUfNLcrc
 

(回答先: 日韓】竹島年表 (島根県HP) 投稿者 Kotetu 日時 2006 年 11 月 07 日 08:56:03)

 竹島が発見された正確な年月は不明ですが、少なくとも江戸時代初期には日本人に知られていたようです。

元和4年(1618年)
 元和4年(1618年)米子の大谷甚吉、村川市兵衛という人たちが幕府から許可を得て鬱陵島(当時「竹島」と呼ばれていた)へ渡り、アワビ、アシカ等の漁猟、木竹の伐採などを行っていました。この鬱陵島へ渡る途中の寄港地として、また漁猟地として竹島(当時「松島」と呼ばれていた)を利用していました。

元禄9年(1696年)
 その後、江戸幕府は朝鮮との争いのため、元禄9年(1696年)鬱陵島への渡航を禁じこの島を放棄しましたが、竹島については日本の領土と考え渡航を禁じていませんでした。

明治16年(1883年)
 明治時代に入り、日本人による鬱陵島への渡航が再び始まりました。明治16年(1883年)には日本と朝鮮両国の通商に関する規則の成立により多くの漁民が鬱陵島に行くようになり、その途中竹島に寄港していました。明治20年代の終わりごろからは隠岐の島民たちが竹島でアワビ、アシカ等の漁猟に従事していました。

http://www.pref.shimane.jp/section/takesima/take4.html
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島根県HPの竹島年表http://www.pref.shimane.jp/section/takesima/take6.html の補足編です。

<コメント>

 本編の下記記述と比べると、じつに面白いですね。

1849(嘉永2年)
 フランスの捕鯨船リアンクール号竹島を発見
1904.9.29(明治37年)
 中井養三郎、内務・外務・農商務省に「りゃんこ島(竹島)領土編入並に貸下願」を提出  
 江戸時代に鎖国していたというのは建前であり、日本人は鬱陵島まで出かけていたのであります。
 ということは、朝鮮本土ともミツボウエキしてたのでしょうね。(^○^)

 で、朝鮮側からクレームが来て、あわてて禁制にしたのであります。それも、鬱陵島だけで、現竹島は含まなかった。
 これが、竹島日本領派の論拠の一つであります。

 もう一つ面白いのは、幕末から明治にかけて、日朝の国内争乱に乗じて、お上の許可なく鬱陵島まで入ってるのですね。
 これは、空島政策が建前だった朝鮮人も同様であり、同島は政府より先に日朝民間争乱の状態を呈したと思われまする。
 おそるべし民間活力でございます。


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