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二十一世紀における中日関係と歴史認識
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投稿者 ワヤクチャ 日時 2006 年 10 月 07 日 14:39:06: YdRawkln5F9XQ
 

二十一世紀における中日関係と歴史認識
http://homepage3.nifty.com/dokugasu/kaihou07/kaihou7016.html

歩平(黒龍江省社会科学院副委員長)

 九十年代に入ってから、かつて半世紀近く続いていた冷戦の局面が終結した。これは人類社会に対して一つの福音というべきものである。事実上、目下出現しているグローバル化の趨勢は、まさに冷戦の終結がもたらした発展の成果である。この発展の趨勢に応じて、世界の多くの地域で国境を超える交流が始まった。北東アジア地域の“環日本海研究”はつまりこのような交流の代表的なものである。“環日本海研究”を促進する積極的な努力のなかで、新潟の貢献は非常に大きく、この努力のなかで新潟自身も次第に国際都市となっていった。


近年来、新潟は「北東アジア地域の歴史像の共有」を呼びかけ、その見識も高いものがある。しかし、グローバル化が進むなかで、その趨勢に反する声も出てきた。それは狭隘な民族主義である。この狭隘な民族主義は、中国と日本の歴史問題の認識における相違を利用し、二十一世紀の中日関係と歴史像の共有志向とに悪影響を及ぼしている。


近年来、学術界で活発になった"自由主義史観"や"新しい歴史教科書をつくる会"および彼らが編纂した教科書はこのような狭隘な民族主義の典型的な現れである。


一 狭隘な民族主義の危険性


私は、中国と日本の間の距離は結局は“近い”のか、それとも“遠い”のかということを常に考えている。中国と日本は地理的距離からいえば、本当に近い。私がハルピンから飛行機に乗って新潟に到着するのに、たった二時間あまり必要なだけである。ハルピンから南方の広州までは、飛行機で四時間あまりかかる。日中両国間の文化からしても相当多くの共通点がある。言語が異なることを除いて、生活習慣の面でも共通点が非常に多い。ある時、私は広島で有名な“酔心”酒店で食事をした。店の壁には多くの“酒文化”にかかわる詩が掛かっていた。文字が異なることを除けば、それらの詩で使われている語彙や表現されている感情は中国側と少しも相違がない。私はかつて、これは過去の人々がよく言っていた“同文同種”のことであると思った。


 しかし、中日両国人民の心の距離からいえば、おそらくそのような感じはないであろう。戦時中のことは言う必要はないが、戦後の数十年のなかでも、心の溝は依然として取り除かれていない。それ故、両国間に些細な問題が起こるたびに、ある問題は例えば経済方面の矛盾で、本来は国際社会で十分よく見られる現象であるが、中日の間では簡単に深刻な政治問題が引き起こされ、人々はすぐにかつての戦争を思い出す。


中国の『中国青年報』と日本の『朝日新聞』は、かつて中日両国人民の相手国に対する感情についてアンケート調査を行った。いずれのアンケートも両国国民の溝がやはり深いということ、特に戦争が残した傷がまだ完全に癒えてはいないことを証明した。 これはどういう理由からなのか?実のところ、中日両国が交流した二千年あまりの歴史においては、友好の時代の方が長く、戦争の歴史はわずかに百年にも満たないのである。しかし、なぜ戦争の傷が現在でも両国人民の心の距離に影響しているのか?


ヨーロッパの歴史をみると、多くの国家間の戦争が数百年、ひいては千年にも及んだが、今日では“欧州連合(EU)”を造り上げている。ドイツとフランスの民族的対立も非常に深刻だったが、なぜ和解できたのか?私は主に戦争の歴史に対する認識に存在する相違に理由があるように思われる。とりわけ戦後の日本社会が固執した戦争の歴史観が原因になっていると思う。つまり戦争が終結してすでに半世紀あまり経って、戦後生まれの人口がすでに戦前生まれの人口を大幅に越え、現在の国際環境も戦時中とは明らかに異なり、両国間を往来して交流する機会や条件は以前とは比べものにならなくなった。 戦争の歴史に対する認識には、どのような相違が存在するのか?今年四月、日本の文部科学省の検定に合格した“新しい歴史教科書をつくる会”の編纂した教科書は、典型的な例である。“つくる会”はなぜそのような教科書を編纂しようとしたかというと、若者たちに“誇りをもてる日本”を認識させるためであった。


 戦争が終結して五十年あまり経った今日、日本社会は大きな折り返しの時期に面していて、多くの尖鋭化した矛盾や問題がある。とりわけ、九十年代に入ってからバブル経済の崩壊によって社会的な危機が激化し、社会の各方面ではいずれも緊張状態を呈している。“経済のグローバル化”や近年発生したアジアの金融危機の日本社会に対する衝撃も相当激しい。このような情勢下で、若者の退廃的で消極的な生き方は深刻である。彼らは一般に社会に対して無関心であり、日本の教育の危機があらわになっている。このような社会的現象に対し、学者が経済や社会の問題を解決する方法を提起することは、至極当たり前のことである。しかし同時に非常な苛立ちから、落ち着きなく社会矛盾を解決しようとする衝動も増えてきている。このような衝動こそが自由主義史観である。


 自由主義史観は次のことを強調して述べている。彼らは現代日本の社会問題に対する関心から、彼らは日本の若者が社会に対して責任を負うことを望んでいる。つまり、彼らは若者の社会的な責任感が希薄であるという現状に不満を感じている。このことは確かに社会問題である。中国でも、近年来経済の発展につれて、社会の道徳意識および国民の社会的責任感も明らかに希薄になっている。日本が市場経済に入った時期は中国よりもずいぶん早く、多くの社会問題が出現するのも必然的かもしれない。問題はどのようにして若者の社会に対する関心を喚起するか、彼らの社会的責任感を喚起するかである。社会は関心を集めなければならないし、政府は検討を行わなければならない。先生や学者はさらに当然負うべき責任がある。しかし、この問題を解決する上で、自由主義史観はよい方法を取り出してはいない。逆に戦時中の日本の“神風”精神を提起して狭隘な民族主義精神に満ちた“つくる会”の教科書を編纂した。


 狭隘な民族主義精神に満ちた“つくる会”の教科書は、多く、戦前や戦時中と同様な記述をし、戦争の歴史に対する認識も完全に過去の立場に立っている。戦前の“大日本帝国憲法”を高く評価したり、すでに廃止された“教育勅語”を是認したり、特攻隊員の遺書を引用して彼らの国家に対する献身的な精神を鼓吹したり、侵略戦争の本質を否定し、依然として超国家主義の“大東亜精神”をたたえている。


 日本の戦前の“国定”教科書は狭隘な民族主義?国家主義の満ちた教科書であり、後に狭隘な民族主義と国家主義の発展は、超国家主義とファシズムとなった。そのような教科書で育てられた日本の青年が、“二・二六事件”を起こしたり、“九・一八事変”を起こしたり、“盧溝橋事変”を起こしたりして、日本を戦争へと駆り立てた。これによって“南京大虐殺”が起こされ、“細菌部隊による人体実験”があり、“従軍慰安婦”があり、広島と長崎の原子爆弾の爆発があり、そこで“東京大空襲”があり、“沖縄戦”があり、三百万の日本人を含めアジア数千万人の犠牲が生まれた。このことからわかるように、狭隘な民族主義?国家主義に満ちた教科書を用いて教育を受けた日本の若者が戦争を引き起こしたことは、痛ましい歴史の教訓である。今、狭隘な民族主義精神に満ちた“つくる会”の教科書を用いて日本の若者を教育することで、本当に日本をアジアと世界各国に認められる政治大国になることができるだろうか?本当に日本の国際社会における地位と威信を高めることができるだろうか?私の答えは“NO”である。そしてこのような教科書を使っては、決して歴史像の共有を探ることはできない。


二 どのようにしたら歴史像の共有を打ち立てられるのか?


それでは、どのような教科書を用いて、我々の若者を教育すべきか。どのようにしたら我々は歴史像の共有を実現できるのだろうか。私は“相互理解”の行動と“相互理解”を促す教科書を用いるべきだと考える。“相互理解”について、私はまず自分自身の経験を話そうと思う。私は戦後生まれだが子供の頃から、本・絵・新聞・映画などの様々なルートから戦争の残酷さ、特に日本が中国を侵略した残虐さ知った。戦争を経験したことのある先達は常に自分が戦争で受けた被害を例にして、後代の人を教育している。中国人は基本的にこのような環境で戦争についての認識をつくってきた。私の父は当時中国の首都であった重慶にいた。父は私に“重慶大空襲”の様子について語った。なぜなら、彼のよく知っている友人がその空襲で犠牲になったからであった。それ故、子供の頃から、日本人にあったことがなかったにもかかわらず、“日本の鬼”というイメージがずっと私の頭の中にあって、しかもそれは相当に強かった。


 1986年に初めて日本を訪れた。その時東京あるいは京都、東北の仙台や山形、日本海沿岸の新潟や金沢で、私はいずれも不思議な現象を見た。各地の寺院や神社ではいずれも広島や長崎の原子爆弾の被爆を追悼する祭壇があった。その時、私は鬼のような人が何故そのように自分の被害を強調するのかわからなかった。中国人として私は感情の上でそれを受け入れにくかった。私が思うに、私ばかりでなく、多くの外国人、特にアジアの人は初めて日本に来た時、そのような考えを持つのが一般的かもしれない。


 1994年、私が日本を訪れた時、私は広島で原爆資料館を見学した。以前、私もかつて広島や長崎の原子爆弾のた写真を見たことがあり、広島の円形の屋根の“ドーム”が爆撃された光景を覚えていた。しかし、結局は外国人であり、日本人の身をもって体験したわけではないのである。その時資料館の中で私は、原子爆弾が投下された時の光景を見て、絶対多数の被害者が直接戦争に参加していない女性や子供であることを知った。彼らが全身血まみれになって廃墟の中をもがいている姿は、私にいままでにない震動を感じさせた。私が最も印象深かったのは、資料館に展示してあった被爆した学生たちの死後に残された黒く焼け焦げた弁当箱や焼けたカバン・衣服であった。私はまだ、広島県第二中学校の折勉滋くんが被爆した後の黒く焼け焦げた弁当箱を覚えてる。私は、その場所に長い間立ち、それらの遺物を見て、それらの天真爛漫な子供たちが喜んで通学路を歩いていたのが見えるようであり、小学校に入学したばかりの私の娘をも思い出した。子供には罪はないのに、被害を受けたのは彼らであった。さらには、皮膚をやけどしたり、放射能を浴びたそれらの女性は、彼女たちは戦場で人を殺していないのに、戦争がもたらした飢餓や貧困の犠牲となり、戦争の被害者となった。ある日の晩、私は数人の日本人の友人と竹原市大久野島国民休暇村の和風旅館に泊まった。そのうち二人は、かつて広島の被害者を救護する活動に参加したことがあった。彼らは私に当時の悲惨な光景、特に女性と子供の苦難を説明してくれた。我々は一つの部屋で、お酒を飲みながら戦争と平和の話題を話し、翌日の午前三時までずっと話した。その時から、私は日本各地で被爆者を追悼する理由がわかり始め、日本人の被害者意識や日本人の“東京大空襲”や“沖縄作戦”に対する認識を理解した。その時から、広島の被爆者の祭壇を見ると私も両手を合わせて追悼の念を表すようになった。このような経験は以下のことを説明している。中国人は日本人の戦争における被害を認めないのではない。問題は彼らが原子爆弾の被害を経験していないことにある。


私がもし日本に来る経験がなかったら、もし広島の原爆資料館を見学しなかったら、もし多くの日本人との交流がなかったら、日本国民の戦争の被害についての感情を理解することはできなかったろう。戦争の被害者であるという意識は多くの一般の日本人の普通の意識である。同様に多くの日本人は、中国人の戦争における被害を深く理解することができないし、中国人の戦争の被害者としての認識や感情がわからない。したがって、彼らが中国人に自分の被害を強調した時には、中国人の理解を得ることはできない。絶対多数の中国人は、日本の加害の角度や自身が被害を受けた角度からその戦争を理解しているのであり、故に、中国ではその戦争を“抗日戦争”と呼ぶ。中国人の被害はいずれも、日本の軍隊が中国の領土にやってきてつくったものである。これは、非常に明らかな事実である。中国では、日本の侵略戦争の被害といえば、子供でも知っている常識である。なぜなら彼らの祖父母、彼らの父母および彼らの先生が、自ずと彼らにその事実を話せるからである。しかし、決してすべての日本人がみな中国人のこのような感情をわかるのではない。なぜなら彼らは戦争の真実の条件を知らないからである。


 多くの日本の友人は、みな私に次のような体験を話してくれた。戦時中、彼らは身内を亡くし、自身も飢餓や危険の中にいた。敗戦時に彼らがまず思ったことは、「ああ戦争が終わった」ということであり、自身の苦難が終わったということであった。明らかに、これは被害者の角度から戦争を理解しているのであり、日本人はこのような被害の意識が強いのである。藤原彰先生も次のようなことを話したことがある。日本が敗れた時、一般の日本人は身内が殺されたことを経験し、家も廃墟となって、飢餓や苦難の生活を送った。これが彼らに非常に強い被害者の意識をつくった。故に8月15日を終戦記念日とする意図が非常によくわかる。彼らはただ苦難の戦争がようやく終わり、つまりは安心してひと休みすることができるようになった、と考えた。しかし、その時、まさに日本の敗戦によって、アジア各国人民の苦難も終わったということを考えた人は非常に少なかった。つまり、アジア各国人民は、日本の加害の角度から戦争を理解しているのであって、これは日本人の認識が希薄なところである。聞くところによれば、戦後日本の中学生はほとんどが修学旅行の時などで広島へ行ったことがあり、原爆資料館を見学したことがあり、したがって当然子供の頃から深い戦争被害の意識が造りあげられている。中国人と日本人は完全に異なる社会環境にあって、互いの歴史認識に相当大きな相違を造りだしている。経験は我々に、多くの場合に本国人から見て常識的な問題であっても、外国人にとっては非常に新鮮に感じるということを教えてくれる。この意味で、重要な問題は相互理解である。相互理解があって、ようやく歴史の共同像を打ち立てることは可能になる。


三 国境を越える努力人類社会は、グローバル化に向かって発展しているが、国家はいずれにせよ存在している。


相互理解と歴史の共同像を打ち立てるために人々は国境を越えなければならない。国境を越える努力は、多種多様のやり方がある。新潟をはじめとする環日本海研究もつまりは国境を越える努力である。“環日本海研究”というと経済が第一目的と考えている人もいるが、それは誤解である。この誤解を取り除くために、渋谷武先生は十年余りの時間を割いて、環日本海の“協生”理論を創り出した。去年、新潟大学の古厩忠夫先生は私を招いて新潟大学の学生に“中国東北と中日戦争”の講義をする機会を作って下さった。これらはいずれも一つの国境を越える努力である。 私は、日本の学生が中国の学生と同じように平和を希望し、戦争に反対していることを知っているが、彼らは結局日本で生活し、戦争の被害者意識がとても強い社会で生きている。自由主義史観が相当な影響力を持っている今日、日本の学生たちは中国人の先生の講義を受け入れてくれるかどうか?私は当初心配であった。しかし、集中講義は最もよい相互理解の機会であるから、私はやはり中国人の戦争被害の意識を日本の学生たちに話そうと思った。日本の学術研究も含めて、講義は実証性を重視して行った。それ故、私は、学生たちに講義の時に現実感を与えるために、常日頃研究で収集した写真やビデオ資料をCDに記録した。 受講生は、新潟大学人文学部と経済学部の学部生から大学院生までで、中国と南アフリカの留学生一名づつ除いて、他はみな日本人であった。毎日朝九時から午後五時まで、昼食をとる一時間を除いて、授業を続けた。当然、授業や休憩時間の時に我々は、広範な雑談をした。特に、戦争の“被害”と“加害”、民族主義の問題について討論を行った。一週間後、テストを行った。私は、問題を四題出した。そのうち三題はわりと簡単な問題で、A・B・Cの中から正解の答えを選択すれば、よいものである。


第四問目は、学生たちに受講しての自分の感想を書かせた。日本の大学生は、回答するのに一様に鉛筆を用い、答案用紙を手にとると回答に没頭し、静かな教室では"カツ、カツ、カツ"という鉛筆が机にあたる音が聞こえるのみであった。時間前に答案用紙を提出する人はほとんどおらず、みな二時間費やした。 私は学生たちの感想を読んで、大きな感銘を受けた。学生たちの感想から、日本の学生たちも本当に戦争を嫌い、戦争に反対で、平和を歓迎していることが見出せた。彼らは原子爆弾に対する被害者意識がとても強いが、中国人が戦争で受けた傷を知り、本当に理解した時には、みな深い同情心をもつようになった。


 Oくんは次のように書いた。“ようやく中日間で毒ガス弾の処理が始まった。これは、先人たちの残したあまりにも大きな負の遺産である。人類は戦争というおそましさを二十世紀に体験した。二十世紀は戦争の時代であった。各国とも戦争回避のブレーキシステムがうまく作動しなかった。二十一世紀に向けて時間が流れていく中で、二十世紀の負の遺産(例えば遺棄弾処理)を背負うかもしれない。大量殺戮禁止条約(1993)などの条約を結び、人間が人間として対等に交流できる二十一世紀システムを構築しなければならない。今後は、日中間の「不幸な時代」を乗り越えて、人と人との交流を多くの分野で積み重ねていきたいものである。” Kくんは次のように書いた。“この授業を聴講する前までは、アジア太平洋戦争において日本がアメリカに原爆を投下され、敗戦国となったのは日本が国際秩序を乱したので当然だと思っていたが、日本人の中でも、その原爆の被害者となった人たちもいるし、毒ガスの製造で命を落とした人もいるのである。その人の気持ちになると国際法で使ってはならないとある原爆を使ったアメリカも悪いという気がある。しかし、日本も使ってはならない毒ガスや細菌兵器を中国において使用したことも決して許されないことである。”


 Oさんは、次のように書いた。“もし先生の講義を聴かなかったら、平和に対する希望がやはりぼんやりとしていたかもしれません。今回講義を聴いて、平和に対する要求が特に強くなりました。” 多くの学生が中国人の戦争被害と戦後の被害に、確かに悲しみと同情を示した。Iさんは、次のように書いた。“化学兵器の問題に関しても、残留孤児や婦人の問題に関しても、中国ではまだ被害が続いており、またこれからも続く可能性があります。その意味で、まだ本当に戦争が終わったわけではないと思います。しかし、日本にはそういった被害の状況が伝わりにくいのです。だから日本では戦争はもう終わったのだという意識があります。この違いは大きな歴史認識の差だと思います。” 私が特に感動したのは、学生たちがより高くより広い立場に立って問題を考えたことである。Wさんは次のように書いた。“今日の日本は西洋にばかり目をむけるのではなく、日本がアジアにおいてどのような立場にあるのかを考える必要がある。それには過去に犯した罪を償う必要がある。日本の国家として正式な謝罪がないことを私は恥ずかしく思う。” Nさんも日本人は被害意識が強いが、加害の意識が希薄な問題を知っていた。彼女は次のように書いた。“毎年原爆記念日や終戦記念日の前になると、テレビではよく第二次世界大戦についての番組が放映される。そこでは、疎開した子供たちが食糧不足のために栄養失調になった話や、空襲でどんな悲惨な状況になったか、沖縄でどれだけの人が死に追いやられてしまったかなど、日本が受けた被害(アメリカから受けた被害や、軍国主義ゆえの被害)にスポットが当てられる。それによって、「戦争は二度と起こしてはならない」というメッセージが伝えられる。しかし、日本が他国へ与えた加害については述べられることはほとんどない。日本人の多くは、戦時中、日本が海外でどのようなことをしてきたのか知らずに生活している。”


Iさんは次のように書いた。“日本の残虐行為は表面的に知るにとどめてきた。例えば、「南京大虐殺」という言葉は知っていても、どんな被害を与え、どんな行為をしたのか、具体的にはよく知らなかった。今回の講義では、結局は何を使って、どんな被害があったのかについてよくわかった。「満州移民」についても同様で、具体的な事実は知らなかった。自分たちの祖先がしたことを正確に認識してからでないと、中国に対する真の反省はありえない。” 特に歴史認識の問題が生まれる大きな原因が、相互理解の機会がないことだと知っている学生もいた。Sさんは次のように書いた。“被害者への補償問題も、日本が真剣に取り組まなければならない問題だと思います。また今回先生が日本人は加害者であると同時に被害者であるとおっしゃったことにとても感動しました。このような見方をしてくれる中国人はとても少ないです。” Tくんは次のように書いた。“日本の教科書では日本人の被害はある程度のページを使って記述があるが、日本の加害の行為については記述がほとんどない。私は日本の受けた被害について学ぶことも必要だと思うが、それ以上に加害行為について学ぶべきだと思う。日本の政府は加害行為を隠そう、認めたくない、そのような態度があるように思えてならない。しかし、それでは正しい歴史認識を造ることはできない。日本の加害行為は恥ずべきことであり、そして残虐なものである。しかしこれらは歴史的事実として受け止めていかなければならない。正しい歴史認識を持って、お互いに交流や友好関係が発展するのではなかろうか?”


Hくんは次のように書いた。“共通の歴史認識というのは果たして可能であろうか?という疑問があります。歴史認識というのは、必ず何らかの立場に立ってこそ持てるのであって、客観的な誰もが納得できる歴史認識が仮にあったとしても、それに意味はあるのか、と思っています。ただ僕が言いたいことは、共通の歴史認識が不可能だから駄目だという事ではなくて、お互いに立っている立場が違うからこそお互いの、ここでは日中のおかれている立場をそれぞれ尊重し、理解しあう努力をし続けるべきなのだと思います。ただそこで、間違えてはならないのは、ちゃんとした歴史事実を自分たちの都合に合わせて無視したり、歪曲したりするようであれば、最初の前提自体が成り立たず、そこから相互理解することは不可能になってしまいます。そういう点で、僕たちは感情的になる前に、一つ一つの具体的歴史事実を確認していく必要があります。” 私は、学生たちに“加害”の歴史をきちんと認識することができたら、必ず対話を通じて心の上での“相互”交流に達するはずであると指摘した。ほとんどの学生の感想には、中国人の先生が日本の民衆の戦時中の被害を認識していたことは自分たちを特に感動させた、と書いていた。Oさんは次のように書いた。“私は今後の日本と中国の友好関係を考えていく上で、こういった歴史の真実を知らないことはよくないことだと思います。講義を受ける前と後では、私の考えに大きな変化がありました。先生がこのような日本軍の犯した残虐な歴史を研究しながらも、日本の学生に対し非常に友好的で、これが結局のところ「相互理解」なのであり、それはとても理想的な姿勢だと思いました。私は講義だけでなく、そういう姿勢も合わせて、多くのことを学ぶことができました。” Eくんは次のように書いた。“先生が自身の歴史認識について語ってくださったのも、私が日頃から疑問を感じている中国人の歴史認識のあり方、それを明確な形で理解する助けとなり、これが一番の収穫であったと思う。日中両国における歴史認識の相違というのは、どうしてそのような認識を持つに至ったのかという、その理由をお互いが知らないことによって起こるものであろう。先生が原爆関係の記念碑を見て感じられた反感、そして原爆資料館を見ての認識の変化、そして新しい視点からの歴史認識が生まれてくる過程は健全な中国人の歴史認識がどのように形成されるかを知る貴重な資料として、多くの日本人に知られるべきものである。これから先生は数多く日本で講義を行う機会を得られるであろうが、中国の歴史認識がどのようなもので、そしてどのような環境で、どのような過程を経て形成されたかということを、一人でも多くの日本人に知らしめていくことを、私は期待してやまない。これからの日本、中国での近現代史の研究は、お互いの歴史認識へのしっかりとして理解がその前提として存在しなければならない。これは大変重要であると共に、また大変難しいことである。先生の講義が今後の相互理解に大きな役割を果たすことを私は信じている。” Kくんは次のように書いた。“日本人が中国に大東亜の代表だと言い張って侵入し、人道的にしてはならないことをされた中国人は、日本人に対して憎しみの感情しかないと思っていた。しかし、中国人にも日本の原爆を投下されたことを被害者だと思ってくれる人がいる。日中の大きくいえば全世界が相互に理解するためには、お互いにその歴史を事実として認識し、お互いの立場に立って考えることが必要だと思う。” 学生たちは歴史事実を知った後、狭隘な民族主義の問題について冷静な認識を持っていた。Wさんは次のように書いた。“「自由主義史観」については、私も否定したい。それは日本の従来の歴史教育を「自虐史観」だとか「東京裁判史観」だと述べているが、元々の戦争の根底にあるものを討論していない。相手の国を侵略したことを反省するのは自虐ではない。戦争という名の下で行われた非人道的行為そのものを肯定しているとアジア諸国が唱えるのも無理のないことである。アジアの中で日本が孤立しかねないと感じられる。”Iさんは次のように書いた。“「歴史認識」こそ最も重要だと考えている。私は戦後に生まれ、天皇の存在ももはや言葉通り、「象徴」でしかない。私には以前「日本は何もかも謝らねばならない」という意識がなく、日本の侵略は過去の人たちがやったことであり、私たちは中国人と新しい関係を築いていくことを考えるべきで、過去の人たちの歴史を背負う必要はないと考えていた。講義の後、私は、私たちが背負うべきものは「罪」ではなく、「歴史事実」であると思え、つまりはその歴史事実を認めて解釈しなければならないのである。私は、そのような認識が中国やその他各国の人との出会いや交流をもたらしてくれることを望んでいる。“ Sくんは次のように書いた。“先生は最近の日本における「自由主義史観」の影響の問題を話したが、自由主義史観をもった人々は、例えば戦時中に日本が中国や朝鮮、アジア諸国に行った残虐行為について謝罪や反省することを「自虐」と思い、戦時中の日本の行為を否定するどころか、美化しようとさえする。各国、各民族はどのように過去の歴史を記すべきか?「自由主義史観」は、当時、日本経済に問題があったから中国との戦争が必要であったと考えている。このような見方に何の根拠があるのか?一人の人間に置き換えて考えてみれば、彼は貧乏だからといって他人の家へ行って他人の物を盗んでもよいのか?したがって自由主義史観は、強盗の行為を正当化する歴史観であり、当然正しいとはいえない。” 学生たちの感想はもっとたくさんあって、とても深かった。私は彼らの感想を見て、多くのことを考えた。


中国では常に、“前事不忘,後事之師(過去のことを忘れないで、将来の戒めとする)”あるいは“以史為鑑(歴史を鑑=カガミとする)”という精神で、中日関係の歴史を研究する重要性を説明している。そういう場合、当然特に中日戦争の歴史を指している。


しかし日本のいくらかの人たちはそれを理解せずに、彼らは中国人が歴史問題を提起するのは日本に政治的圧力を加えることだと思っている。戦争責任の問題を考えることについては、ある種本能的に反発する気持ちがある。 実際のところ、我々が中日戦争の問題を研究することで、日本との距離が広がるとは絶対に思わないし、当然中日の民族間の溝は深まりはしない。我々は戦争が再び起こらないように、戦争の起こる原因を取り除くために、軍国主義思想を消滅させるのである。したがってこの問題を解決するために我々は、日本の国民と共同で考える必要がある。しかし、なぜ日本人に理解できないことがある時、我々と共同で考えようとせず、甚だしきに至っては本能的に反発する気持ちを持つのか?確かに日本人の中には“大東亜戦争史観”に固執したり、戦争での犯罪を認めようとしない人もいることは、否定できない。しかし、そういう人は決して日本人全体を代表しているのではない。もしそうだったら、なぜ新潟大学の学生たちがわずか一週間の学習の後に、加害"責任の認識を持つことができようか?だから鍵となる問題は、対話と相互理解の機会をつくれるかどうかにかかっている。


二十一世紀はすでに到来し、人類社会の発展および中日両国と北東アジアの国際関係もさらに新しいチャンスと挑戦に面している。学生たちの感想を見て、私は将来に対し確信を持つことができた。我々は一緒に努力し、中日両国の相互理解を促進し、北東アジアの歴史像の共有を促そうではないか。

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