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Re: ヨーロッパ・ピクニック計画は多少参考になるかもしれません
http://www.asyura2.com/0610/asia6/msg/128.html
投稿者 こげぱん 日時 2006 年 10 月 03 日 22:04:28: okIfuH5uFf.Lk
 

(回答先: Re: 個人的には、金正日政権は崩壊させたいですが・・・ 投稿者 Kotetu 日時 2006 年 10 月 03 日 15:46:34)

http://www.city.kazuno.akita.jp/kokusai/sopron/picnik.html

ヨーロッパ・ピクニック計画

ベルリンの壁崩壊はショプロンではじまった。
東ドイツ元首相 ロタール・デ・マイツィエーレ

ブランデンブルク凱旋門の立っている土は、ハンガリーのそれである。
西ドイツ元首相 ヘルムート・コール

ハンガリー政府は、1988年にネメート・ミクローシュを首相とする新政権が誕生して以来、民主化に積極的に取り組んでいました。民主化を求める世論の強い力に圧され、88年の海外旅行の自由化をはじめ、翌89年5月2日には国境に張りめぐらされた高電圧鉄条網(ヨーロッパの東西を分断してきた「鉄のカーテン」)を撤去するなど、西欧社会への復帰を世界に示しました。そうする間にも、民主化に取り組む市民団体の運動はブダペストから全国に波及し、世界をあっと言わせた「ヨーロッパ・ピクニック計画」が計画されたのでした。

計画の中心人物は、民主化を進めていた組織の中でも最も大きなグループであった「民主フォーラム(Hungarian Democratic Forum)」の幹部フィリップ・マリアでした。彼女が属する「民主フォーラム」デブレツェン支部は、ショプロン支部の仲間に1989年8月19日に、かつて堅く閉ざされていた国境の地で「国境のないひとつのヨーロッパ」という考えを広めるプログラムを実行するつもりであることを伝えました。この思い付きは、そもそも同年5月に、ハンガリーの民主化政策にずっと注目していたオーストリアのハプスブルグ家当主オットー・ハプスブルグとフィレップ・マーリアがデブレツェンで秘密裏に会談したとき、持ち上がったものでした。

「ヨーロッパ・ピクニック計画」は、民主化を目指す4つのグループ(民主フォーラム/MDF、自由民主同盟/SZDSZ、青年民主同盟/FIDESZ、独立小地主党/FKgP)の協力のもとに組織されました。その理由には、単に問題の大きさがそうさせたというだけでなく、既にショプロンでは民主化グループが共通の目的に向けて行動するための円卓会議が設けられていたことが挙げられます。

ショプロンは、ハンガリー領土がオーストリア側に大きく張り出した、東西を結ぶ街道の街であり、全ての道が国境に通じます。ハンガリーにおける「鉄のカーテン」撤去のニュースを受け、多くの東ドイツ市民がバカンスと称してハンガリーに入国し、西側への脱出を探ってショプロンの国境地帯に集結していましたが、「鉄のカーテン」は撤去されたものの、依然、国境警備隊の警備が厳しく、脱出は思うに任せませんでした。数日の協議ののち、最初は身内の小集会と考えられてきた「ピクニック」の企画は、あらゆる地域の人々が集まって将来の欧州統合について語り合う大集会「ヨーロッパ・ピクニック」として実施されることになりました。人々は、ショプロンの郊外にある、戦後40年開かれることのなかった国境の門に注目し、これを開放させることを考えたのです。

この門を開けるよう援助を求められた当時の政治改革相ポジュガイ・イムレは、それを断らず、「これは単なる会議を装いながら、白昼堂々東ドイツ市民を脱走させ、鉄のカーテンを無意味なものにする絶好のチャンスである」と考え、内務省に門を少しの間だけ開けるよう要請しました。主催者側は、これと同時に、東ドイツ人のキャンプやホテルに連絡を付け、「ピクニック」に行けば西に出られる」と伝えたのでした。

果たして1989年8月19日午後3時、集会は開かれ、大群衆(今日では15,000〜20,000人といわれている)が詰めかけ、計画をはるかに上回る熱狂と情熱で、残されていた鉄のカーテンを破壊してしまいました。「ピクニック」はまさにお祭り騒ぎとなり、政府の許可を得て行われた国境の象徴的開放のすきに、1,000人を超える東ドイツ人がなだれ込むように国境を越え西側に脱出しました。こうして「パン・ヨーロッパ・ピクニック(汎ヨーロッパ・ピクニック)」は世界史上に残る出来事となりました。

これが、後に「ベルリンの壁」の崩壊、ドイツ統一のきっかけとなった「ヨーロッパ・ピクニック計画」の全貌です。(このときの国境突破の記録は、タマーシュ・ロベンヴァインの写真、ジェルジ・カールパーティのビデオにより永久のものとなっています。)

ハンガリー政府のその後の対応も忘れてはなりません。公式記録によれば、1989年秋、ハンガリーにはおよそ60,000人の東ドイツ市民が滞在許可の期限が切れたまま難民キャンプに収容されていました。それまでも、東ドイツ市民は、「自由の国」を目指してこっそりと「グリーン・ボーダー(緑の国境:ショプロン郊外の森を意味する)」を乗り越えていましたが、政府は「東欧世界がパンクした」ことを事実として受け止め、東ドイツからの国交断絶を覚悟で、ハンガリーに対する処罰をしないことを条件としたハンガリー国内の東ドイツ人強制送還要請を退け、国境を東ドイツの人々に解放し続けることを決断したのです。

この決断が、各東欧諸国に大きな影響を与えることになり、民主化を波及させていったことは周知のとおりです。東ドイツでは、同年11月初め、自由への欲求が爆発し、数百万人のデモが起きました。党首ホーネッカーは、ベルリンの壁は今後100年はもつといいましたが、それもむなしく11月10日、ベルリンの壁は人民の手で打ち壊されたのです。

wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%8E%E3%83%A8%E3%83%BC%E3%83%AD%E3%83%83%E3%83%91%E3%83%BB%E3%83%94%E3%82%AF%E3%83%8B%E3%83%83%E3%82%AF

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上記記事は、鉄のカーテンが開いた1989年の大イベント「ヨーロッパ・ピクニック」についての説明です。もちろん、洗脳ともいってもよい北朝鮮国内の情報封鎖や周辺諸国の情勢、そして何よりヨーロッパ・ピクニックに対する大所高所からの支援−ヨーロッパ・ピクニックは、オットー・フォン・ハプスブルクからの支援があったが、現在の北朝鮮はグローバリストと連携している気配がある−を考えれば、当時のハンガリーと現在の北朝鮮を同列に並べることは無理があります。ただ、「独裁政権最大の敵は人民である」ということを明確に示した点では、ヨーロッパ・ピクニックは北朝鮮問題に何らかの示唆を与える出来事であったかもしれません。

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