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" 現代メディアは日々、多量化している。 連日ニューメディアがあふれ、日常を捕縛する力も強まっている。 家の外のメディアを意味する「OOH(Out Of Home)」メディア環境はもはや新しい用語でない。 モバイル、無線インターネットは基本だ。 街中、地下鉄、公衆トイレ、自動販売機、ディスカウント店のレジに設置されたテレビは、休む間もなく映像を送り出している。
メディア過飽和の結果は「情報と刺激の過剰」だ。 「現在の人々が1週間に見るドラマの量は、昔の人たちが一生に見た量よりも多い」という言葉(レイモンド・ウィリアムス)を改めて実感するほどだ。 個別メディアも過剰を志向する。 放送中に画面の下に「付加情報字幕」を送り続けるテレビがそうだ。 受ける側もやはりより多くの刺激を望む。 携帯電話を身体の一部とし、24時間遊びに慣れた‘デジタルキッズ’は、一刻もこのおもちゃを手放すことができない。 デジタルキッズにとって刺激・面白さ・暇つぶしになるものが無いというのは‘災難’だ。
メディア学者トッド・ギトリンは著書『無限メディア(Media Unlimited)』で、メディアが提供する「感情の過剰」に注目する。 メディア過飽和を批判する彼は「もっと大きな問題は、メディアがなければ我々が敢えて感じなくてもよい感情を急流のように注ぎ込み、われわれの生活を不必要な飽和状態にすることだ」と書いた。 しかし逆説的に視聴者が望むのも‘感覚的満足’だ。 「米同時テロ事件でも人々はただ事実を知るためではなく、恐怖や悲しみ、憐憫、安心などを感じようとテレビを視聴した」(同書)。
ギトリンによると、感情の社会学的意味に最も最初に注目したのはドイツの社会学者ゲオルグ・ジンメルだ。 彼は、すべてのものが貨幣価値に転換される市場経済の出現が大衆の冷笑主義を招いたが、逆に人為的な刺激と興奮がもっと必要になるはずだ、と予測した。
ギトリンは「市場的思考が急増した18世紀、逆に内密な感情に注意を傾けるロマン主義が胎動した。…計算の時代である近代は感情に献身する文化を作りだした」と書いた。 もちろんこの時の感情はいつでも捨てることができる一回限りの感情だ。 実際の生活とは関係がない偽の感情である。
過剰メディアが送り出す過剰刺激に酔い、感情過剰状態で生きているが、気付いてみると本当の自分の感情ではないということだ。 生活の経験がすなわちメディア経験である‘メディア時代’、この偽の感情から抜け出す道は容易でなさそうだ。 ギトリンの洞察が興味深い半面、憂鬱になる理由でもある。
ヤン・ソンヒ文化スポーツ部門記者 "
http://japanese.joins.com/article/article.php?aid=80381&servcode=100§code=120