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□アメリカの対ソマリア工作の失敗 [ル・モンド・ディプロマティーク]
http://www.diplo.jp/articles06/0609-3.html
アメリカの対ソマリア工作の失敗
ジェラール・プリュニエ(Gerard Prunier)
フランス国立学術研究センター(パリ)研究員、
エチオピア研究フランス・センター(アジスアベバ)所長
訳・斎藤かぐみ
2006年春、「国際社会」はにわかにソマリアへの関心を取り戻した。首都モガデシオがイスラム法廷連合の手に落ちるまで、この国はすっかり忘れ去られていた。国際的な熱意が薄れたきっかけは、1992年から95年にかけて実施され、失敗に終わった国連の軍事的「人道支援」作戦である。
2004年10月以降、ソマリアには国際的に承認された名目上の政府があった。この暫定連邦政府は、当初ケニアの首都ナイロビ、次いでソマリア国内のバイドアに拠点をおいた。「軍閥」が掌握するモガデシオに政府を樹立するのは不可能だった。暫定連邦政府は、1991年のバーレ独裁政権崩壊に続く内戦が生み出した政治的空白を埋めるべく、数年にわたる駆け引きを経て設置された。だが、国際的な承認はあっても、自国内では何の権威ももっていなかった。しかも、政府は内側でも、大統領のアブドゥラヒ・ユスフ大佐、首相のアリ・ムハンマド・ゲディ、国会議長のシャリフ・ハサン・シャイフ・アダンの個人的な確執に引き裂かれていた。
プントランドのマジャーティーン支族の部隊を除き(1)、暫定政府には信頼に足る軍事力もなかった。2006年6月以前のソマリアは、1991年の国家崩壊によって生まれた軍閥や、氏族単位の武装集団が実効支配していた。その何人もが政府の「閣僚」に起用されたが、状況は変わらなかった。これらの勢力は、ドラッグ中毒の者もかなりいる不良青年「モーリャーン」の加勢を得て、モガディシオはじめ国内各地を恐るべき無政府状態に陥れた。軍閥の兵員は給料をほとんど受け取っておらず、武力を頼みに盗みや誘拐、強姦や殺傷に走った。その一方で、首領はビジネスで大儲けしていた。ハイな気分にする植物「カート」の密輸、海賊行為、家畜の密輸、携帯電話ビジネスなどだ。
こうした無政府状態を前にして、政治的イスラムを唱える集団が1996年にイスラム法廷の創設を開始する。2002年以後はイスラム法廷連合として糾合され、シャイフ・シャリフ・シャイフ・アハメドを指導者とした。ソマリアで決定的な要因となる氏族の観点から分析すると、法廷の大半はハウィヤ氏族とハブル・ゲディル氏族が支配している。この実態は、いずれイスラム運動のうちに問題を引き起こすことになるだろう。多数を占めるのはハウィヤ氏族だが、内部に対立を抱えているうえ(暫定連邦政府のゲディ首相もハウィヤである)、支配地は中部に限られている。またイスラム法廷連合は、政治的には2カ月前まで、穏健なムスリム、アル・カイダに同調する急進派、ビジネス上の契約が何より大事という実業家からなる混成集団だった。
彼らに権力への道が開かれたのは、アメリカのとんでもない失策による。中央情報局(CIA)はソマリアがアフガニスタンの二の舞になりかねないと見て、同地にいるアル・カイダの要員を何人も洗い出した。1998年にナイロビとダル・エス・サラーム(タンザニア)で米国大使館を標的とした殺人テロの「黒幕」のコモロ人ファズル・アブドゥッラー・ムハンマド、2002年にケニアのマリンディ・ホテルを襲い、また同国沿岸部でイスラエルのチャーター機を狙った事件の首謀者のイエメン系ケニア人サーリフ・アリ・サーリフ・ナブハン、スーダン人アブ・タルハ・スーダーニーなどだ。2006年初めには、あるアメリカの高官の口から「我々とともにアル・カイダに立ち向かおうとする者であれば、誰であれ協働するつもりがある」という発言が出ている。資金集めに汲々とし、暫定連邦政府あるいはイスラム法廷連合の権威確立を抑え込むことに余念のない軍閥は、渡りに舟とばかりこれに飛びついた。自分たちが恐喝にいそしむのを邪魔しようとするイスラム主義者、あるいは世俗の政治家による秩序回復を阻止できるなら、手段は何でもよかったからだ。
2006年2月、彼らはCIAの秘密資金により、平和回復・反テロ同盟(ARPCT)を結成した。表向きの目的はアル・カイダのテロリストを追い詰めることだとされたが、実際の狙いはイスラム法廷連合にあった(2)。イスラム勢力側はそれを見抜き、2月20日に同盟に攻撃を加えた。以後、6月16日に同盟の「首領ら」が決定的敗北を被るまでの3カ月半、モガディシオは流血の惨事に見舞われることになる。
アメリカの側でも、ワシントンの戦略に反対する声が上がった。エチオピア大使を経験し、地域の事情に詳しいデヴィッド・シンは、「反テロという観点だけからの狭いアプローチではない、包括的なアプローチ」を要求した。また駐ケニア大使館の参事官マイケル・ゾリックは、軍閥への資金供給を不毛なことだと非難したが、聞き入れられずに終わった。
エチオピアとエリトリアの介入
6月13日、ワシントンは懸命に失敗を取り繕おうとして、ソマリア連絡調整グループという急ごしらえの機構を作り出した。アメリカのほかに、アラブ連盟、アフリカ連合、国連、政府間開発機構(3)、ノルウェー、EUが加わった。イギリス、スウェーデン、イタリアは個別にも参加し、なぜかタンザニアも入っていた。だが、このグループは設置が遅すぎた。情報に乏しく、実質的な決定権もなく、実務処理のための手段というよりも遅すぎる弁解でしかないような代物だった。
ソマリア紛争が複雑化したのは、紛争が国際化したことも大きいように思われる。ソマリアに介入した二つの隣国、エチオピアとエリトリアは、自らも泥沼の紛争にはまり込んでいる。1998年から2000年まで戦争を続け、あいまいな休戦協定を結んで終わった。両国政府はそれ以来、国交回復に至らないまま、大義名分を掲げていがみ合っている。エリトリアはアブドゥラヒ大統領が親エチオピアであることから、暫定連邦政府の足を引っ張ろうとしており、これまでに少なくとも5回、イスラム法廷連合に武器を供与した。イデオロギー的な親近感からではなく(エリトリア政体は徹底して世俗的である)、いわゆる「敵の敵は友」という俗諺に従ったまでのことだ。他方、エチオピアの側は当初から、アブドゥラヒを高く買って支持してきた。
当然ながら、両国とも紛争への一切の介入を否定している。そもそもソマリアへの介入は、1992年1月23日の国連安保理決議733号に照らして違法である。決議733号は、この「国家なき国」に外国から武器を引き渡すことを禁じているが、ソマリア危機はアフリカの範囲を超えて国際化した。一部の軍閥とイスラム法廷連合にはサウジアラビアが、暫定連邦政府にはイエメンとエジプトが武器を供与してきた。
存続と権威確立を模索する暫定連邦政府は、国際カードを最大限に利用してきた。政府内の「武装閣僚」(4)を恐れるアブドゥラヒ大統領は、「平和の回復」と「正統政権の保護」のために政府間開発機構あるいはアフリカ連合が軍事介入してほしいと求め続けてきた。この要求は原則的には受け入れられたが、資金を出そうという国も、ソマリアという蜂の巣に踏み込む政治的意志を示す国も現れなかった。例外は、エリトリアの進出を阻み、イスラム法廷連合による政府転覆の危険を抑えたいエチオピアである。しかし、ソマリ人の宿敵エチオピアに属する軍隊がやって来るかもしれないというだけで、暫定連邦政府の内部に激しい政治抗争が巻き起こった。それにアフリカ連合が、利害関係者たるエチオピアに停戦監視軍の指揮という裁定役を頼むというのも、いささかおかしな話だった。エチオピアは、同盟相手のアブドゥラヒ以外の誰かが政府を率いるようになれば、ソマリアがオガデン地方の失地回復という野望を再燃させるのではないかと恐れている。エチオピアが領有するオガデンは、400万のソマリ人が住み、1977年から78年に両国間に起こった戦争の原因となった地域である。
イスラム法廷連合の攻勢を前にして、乱暴狼藉で住民に嫌われていた軍閥は、2006年6月の数日間で壊滅した。モガディシオの人々(特に女たち)は、イスラム法廷連合の戦闘員という微妙に特殊な解放者の下で、これからどうなるのか気に懸かりはしたものの、街にはほっとした気分が満ちあふれた。「正統性のある事態正常化」の萌芽たる暫定連邦政府を温存したい「国際社会」は、連合と政府が二者間協議を始めることを直ちに求めた。暫定連邦政府は再び割れた。アブドゥラヒ大統領は敵と合意を交わすなどもってのほかという姿勢をとり(5)、逆にアダン議長は対話を開始すべきだと主張した。最終的に6月22日にハルツーム(スーダン)で合意文書の調印にこぎ着けたが、合意はすぐに双方から破られた。
国際的には、ソマリアで「タリバン化がじわじわと進行」といった間違った報道がされている。懸念の背景にあるのは、サッカーW杯の観戦禁止、パンクやアフロ、ラスタの髪型をした若者への断髪の強制といったイスラム勢力の象徴的な行動である。イスラム法廷連合自体はイスラム法廷最高会議に変わり、指導者は穏健派のシャイフ・シャリフ・シャイフ・アハメドから、高齢の原理主義運動家ハサン・ダヒル・アウェイスに交替した。政府とイスラム主義勢力はにらみ合いを続けており、権力の分担が成立する見込みは極めて乏しい。勝利に熱狂するイスラム主義勢力の側は、まだソマリア社会に潜む悪弊たる氏族主義の試練を経ていない。バーレ政権の「社会主義」をむしばんだ氏族主義こそ、タリバンのアフガニスタンとソマリアとの最大の違いである。
タリバンの場合は、隣国パキスタンから強力な支援を受け、国内最大民族パシュトゥンに基盤をおいていた。イスラム法廷連合には真の支援国と呼べるようなものはないし(エリトリアの支援は便宜主義でしかない)、ハウィヤはソマリアのパシュトゥンというわけではない。せいぜい総人口の2割を占めるにすぎず、しかも様々な支族や下位集団に分かれている。また、イスラム法廷連合はタリバンと違って、氏族のみならずイデオロギーの面でも多数の派閥を抱えている。親アル・カイダの過激勢力が全面的に支配権を握っていると示唆する確かな証拠はない。つまり、政府間開発機構なり他の機関なりで協議に上っている軍事介入構想よりも、白黒で割り切れない交渉の道に進む方が、ソマリア危機の深刻化を防げる見込みはおそらく高い。
(1) アブドゥラヒ・ユスフ大佐は暫定連邦政府の大統領となるまで、マジャーティーン支族が住む東北部に樹立された準独立国家プントランドの大統領の座にあった。
(2) 軍閥はイスラム法廷連合を敵視しつつ、暫定連邦政府の権威を弱めることも狙っていた。このため政府は、軍事的脅威となったARPCT系の閣僚の追放を余儀なくされたが、それは遅きに失した。
(3) 政府間開発機構(IGAD)は1992年に創設された地域機構で、エリトリア、エチオピア、ウガンダ、スーダン、ソマリア、ケニア、ジブチからなる。
(4) 入閣した軍閥を指す気の利いた表現。
(5) プントランドの指導者にすぎなかった1990年代初め、アブドゥラヒは域内のイスラム主義運動を粉砕した。
(ル・モンド・ディプロマティーク日本語・電子版2006年9月号)