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http://www.geocities.jp/shougen60/shougen-list/m-T3-b.htmlより転載。
鈴木孝一著『しべりやの捕虜記』抄録
42 終章 私の思うこと
(前略)
印度の初代ガンジー翁は、如何なる迫害を受けようとも武器を持っての対決はしない、されど不服従であると叫び通し、その強固な信念を以て遂に円満無血の独立を獲得しました。
これこそ本当の情熱的平和志向の力量なのだと私は思って居ります。
個人も国家も、皆、存続したいと願うことは自然当然なのであり、そのための平和は誰も切望して止まないのであります。
ところが、平和はお値段が高過ぎて、買いとる力が足らないらしく、容易に人間の手に入りそうにありません。
その手に入れる力とは、前述のガンジー式力量のことだと思うのであります。
相互にこの信念さえ健在であれば、平和は即時人間のものになると思います。
その決意なくして、只、口先で平和平和と叫ぶなどは、恰(あたか)も一文なしの人間がデパートに行き、これ売って頂戴と注文しているに等しく、漫画同然と思うのであります。
然し、我々日本民族の場合はその事以前に重要なことがある筈です。
我々は今世紀以前から国際社会に於いて、特に近隣諸国との間の平和を打ち壊して来た犯人でありまして、つまり強盗、侵略者、殺し屋だったのです。
平和を唱えようとするなら、先ずこの事実を猛省し、自己批判し、それからの平和欲求であるべきだと思って居ります。
過去の自己恥部を隠蔽しようとして詭弁を弄し、侵略を進出とうそぶき、自己正当・他者不当説を唱え続けるならそれは、戦争よもう一度、と戦争の種蒔きをしているに等しく、今度こそ日本国は地球上から消え去ることになると思います。
他を攻める勇気を自己を攻めるそれに切り替える必要があるのであり、辛くても恥ずかしくとも是は是、非は非でなければならないと思うのであります。
攻めない攻めさせないの原則で、世界中から日本は好戦国とレッテルを貼られている現在、他国を攻め欲望を達しようとする自己を相手に厳しく戦うべきだと思うのであります。
私がシベリヤで一緒に作業をしたソ連労働者との会話の中で、この様なことがありました。
「ヤポンスキー ワイナ ハラショ」(日本人は戦争が好きなのか)と。そこで私は否定して、
「ワイナ ニハラショ ニナーダ」(戦争は嫌いだ。必要ない)と、答えたのですが、彼は、
「ニーニーニー」(そんなことはないない)と言って日本人をよくよく戦争の好きな民族なのだと決めつけている様子でした。
そして、案外日本の古いことまで知っていて、秀吉の朝鮮出兵のことまで私に説明していました。
この疑いを晴らすためには、多くの誠意と時間が必要だと思います。
然し、人間の本性とは一体善なのか悪なのかと問うとき、それはコロコロと転がる毬(まり)の様なもので、人間自体の中に両半面の要素が備わっているのでないかと思います。
その転がる過程に於いて、時としては善が上面に顔を覗かせ、又、何れかの時には悪が出るというものでないかと私は思うのであります、言い替えるなら、対決しようと思い、又、協調しようとも思うものゝ様です。
されど、核を迎えてしまった現在では対決の季節は終わりをつげ、新しい季節として、協調を迎え入れることが自然だという巨大な力を迎え入れることになり、それが人間の英知の証しなのだと私は思うのであります。
現状では、この明暗二色を持つ大きな毬が二個あり東と西に分かれ、一方が明るい色を上面に見せ始めると、他方もまた明色に変わるという同調する要素があるのであります。最近では、ソ連毬が明るい調子、つまり核兵器全廃説を唱え始めました。これが信用に価(あたい)するものとなれば、アメリカ毬としても、いつまでも核の刃を研いでいるわけには行かないのでないかと思うのであります。
その様にして、武器よさようならの時代が迎えられれば、人類はまだまだ地球上に生き続けることが出来ると思うのであります。どうかその様に人類の歩むことを願って止みません。
人間学は大変難しくて、反核平和を唱える団体が二つあれば必ず双方共主権争いを始め、又、慈悲の愛を説く各種集団があると、この人達も相手方を共鳴者として歓迎するどころか、歯をむき出して誹謗(ひぼう)し合うという実態がありますので、人間の真の心とは一体どうなっているのでしょうか。
平和と愛を唱える資格など果たして人間にあるのでしょうか。
矢張り武器を隠し持って居なければ、又、相手を消滅させなければ生きられないと思っているのでしょうか。
誠に尻の穴の小さい話であります。
哲人、倫理人、救世者顔をして人前で説き、その報酬を以て豊かな生活をしている者など、これはペテン師の一族でないかと私は思います。
真実、人や世を愛したくば乏しさに耐え汗を流すべきで、個人も国家もその様にあるべきだと思います。
世を救うと言って、その実、人から世から財や労力を吸い上げ自分が救われていることを自覚しないどころか、自己尊大に振る舞う者こそ、同じペテン師でも手錠掛けられた者より更に質が悪いのでないかと私は思って居ります。
これなども何れ戦争への種蒔きに繋がって居ると判断するのであります。
この様な遠近の因果関係をよく認識した上で、幻の様な飽食楽園に溺れることなく、先に述べた様な超決意と英知を以て、真の平和を現実のものとしなければならないと思うのであります。
仮そめの平和であり、次の戦争を準備するために必要な休憩時間であってはならないのであります。
人間は万物の支配者なりなどと傲慢にならず、明日の命をどう生きて良いのやら解らない他の動物より、弱い、悲しいもの同士の集まりなのだと悟り、残された道は、物量や独善的理論で攻め争うのでなく、ひたすら同境遇の仲間として互いに哀れみ合い、慈しみ合い、共存を期すことより他にないのではないかと思うのであります。
(以下略)
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大正3年(1914)生
『しべりやの捕虜記』抄録