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戦争に散った犬たち
上野動物園で3頭のゾウがやせ細って死んだころ、東京から犬の姿も消えた。戦時下の飼い主たちは「お国のため」に、愛犬を差し出すよう強いられた。犬を飼うことが「非国民」と呼ばれた時代、“友達”を守り通した少年が、61年前の夏を振り返る。
日本のトリマーの草分けで、ジャパンケネルクラブの全犬種審査員も務めるヤマザキ動物看護短大の福山英也教授(75)が戦時下の犬の記憶をたどる。
生家は東京・神田小川町で代々続いた呉服店。両親とも犬好きで、家にはいつも二、三匹の犬がいた。小学二年のころ、病気で学校に行けなかった少年にとって犬だけが「友達」だった。
しかし、食糧不足の中で“無駄飯”を食う犬は「ぜいたく品」。「戦場で兵隊が死んでいるときに“おもちゃ犬”を飼うのは非国民だといわれ始めた」という。小学四、五年生のころ、担任教諭は父に「この家は戦争を意識していない」と詰め寄った。「オヤジは、僕が集めた犬の雑誌を庭で燃やした。全部燃やすのに何日もかかり、その様子を見るたびに涙が出た」
雑誌からも美しい洋犬の姿は消え、次第に軍用犬と日本犬だけに。民間のシェパードも「予備軍用犬」として登録された。「神田の老舗料理店で飼われていたシェパードも“召集”された。軍人二人が迎えにきて、僕たちは日の丸を振って、戦地に行く犬を見送った」と振り返る。
“犬不要”の空気は、さらに濃厚になった。飼い犬に課せられた畜犬税は太平洋戦争が始まった一九四一(昭和十六)年ごろ跳ね上がる。
そして福山さんの記憶では四一、二年ごろに、地域で犬の「供出」が始まった。
東京市や東京都の公報をまとめた「戦時下『都庁』の広報活動」(東京都刊)によると、四四(昭和十九)年当時の新聞が、立川署管内の飼い犬が航空研究所の“資材”として献納されるというエピソードを“美談”として伝えた。狂犬病への不安や、空襲時の危険を取り除くという大義名分に加え、毛皮を集めて軍事用の帽子や飛行服など防寒具を作るという“用途”が喧伝(けんでん)された。
同年十月の「都政週報」では「犬をつないでおかないと厳重に罰せられます」とも。同年十一月には「畜犬買上一頭三円」の文字が見える。
町内会が警察や役所と協力する「犬の献納運動」は、四四年十二月に軍需省化学局長、厚生省衛生局長の連名で徹底を促す通達が出され、強制力が増した。八王子市郷土資料館によると、四四年十二月の二日間に、八王子市だけで約二百匹が供出された。「隣組回報」には「私達は勝つために、犬の特別攻撃隊を作って、敵に体当たりさせて立派な忠犬にしてやりましょう」とある。
そのころ、福山さんの家では、二匹の猟犬と、ラサ・アプソの“マリ”がいた。錦町警察署(現神田署)で犬の受け付けが始まると、飼い主たちは、泣く泣く愛犬を連れて行った。「うわさでは、警察の裏庭に集められた犬が、四、五日間、食べ物も与えられず放置されたらしい」(福山さん)
福山さんと両親は供出に応じなかった。猟犬二匹は埼玉県に疎開させるなどしたが、小型犬マリだけは二階でこっそり飼い続けた。
空襲が激しくなると、リュックサックに隠して十人前後がひしめく防空壕(ぼうくうごう)に逃げ込んだ。マリは周囲に見つからないよう静かにじっとしていた。「事態が分かるんだね。かわいそうでしょうがなかった」
そして終戦。「ようやく犬と一緒に表を歩けるようになった」。マリは終戦後間もなく死んだ。「息をひそめて暮らした日々が、寿命を縮めたかもしれない」と悔やむ。戦後、福山さんは警視庁の元獣医師に、供出された犬たちの末路を尋ねたが「それだけは聞かないでくれ」と口をつぐんだという。大手を振って犬と一緒に歩けること。福山さんにとって「平和」とはそんな日々だ。
文・中山洋子、井上仁
http://www.tokyo-np.co.jp/00/thatu/20060815/mng_____thatu___000.shtml