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JMM [Japan Mail Media]  「戦争の風景:レバノンへの道」  安武塔馬 
http://www.asyura2.com/0601/war83/msg/434.html
投稿者 愚民党 日時 2006 年 8 月 07 日 03:40:48: ogcGl0q1DMbpk
 

                             2006年8月6日発行
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JMM [Japan Mail Media]                 No.386 Extra-Edition3
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                        http://ryumurakami.jmm.co.jp/
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■  『レバノン:揺れるモザイク社会』 第23回
   「戦争の風景:レバノンへの道」


 ■ 安武塔馬 :ジャーナリスト、レバノン在住


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■ 『レバノン:揺れるモザイク社会』                第23回
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「戦争の風景:レバノンへの道」

戦況激化

 7月30日、イスラエル軍はレバノン南部の町カナを空爆。カナと周辺の住民が避
難していた建物をミサイルが直撃し建物は倒壊、55名が瞬時にして犠牲になった。
犠牲者は全員民間人で、うち37名は子供だった。

 イスラエルは世界中から轟々たる非難を浴びた。即時停戦を求める国際世論は沸騰
し、さしものイスラエルも48時間の暫定的な空爆停止を強いられた。

 1996年の「怒りの葡萄作戦」の際も、イスラエルは同じカナの町で国連の避難
壕を「誤爆」し、102名の避難民を虐殺している。この時も世界中から猛烈な非難
を浴びて、イスラエルは停戦受け入れを強いられた。

 しかし、即時停戦を優先した当時のクリントン政権と違い、ブッシュ政権は「恒久
的・永続的な停戦」に固執、イスラエルが一定の戦果を挙げるまで戦争を止めさせる
意志はない。果たしてイスラエル軍は暫定期間中さえベカー高原への空爆を継続、地
上でも国境沿いの村でゲリラ掃討の手を休めなかった。暫定期間が明けるや否や、特
殊部隊がバアルベックの病院でヒズボッラー幹部を狙った大胆な拉致作戦を敢行。ヒ
ズボッラーも一日に200発を超えるミサイルを発射するなど、応酬は激化した。8
月4日にはイスラエルはベイルート北部の高架橋3本を爆破、首都を北部と結ぶ幹線
道路も断ち切った。

 安保理を舞台に外交的解決が間近いと囁かれつつも、現場の戦況はエスカレートす
る一方だ。

家族と生き別れに

 待ちわびた停戦が一向に実現しないので、私(筆者)は業を煮やして、シリア経由
で3日夜レバノンに戻り、1ヶ月ぶりに家族との再会を果たした。ここでその顛末を
報告したいと思う。極めてプライベートな体験ではあるけれども、戦火の中東で暮ら
すということの現実を読者に知っていただくためには有効だろうと思うからである。
今度の戦争で、無数の人々が私たち家族と同じような体験をしているはずだ。

 私は7月1日から出張で1年半ぶりにレバノンを離れ東京に来ていた。家族はベイ
ルートの借家を出て、北部の高原の避暑地ブシャッレにあるアパートで私を待ってい
た。ベイルートから車で3時間近くも離れた辺鄙な場所にアパートを買ったのは、妻
がこのブシャッレの出身だったからだ。

 戦争が始まった12日、私はまだ東京に居た。13日にはレバノン唯一の国際空港、
ベイルート空港が爆撃を受けて破壊された。6年間に及ぶレバノン生活で、初めての
事態である。経験豊富な戦争特派員ならば、この時点で即座に在京シリア大使館を訪
れ、ビザを申請していただろう。空路でレバノンに戻れないとすれば、キプロスから
海路か、シリアから陸路で戻るしかない。キプロスなら査証なしで入国できるがシリ
アは出来ない。逆にシリアの査証があれば、陸海空(ベイルート空港再開の場合)と、
状況に応じて三つのルートを使えることになる。

 しかしあいにく、15日から日本は3連休だった。シリアのビザを申請して受理す
るには最低2日はかかるから、14日に申請すれば18日まで東京に残らざるを得な
い。迷った末、私はいったん母と姉が暮らす奈良へ移ることにした。数日待てば停戦
が成立し空港が再開されるかもしれない。駄目なら、また上京してシリアのビザを申
請すれば良い……そう判断したのである。

 この間、ブシャッレの家族とは電話で連絡をとりあった。電話回線はつながりにく
くなっていたが、何度かトライすればつながった。

 ブシャッレは元来キリスト教徒ばかりの地区で、ヒズボッラーの拠点も無ければ国
軍施設も近くに無く、イスラエルの直接攻撃に曝される心配はまずない。妻は電話口
の向こうでブシャッレは平穏そのものだと言う。義父母と義兄たちがベイルートから
「疎開」して来ているのも心強い。

 在留邦人救出に奔走する在レバノン日本大使館は、私の家族にもキプロス経由で退
避を奨めてくれたが断ることにした。海岸部が攻撃されている状況では、赤ん坊2人
(3歳と1歳)を連れた妻が、ひとりで無事港までたどりつけるかどうか心もとない。
それに老いた両親をブシャッレに残して脱出するのでは、妻も精神的にきついだろう。
私は、「必ず戻るから、しばらくブシャッレを離れずに待つように」妻に言った。

シリア・ルートに決定

 脱出しないとすれば、当面の心配はカネだ。ブシャッレでもガソリンを中心に物資
は不足し、値段が高騰しはじめている。それにいよいよ脱出するしかないとなった時
にも、現金が無ければ話にならない。

 私の出張はほんの3週間の予定だったから、妻には数百ドル程度の現金しか渡して
いなかった。それなりのドル預金もあって、その通帳は妻の手元にあるのだが、開戦
以来ドルの引き出し注文が殺到して、目下レバノン・ポンドしか引き下ろせない状態
にあると言う。レバノン・ポンドは一歩国境を越えると紙屑同然。とても脱出資金と
しては使えない。

 苦渋の末、妻は単身トリポリの銀行に行って、日本の私の口座宛に貯金の一部を送
金することにした。私が日本で受け取った金を、またドルに戻して現金でレバノンに
運ぶわけだ。ブシャッレ・トリポリ間も往復2時間以上の行程である。この時には中
継アンテナが空爆されて、携帯電話も不通になっていた。妻がトリポリから無事自宅
に戻るまで、私は落ち着かぬ時間を過ごした。

 私はキプロスからの再入国も検討した。しかし、キプロスから先の船便がない。各
国の軍艦や人道支援の船舶は出ているが、私のような一介の民間人が確実に乗れる船
は見当たらない。キプロスは観光シーズンの真っ最中でただでさえホテル代をはじめ
物価が高騰しているのに加え、押し寄せる大量のレバノン難民のため、滞在先の確保
も大変だ。そんなところでいつ出るかわからない船を待つことは出来ない。

 結局、私はシリア・ルートを選んだ。在京シリア大使館やレバノン大使館と連絡を
とりあって、北部のアリーダ国境を経由するのが一番安全らしいとわかったので、そ
のルートを用いることにした。25日に再度上京し、在京シリア大使館で通過ビザを
申請。この時も、「ジャーナリストには通常の観光ビザは出せない。本国照会になる
から数日間はかかる」と言われたが、「ジャーナリストとしてシリアに行くわけでは
ない。レバノンの家族に会うために通過するだけだ」と泣きついて、何とか24時間
有効の通過ビザを翌26日に発給してもらった。ローマ会議が失敗、即時停戦の希望
が遠のいた日である。

 脱出出来るチャンスがあったのに、ブシャッレに残るよう家族に指示したのは私だ。
妻は「ブシャッレは安全だから、あなたが危険を冒してレバノンに戻らなくても大丈
夫」と言うが、このまま私がレバノンに戻れず、家族に万が一のことがあったら、悔
やんでも悔やみきれない。シリアのビザをとってからも、私はキプロス・ルートかシ
リア・ルートかで迷った。しかし「これを逃せば次は7日まで便が無い」と言われて、
結局8月2日関西国際空港発フランクフルト、次いでウィーン経由でダマスカスへ向
かうフライトを押さえた。

長い道のり

 7月30日、南部のカナ村で今回の戦争中最悪の虐殺事件が起き、イスラエルは4
8時間の限定的空爆停止に応じる。私は地団駄を踏んで悔しがった。もしためらって
いないでまっすぐシリアに向かって居れば、空爆停止の安全な期間にレバノンに入れ
たはずだ。

 空爆停止期間が切れ、イスラエル軍がバアルベック以下レバノン各地に猛烈な爆撃
を再開した時、私はフランクフルト空港でウィーンへの乗り継ぎ便を待っていた。出
発まであと15分。ラウンジのテレビがレバノンからの映像を映し出した。英語で、
「北部アッカール地方への爆撃で、高架橋が破壊されました。これでレバノンとシリ
アへの交通路も遮断されてしまいました」そう言っている。

 私は真っ青になった。場合によってはダマスカス行きをキャンセルして、キプロス
行きに切り替えるしかない。急いでレバノンの妻のところに電話をかけた。妻は「そ
れはアッカールの内陸の話。アリーダ国境からの道路はちゃんと開いているわ」と言
う。これで気を取り直して、ウィーンに向かった。

 ウィーン空港で1泊し、翌朝3日の便でダマスカスへ。荷物を受け取って空港のロ
ビーに出てくると、もう午後4時になっていた。

 空港ロビーで一度妻に電話して、アリーダ国境が夜も開いていること、付近では爆
撃が無いことを確認する。それからロビーのタクシー会社支所でアリーダ国境へ向か
うタクシーを手配。窓口の男が「怖くないのか?」と問う。「そりゃ怖いさ。でも家
族も居るし仕事もある。行くしかない」と答える。料金は110米ドル。物価の安い
シリアでは決して安くはないが、今は時間との勝負だ。愚図愚図しているとまたどう
状況が変わるかわからない。タクシーは時折時速140キロ超で爆走、私をまっすぐ
国境まで送ってくれた。

 寂寞とした車窓の光景は、のびやかで隣国で戦争をやっているとはとても思えない。
左手のアンチ・レバノン山脈の裏側はベカー高原で、激戦地のバアルベックもすぐそ
このはずだが、イスラエルの爆撃機も、硝煙もまったく望めない。戦争を連想させる
のは、すれ違うバスやタクシーがヒズボッラーの旗や、ナスラッラー議長の肖像ポス
ターを窓に貼り付けていることくらい。靴磨きや露天商が集まる薄汚い地区でもポス
ターがベタベタに貼り付けてあった。貧しいシリア人たちは中東最強のイスラエル軍
相手にヒズボッラーが奮闘するのが痛快でならないのであろう。しかしこの人たちに
はヒズボッラーを助ける力も、戦争を止めさせる力も何もない。

レバノンへ

 あたりが薄暗くなったころようやくアリーダ国境に到着。そこでジュニエ(トリポ
リとベイルートの間にあるキリスト教徒の町)に戻るというクウェート帰りのレバノ
ン人青年と、2人でタクシーを頼む。ひとり50ドルずつ。戦争インフレで、レバノ
ンへ越境するなら1000ドル以上を請求されると聞いていたことからすれば、ダマ
スカスからトリポリまで計160ドルで到達出来たのは幸運だった。

 車がレバノン側検問所を超えると、運転手アブ・ムスタファに「この道はこれまで
空爆されなかったのか?」と聞いてみた。アリーダの隣、アブディーヤ検問所に通じ
る道は完全に破壊されており、ボコボコになった道路を避難民が徒歩で超える映像を
日本で見たからだ。「道はやられていない。でもいつやられるかはわからないよ。昨
日もずっとこの上空をイスラエル軍機が旋回していた」アブ・ムスタファがそう言う
ので、窓から首を突き出して空を眺めた。鮮やかな半月以外、何も目に入らない。
「そんなところを毎日走って、怖くないのか?」ダマスカスで訊かれた質問を、今度
は私が投げかけた。「仕方ないさ。俺にも4人の子供が居る」よく似た答が返ってき
た。

 途中でアブ・ムスタファは道路の両脇の壊れた建物を指して「これは国軍の駐屯所
だった。海からの砲撃でやられたんだ」と言った。なるほど、レバノン国旗が描かれ
たセメントの建物が半壊している。

 その後しばらく行くと、毛布や食料品などの救援物資を運ぶ国連のトラックの車列
に遭遇した。12,3台はあるだろう。この車列にしても、安全に被災地まで到着出
来る保障はどこにもない。

 トリポリ出身スンニ派のアブ・ムスタファは、ブトルス(ピーター)と名乗る青年
に向かって、休み無くヒズボッラーを批判し続けた。「俺だってレジスタンスは支持
してきた。でも今回のことだけは納得行かない。何でヒズボッラーが勝手に戦争を始
めて俺たちみんながこんな目に遭わされねばならないんだ? ヒズボッラーだって、
観光立国のレバノンにとって7月、8月がいかに大切な時期かわかっているはずだ」
こんな調子だ。

 トリポリで2人と別れ、また別のタクシーを頼んで一時間ほど夜の山道を登った。
見下ろすトリポリの夜景は薄暗く、電気の供給が滞っているのは明らかだ。夜9時半
になってようやくブシャッレの家にたどりつき、家族と再会した。

 翌4日に目覚めてニュースを見ると、ベイルートと北部を結ぶ高速道路の橋三本が
ことごとく爆破されたと言う。ブトルスは一日遅れていたならジュニエに戻れなかっ
ただろう。戦時下ではほんの一瞬の差が人々の運命を分け、家族を引き裂いてしまう。

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安武塔馬(やすたけとうま)
レバノン在住。日本NGOのパレスチナ現地駐在員、テルアビブとベイルートで日本
大使館専門調査員を歴任。現在は中東情報ウェブサイト「ベイルート通信」編集人と
してレバノン、パレスチナ情勢を中心に日本語で情報を発信。
<http://www.geocities.jp/beirutreport/> 著作に『間近で見たオスロ合意』『アラ
ファトのパレスチナ』(上記ウェブサイトで公開中)がある。
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JMM [Japan Mail Media]                 No.386 Extra-Edition3
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【発行】  有限会社 村上龍事務所
【編集】  村上龍
【発行部数】128,653部(2005年8月1日現在)
【WEB】   <http://ryumurakami.jmm.co.jp/>
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