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http://www.geocities.jp/riverbendblog/0608.html から転載。
Baghdad Burning
バグダードバーニング by リバーベンド
... I'll meet you 'round the bend my friend, where hearts can heal and souls can mend...
友よ、私の心が失われあなたさえ見分けることができなくなったら、どうか私を偉大な文明をはぐくんだ、チグリス・ユーフラテスの胸元に連れて行って欲しい。そこで私は心を癒し、魂を再生させるでしょう。
2006年8月5日 日曜日
別れの夏・・・
バグダードの居住者は意図的に街の外に追い出されつつある。一部の家では朝起きてみると「この地域を立ち去れ、さもないと」と書かれた手紙とカラシニコフの銃弾の入った封筒を見つけるようになってきている。これらの攻撃や脅迫の後ろにいる犯人たちはサドルの追随者たちであるマフディ軍だ。これはみんな知っていることだけれど、誰もそのことを敢えて口にはしない。先月のことだ、殺すぞという脅しや攻撃のために地域を離れなければならなくなった二家族がわたしたちの家に滞在していた。スンニー派だけではなく、シーア派、アラブ人、クルド人など、中産階級の多い地域が、いまや私兵集団のターゲットになっている。
他の地域は武装したイスラーム主義者たちに牛耳られている。米軍は全くこれらの地域を制御していない。おそらく、単にその地域を制御したくないだけなのだろう。なぜなら、サドルの私兵集団や他の私兵集団との間に衝突があるときに、その地域を取り囲んで、ことを観察しているんだから。
7月初めからというもの、わたしたちの地域では男の人たちが通りを見回っている。いく人かは屋上を見回り、そして他の人たちは、その地域に通じる主な道路に作ったお手製の道路封鎖ブロックの上でじっと座っている。米軍や政府なんか当てにできるわけがない。できることは、ただただ家族と友人たちが、たとえ安全でなくても、何の保証もなくても、生きていてさえくれればと願うことだけ。
外出する時、わたしは敢えてスカーフやヒジャーブをしないのだけど、この6月には、もはやそういうわけにはいかなくなった。普段の生活でヒジャーブはしてないけれど、バグダードをドライブするときには、車の中でさえヒジャーブをせざるを得なくなった。これ以上がんばるのは利口ではないから。(ここで言う「ドライブ」というのは、「後ろの座席に乗る」ことよ。私、運転なんか長いことしてないもの。)頭になにもかぶらず車に乗ったり道を歩くってことは一緒に居る家族たちをも危険に晒すということになる。聞きたくもないことを言われる覚悟をしなくてはならず、そうするとお父さんや兄弟、もしくは従兄弟やおじさんは、言われるままにしておくわけにいかなくなるでしょ。私はもう長いこと車なんか運転していない。女性がハンドルを握っていたら、何をされるかわかったもんじゃない。
わたしが今まで着ていた洋服を見ると、ジーンズやTシャツ、色とりどりのスカート、まるで他の国や他の人の生活からもってきた洋服ダンスをのぞきこんでいるような感じがする。公共の場所に出かけるのでなければ別に何を着てもかまわないという時が、二年ほど前にはまだあった。友だちのところや親戚の家に行く時は、ズボンにシャツかジーンズといった、いつも外出する時の格好とはちがうものを着ても問題なかった。でももう私たちはそれはしない。なぜなら、常にいろいろな私兵集団に車を止められてチェックされる危険があるからだ。
ヒジャーブをかぶらなければならないという法はない(少なくともまだ)。でも、ターバンを巻いた頭からつま先まで黒づくめの男たち、占領によって自由にされた過激主義者や狂信者たちが居て、いつしかもう抵抗するのに疲れてしまう。じろじろ見られるのはもうたくさんだ。わたしは、出かける時にそのへんから適当にとってかぶる黒や白のスカーフがある程度自分を隠してくれているような気がする。黒に覆い隠された群集の中に混ざってしまうほうが簡単だもの。女性ならだれでも注意を惹きたくないと思うはずよ−イラク警察からも、黒づくめの私兵集団からも、アメリカ兵からも。注目されたくも見られたくもない。
選択肢のひとつであるならば、もちろんヒジャーブはかまわない。わたしの親戚や友だちの多くはスカーフをかぶっているが、そのほとんどは戦争のあとからかぶるようになった。最初はごたごたを避けるためだったり、不必要に注意を惹かないようにするためだったけれど、今では外す理由がないということで、それが当たり前になってしまっている。一体この国では何がおこっているの?
7月半ばに、私はこのことがどんなに当たり前になってしまったかということに初めて気がついた。幼ななじみのMが国を出る前に別れを告げに来たときのことだった。彼女は、後ろにぴったりと寄り添ったお兄さんに守られて、暑さや道路のことで愚痴をこぼしながら家に入ってきた。何か妙だなと感じていたが、それがやっと何であったかにに気がついたのは彼女が帰るという時だった。日没前に帰るしたくを整えて、彼女は傍らにキチンとたたまれたベージュのスカーフを手に取った。彼女は近所の人が撃たれたことを話しながら、ぱあーっとスカーフを広げ、とても慣れた手つきで頭にかぶり、そしていつもヒジャーブをしている人のまちがいのない正確さで、顎の下でキュッと締めてピンで留めた。何百回となく行っているように彼女は鏡もなくこれら全てをこなし...何にも問題はなかった――Mがクリスチャンでなかったなら。
(クリスチャンの)Mにだってできるんだから――(ムスリム女性の)私にできないわけがない。
先月は数え切れないくらいの人々と「お別れ」をした。いくつかのものは急いでこっそりと。殺すぞとの脅迫を受けて、夜明けと共に出て行こうとしている近所の人に、夜にそっと言うような、そんなさようなら。
また、いくつかの「お別れ」はとても感情的で長々としたもので、内部崩壊していく国で生きていくことにもう耐えられない親族や友人たちへのものだった。
多くの場合は感情を抑えた「お別れ」だった――何気ない感じで――こわばった笑みを浮かべて「またすぐ会おうね」と...ドアを出たとたん、またひとり愛する人を失う重みに耐えられず泣き崩れるのだ。
こんなことの間、わたしはブッシュが2003年にした演説を思い出している。彼の主張した大きな実績のひとつは、「追放された」イラク人たちがサッダームの倒れた後に大喜びで祖国に帰還したことだった。現在一体何人のイラク人がブッシュの占領した国の外側にいるか教えてほしいものだわ...家や故郷を断念して国内で移動したイラク人のことまでは言わないから。
この希望のない夏に、一体何百何千のイラク人たちがこの国を出て行ったのかと時々わたしは思いをめぐらす。彼らのうちどれくらいの人たちが帰ってくるのだろう?彼らはどこに行くのだろう?どうやって暮らすのだろう?続いて行くべき時なのだろうか?この国をあきらめて、他のどこかで安定した生活を見つけるべき時がきたのだろうか?
午前0時38分 リバー
(翻訳:ヤスミン植月千春)