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アメリカが外交的に日本を締めつけ、短絡的な日本が自分の方から開戦するとのクレマンソーの予言通りに事態は進んでしまった。
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投稿者 TORA 日時 2006 年 8 月 27 日 14:31:30: CP1Vgnax47n1s
 

株式日記と経済展望
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アメリカが外交的に日本を締めつけ、短絡的な日本が自分の方から
開戦するとのクレマンソーの予言通りに事態は進んでしまった。

2006年8月27日 日曜日

◆「日本の近代(6) ― 戦争・占領・講和 ― 」 著者: 五百旗頭真
http://www.amazon.co.jp/gp/product/4124901062/ref=sr_11_1/250-8178337-8939440?ie=UTF8

◆南進論の起源

日中戦争を蒋介石と汪兆銘との合作により収拾せんとする桐工作が、四〇年夏を超えて破綻に瀕していた。その結果、田中新一参謀本部作戦部長も認めたように、日中戦争の局地解決の見込みはなくなり、世界戦争に連動する全体的決着の中でしか解決されない、と考えるに至る。このような地球的な戦争を戦い抜く観点に立てば、長期持久の態勢を築くことが必須である。時あたかも東南アジア植民地の宗主国がドイツによって制圧される事態と見合わせれば、陸軍軍人にとって南方資源の確保こそ啓示であるように感じられたのである。

◆日独伊三国軍事同盟締結のタイミング

一九四〇年夏のドイツは、イギリス本土へ連日の爆撃を加えて制空権を奪い、イギリスを屈服させようとした。しかし、レーダーの開発配備を世界でただ一国とげていたイギリスは空軍によるしぶとい効果的な守戦を展開した。軍需生産基地からロンドンへ中心目標を切り換えるヒトラー自身の作戦上の誤りもあって、秋の声を聞くころには、ドイツがイギリス本土上空の戦に敗れたことは否定できない事実となっていた。ドイツの輝ける時は一九四〇年六月、フランスを屈服させたころに終わっており、夏を分水嶺として挫折と転落の局面がしのびよっていた。

アメリカのルーズベルト政権は、陸軍戦争計画課長G・ストロングを長とするミッションをヨーロッパに派遣して現地調査を行い、九月はじめにその報告を受けてドイツの凋落の始まりを認識していた。

ところが、日本陸軍は多くの軍人をヨーロッパに駐在させながら、親独主義に毒されてドイツの行き詰まりを把握できず、松岡外相も同じくドイツの電撃戦の成功という残像に支配されて、共同幻想に陥っていた。

松岡外相は、ドイツが第二次大戦の中で転落を開始した瞬間に、依然ドイツの対英勝利が近いと信じて、九月二十七日に三国同盟を結んだのである。それは、いわば「滅びゆく者との抱擁」であり「死の接吻」ともいうべき悲劇的決断であった。

◆1940年7月2日御前会議決定にいたる経緯

作戦部長の論と軍務局長の論とをすり合わせて、六月十四日の陸軍案が生まれた。それは、好機を捉えて南方に、さらに独ソ戦が「極めて有利なら」北方にも武力行使する、というものであった。さすがに、田中の好機「作為」論は抑えられたが、二ヵ月前の「好機武力行使の否定」という路線は、あっけなく吹き飛ばされた。優先順序はつけたものの、南進と北進の両方を作戦計画に組み入れる方針で、陸軍内は合意したのである。

これに対する海軍案が、二十日に示された。それは、南進第一、北進第二、の陸軍提案に同意するかたちをとりつつ、第一と第二のあいだに本質的相違を設定するものであった。すなわち、無条件に「南方要域進出の歩を進め」るとし、そのためには「対英米戦を賭するも辞せず」との、驚くべき修辞をはじめて日本の公文書に登場させたのである。その真意は、英米戦にのめり込みたいということではなかった。

陸軍と松岡外相が本気でやりたがっているようにみえる北進を、海軍としては何としても阻みたいあまりに噴出した言葉と考えた方が正しいであろう。どうせ戦う決意もなく、戦備と予算ばかり欲しがる海軍、と難じられないためにも、これぐらいの決意を記したかったのであろうか。この政府内の駆け引き上の必要から派生した言葉が、しかし日本の運命を導くことになるのである。言葉は言霊であり、人や集団を時として呪縛する。

◆南部仏印の戦略的意味

南方の資源を欲する日本の軍部が、南ベトナムの地を支配し軍事基地を設けることには理由があった。当時の軍用機の航続距離から、それは戦略的要衝シンガポールも、経済戦略上の焦点である蘭印も、日本軍の爆撃圏におさめることを意味したからである。

陸海軍作戦参謀のうちにも、それをもって威圧しつつ外交的に資源へのアクセスを得ようとする者と、直接的に武力により獲得せんとする者とがあったが、いずれにせよ、戦略的な利点ゆえにこそ、日本軍部は南部仏印進駐を強く求めたのであった。同じ理由で、だからこそワシントンはこれだけは放置できないと眼をつり上げたのである。

◆満州某重大事件責任者処分と昭和天皇の反省

天皇が声を荒げて叱るのはめずらしいことであった。かつて即位後間もないころ、田中義一に憤りをぶつけたことがあった。一九二八(昭和三)年の張作霖爆殺の件に際し、責任者を厳正に処罰すると約束した首相が、陸軍組織の抵抗や閣議での反対によりそれを果たせなくなった。 天皇は首相が前言をひるがえしたことを責め、「それでは前と話が違うではないか、辞表を出してはどうか」と激語した。 田中首相は辞任し、ほどなく心臓発作により急死した。

張爆殺を行った陸軍軍人を処罰しなかったことが軍規の荒廃を招いた。憂国の至情から出た力の行使であれば、たとえ現場の軍隊の独断であっても、また政府や軍中枢の指示に反する下剋上であっても許される、という気分をその後の軍人たちにもたらした。それを思えば、若き天皇の怒りは的外れではなかった。たが天皇はこのことを「若気の至り」と反省した。

日本は立憲君主国である。 天皇が意思決定する専制君主制ではない。決定は臣下が明治体制下の手順にのっとって行う。自らの意思と異なる決定を政府・軍部が下すときも、天皇は質問といったかたちで婉曲に翻意を促すなどの影響力の行使にとどめるべきである。それが立憲君主制の意味である。そう若き天皇は理解した。

◆東條陸相「聖慮は和平」

天皇の異例の発言は、御前会議出席者にひとしく衝撃を与えた。だがまことに不思議なことに、九月三日に政府が決定した「帝国国策遂行要領」の内容は、六日の会議で何も変更されず、そのまま了承され国家の最高政策として権威づけられた。重ねて天皇から叱責された杉山と永野の陸海軍トップは平身低頭して恐懼の極みを体で表現した。しかし、名誉をまっとうできなかったときには切腹した武人の伝統は、彼らの遺伝子には受け継がれていなかったようである。政策変更も引責辞任も、具体的な対応を何もしなかった。 天皇の発言は独り言として扱われたに等しかった。

一人だけ真剣に修正を含めた対応を考えた者がいた。 東条英機陸相である。 東条は陸軍省に戻ると「聖慮は和平であるぞ」と大声を発し、部下を集めて会議の次第と衝撃をそのままに伝えた。さらに武藤軍務局長と長時間の談合のあと、聖慮を重んじ、外交に力を注ぐ方針を打ちだした。ここに東条が軍人の中で最有力の存在として大をなし、天皇にも厚く信頼されるに至った所以が示されているであろう。

重大にして複雑な事態に直面して自らの観点と判断力をもてず、「決意」を迫る中堅幕僚の「内圧」にうろたえる指導者が少なくなかったが、そんな中で、東条は問題に正面から取り組む生真面目さと勤勉さがあった。さらには本気の尊皇思想の持ち主であったこともあった。御前会議での天皇の発言を重く受けとめたのであった。

◆幻の東久邇宮内閣

近衛は後任に東久邇宮稔彦を推した。ここまできて戦争をくいとめうるのは、強い信念の持ち主であり、皇族の権威を援用できる宮しかないと考えたのである。実はこの案は東条の考えであった。 九月六日の決定をめぐって傷ついた当事者たちを超える新主体によって、政軍を再統合してもらうほかないと、東条は着想し、十四日夕、これを鈴木貞一を介して近衛に伝えたのであった。ここで興味深いのは、東条が東久邇宮の強固な対米戦争反対論を知ったうえで推挙していたことである。

九月六日の御前会議の翌朝、宮は東条陸相を自邸に呼んで注意した。 宮が第一次大戦後ヨーロッパに長期滞在した際、フランスのクレマンソー元首相やペタン元帥が日米戦争を予言し、決してアメリカと戦ってはならないと忠告したことを、宮は話して聞かせた。アメリカが外交的に日本を締めつけ、短絡的な日本が自分の方から開戦するとのクレマンソーの予言通りに昨今の事態は進んでいると宮は指摘し、猛省を促した。東条は戦は賭けであり、やってみなければわからない、五分五分であると反論した。

見解の相違といって、東条は席を立った。 宮を推した東条は、宮首相が「聖上の御意」に沿って戦争を回避するなら、それもよいと達観していたようであった。

だが木戸内大臣が宮内閣の構想に反対した。皇族をこの重大決定の当事者とすべきではない。結果がどうでるかわからぬ瀬戸際だから皇族内のエースを使おうとの提案に対し、そういう局面だからこそ皇族は使うべきでないと木戸は応じた。陸海軍が一致して平和を支持するのでなければ、皇族内閣は不可能と考えたのである。皇室の長期安泰を図る宮廷官僚の論理である。 天皇も木戸に同意した。

◆嶋田海相の転向

海相就任直後の嶋田は、前任者の「総理一任」論の失敗を乗り超えて、明快な立場を示した。作戦上の機会を失うから対米交渉を打ちきれというのは暴論であり、あくまで平和を本道として進むべきである、との正論を吐いた。が、その志は半月と持続しなかった。連日の会議において参謀本部の強硬な主戦論が東条を防戦に追い込む状況の中で、嶋田海相は十月末に転向する。開戦に向かう今日の大きな方針は曲げられない。自分一人の反対によって戦機を失しては申し訳ない。決心すべきである、と海軍省の幹部に対して決意を披瀝した。

十一月一日の連絡会議において嶋田海相は、すでに明らかになりつつあった条件闘争の立場を鮮明にした。鉄をはじめとする物資を海軍に回してもらいたい、そうでなければ対米戦争はできない、と頑強に要求した。最高指導層は茫然としつつも、これに応じた。

「鉄をもらえば決心しますか」との杉山の念を押す問いに、嶋田はうなずいた。一日の午前九時から一七時間続く重要会議の議事録に、これ以外に嶋田海相の重要発言はまったく記録されていない。全体判断をリードする識見と志を見失い、全体の運命がどう転じようと当面の自己利益の確保だけに全力を注ぐという組織論理を、ほとんど美学の域にまで純化した嶋田の海軍省であった。

◆11月1日大本営政府連絡会議

会議のテーマは、東条首相から二日前に宿題としてすでに参加者に提示されていた。次の三案のうちどれを選ぶかであった。

(一) 戦争に突入することなく臥薪嘗胆する。
(二) ただちに開戦を決意する。
(三) 戦争決意のもとに、作戦準備と外交を平行させる。

二つの極論と中間案を提示するのは、いずこにあっても基本的な議題設定の技法である。もちろん第三の中間点へと会議を誘導せんとするものである。会議は東条首相の期待通りに進行した。 東郷外相と賀屋蔵相が第一案を主張し、第二案を拒絶した。参謀本部と海軍が第二案を強硬に主張し、第一案を峻拒した。 東条首相兼陸相は第三案を支持した。

第一案派と第二案派の激突は、激語する永野軍令部総長に加えて嶋田海相まで味方につけた参謀本部の杉山総長と塚田攻次長が、東郷外相と賀屋蔵相を圧倒する勢いであった。だが、外交交渉による解決を説いて孤軍奮闘する東郷外相を、「東条首相も珍しく支持」したので、何とか即時開戦論をくい止め、第一案と第二案が相殺しあう共倒れのかたちへ進んだ。

◆甲乙二案

前月の連日の会議において、駐兵期限を焦点とする「甲案」はすでに固まっていた。 東郷外相はそれで対米交渉が実らぬ場合の最終妥協案として「乙案」を、この会議に突然提案した。それはアメリカが同意するはずもない「二五年の駐兵」などに言及せず、日本がこれ以上の武力進出を行わないことを約するかわりに、アメリカが資産凍結と石油禁輸を解き、その了解が成立すれば、日本は南部仏印から撤兵する、という簡潔なものであった。

つまり、日米関係の歯車が破局に向かっての回転を速めることになった南部仏印進駐以前の状況に歴史を戻そうとする暫定案であった。東郷外相の回想によれば、「幣原元外相が局面収拾の方策として立案せしものなりとて吉田元大使が持参した」案に、外相自身が若干の修正をほどこしたのが、この乙案であった。外務省英米派の長老たちの知恵に支援された外相案である。


◆五百旗頭 真
1943(昭和18)年、兵庫県生まれ。67歳、京都大学法学部卒業。69年、同大学大学院修士課程修了。広島大学教授、ハーバード大学・ロンドン大学研究員などを経て、81年より現職。日本政治外交史・日米関係論専攻(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)


(私のコメント)
岡崎久彦氏はルーズベルトの陰謀を否定する記事を産経新聞に書きましたが、日本をやっつけるには戦争をする必要は無く石油禁輸をすれば数年で日本は戦わずして負ける事は誰にでも分かっていた。それに対して日本は柔軟性に欠けた対応で開戦してしまったのですが、その決定を下したのは御前会議であり、その主催者は天皇であった。

しかし日本が立憲君主国家なのか専制君主国家なのか曖昧な部分があり、明治憲法によれば大臣の輔弼により決定されるのですが、陸海の統帥権は例外とされていた。だから戦争に関する限りは帝国陸海軍は天皇の軍隊であり、上官の命令は天皇陛下の命令と兵士達は教え込まれた。だから御前会議においても天皇が決断を下せば陸軍大臣、海軍大臣といえども逆らえないはずなのですが、事態は戦争に向かってしまった。

当時のヨーロッパ戦線の状況から見ればナチスドイツの破竹の進撃に幻惑されて、日本の軍部はその尻馬に乗ろうとしたのですが、バトル・オブ・ブリテンの戦いでドイツ軍は破れ戦況は行き詰まりを見せていた。しかし日本の軍部としては火事場泥棒的にインドシナやインドネシアなどの列強の植民地を横取りするチャンスと見たのだろうか?

しかしそんな事をすればアメリカとの戦争になることは明らかであり、しかし日本の軍部は「やってみなければわからない」といった無責任な態度だった。当時は石油も鉄もアメリカから供給を受けていたから、アメリカと戦争をすれば2,3年で石油も鉄もないといった状況になることは火を見るよりも明らかなことであった。ならばアメリカとの外交交渉で妥協するしかなかったのですが、天皇は御前会議で質問と言う形でしか関与しなかった。

今から見れば仏印進駐は明らかな失敗であり、日本は罠にはまったと見えるのですが、いったい近衛内閣は何を考えていたのだろうか? 近衛首相は驚くべき事に何も考えてはいなかった。幣原元首相との会談でも近衛首相は狼狽したが、首相としての当事者能力に問題があったのは明らかだ。しかし当時の近衛首相への国民的支持は高く、それが強硬外交に突っ走らせた原因とも言える。

第一次世界大戦後においてフランスのクレマンソー元首相の話として「アメリカが外交的に日本を締め付けて、短絡的な判断で日本が開戦する」と言う予想がありましたが、その予想は当たり日本は開戦に踏み切った。だからアメリカの謀略に嵌められるという予想は空想ではなく現実の話なのですが、証拠になるようなものがあるわけではないから何ともいえない。

だから靖国神社が大東亜戦争はアメリカの謀略に嵌められたという話は正しいとも間違っているともいえない話であり、岡崎久彦氏が靖国神社に書換えを要求したという事は出すぎたことだ。日本の親米派はアメリカの陰謀論を否定するが、アメリカの建国以来の歴史を見れば陰謀にみちた歴史であり、親米派はそれを認めたくは無いのだろう。当然9・11のテロなどの陰謀説も彼らは否定する。

歴史を振り返ってみるならば、明治維新以来日本は大陸には一切手を出すべきではなかった。たとえ朝鮮半島や中国の東北部がロシアのものになっても放置すべき事であった。大東亜戦争が無ければ中国の北部はロシアの領土となり南部はイギリスの植民地になっていたことだろう。だから日本は中国から欧米列強を排除した功労者なのですが、中国や韓国は恩を仇で返しているのだ。

日本としてはアメリカとの戦争はまったく想定はしなかったということは無かったのでしょうが、帝国海軍はどうしたらアメリカに勝てるかを考えてはいなかったようだ。いくら立派な軍艦があっても燃料が無ければ戦争は出来ない。アメリカに石油を依存している以上は負けることは火を見るより明らかなのですが島田海相は御前会議でも一言も発言せず事態の成り行きに任せた。常識から言えば島田海相はアメリカと戦争をすれば負けるから開戦に反対すべきだった。


◆御前会議 NHK特集
http://www1.odn.ne.jp/~ceg94520/homepage/mumyouan03.html

昭和16年7月2日、宮中、東一の間において独ソ戦争後の国策を議題とした御前会議が開かれた。主な出席者は、
 総理大臣    近衛 文麿
 陸軍大臣    東條 英機
 海軍大臣    及川古志郎
 外務大臣    松岡 洋右
 陸軍参謀総長  杉山  元
 海軍軍令部総長 永野 修身
 企画院総裁   鈴木 貞一
 枢密院議長   原  嘉道
であった。原は発言しない慣習になっている天皇にかわり疑問点を質問し、意見を述べる役割を担っていた。議題は事前に合意されており、会議の議論は形式的なものであった。しかし、ここで決められた国策は国家の不動の意思となった。
<原>はっきり伺いたいのは、日本が仏印に手を出せばアメリカは参戦するや否やの見通しの問題である。
<松岡>絶対にないとは言えぬ。
<杉山>ドイツの計画が挫折すれば長期戦となり、アメリカ参戦の公算は増すであろう。現在はドイツの戦況が有利なるゆえ、日本が仏印に出てもアメリカは参戦せぬと思う。もちろん平和的にやりたい。
<原>解った。自分の考えと全く同じである。すなわち英米との衝突はできるだけ避ける。この点については政府と統帥部とは意見が一致していると思う。ソ連に対してはできうるだけ早く討とうということに軍部・政府に希望をいたします。ソ連はこれを壊滅せしむべきものである。以上の趣旨により本日の提案に賛成である。
最後の原枢密院議長の要請はソビエトとの戦争の準備を計画していた陸軍に弾みをつけることになった。こうして独ソ戦争後の国策は起案からわずか10日間で御前会議で決断された。
<加瀬俊一談>
「御前会議っていうものは、大本営政府連絡会議が決定したものを、それでは御前会議で正式の国策に致しましょうということになると、何月何日御前会議を開きたいという。そして陛下のお許しを得て開く。その連絡会議の決定というものは、その直前ぐらいに宮中に回るんですね。連絡会議の決定だけでは、それだけの権威は持っていないわけですね。政府と軍部の関係大臣が集まって、一つの決定をしたという。やっぱり陛下が親臨された場で、可決されれば、これはもう不動の国策になったという形ですね」

当時の明治憲法では主権者である天皇の大権のもと、国務をつかさどる政府と、統帥つまり軍隊の動員・作戦は制度上明確に分けられていた。政府は統帥については全く立ち入ることができなかった。日中戦争以後、統帥の最高機関として大本営が設置され、国策は政府の要求で設けられた大本営政府連絡会議で事実上決められた。しかし、開戦など戦争をめぐる重要な国策は、さらに天皇が出席した御前会議に諮られる慣習になっていた。
7月2日の御前会議決定を受け、軍部は直ちに国策を実行に移した。北方のソビエトに対しては演習を名目に国境を接する満州に70万人を超える兵力を大動員した。独ソ戦争の推移次第ではソビエトに攻め込むという作戦であった。しかし、ほどなく独ソ戦争が膠着状態となり、この計画は中止された。
一方、南方については南部仏印への進駐が実行された。南部仏印一帯(フランス領インドシナ・現ラオス付近)はアメリカにとっても重要な戦略拠点であった。日本の進出を東南アジア一帯を支配する計画的な一歩ととらえたアメリカは日本に対し強い懸念を抱いていたのであった。アメリカは日本への警告として、まず日本の在米資産の凍結を実施。アメリカでの日本の経済活動をすべてアメリカ政府の管理下に置いた。そして日本の進駐を確認した上で、石油の対日輸出禁止という強硬策を打ち出した。当時日本はアメリカに石油の75%を依存していた。アメリカ政府は日本の南部仏印進駐がアメリカの安全保障にとって死活的な問題であると言明し、初めて軍事上の脅威であるという認識を示した。

アメリカの強硬策は南方進出を強く主張した海軍に大きな衝撃を与えた。海軍省軍務局の高田利種課長は戦後こう証言している。
<高田利種談>
「南部仏印に手をつけるとアメリカがあんなに怒るという読みがなかったんです。そして私も南部仏印まではいいと思っていたんです。よかろうと思っていたんです。根拠のない確信でした。私はだれからも外務省の意見も聞いたわけではない。何となくみんなそう思っていたんじゃないですか。南部仏印ぐらいまではよかろうと。これは申しわけないです。申しわけなかったですよ」
近衛首相は思わぬ事態の進展に驚いた。そして直ちにルーズベルト大統領との首脳会談を提唱し、危機的な日米関係の打開を図ろうとした。


(私のコメント)
当時の陸軍海軍の中堅将校達の世間知らずは救いようがない状況でしたが、政治家がそれを抑える政治体制ではなかった。御前会議でも外務大臣が反対しても軍部の無茶な意見は抑えられなかった。海軍省の高田氏が反省の弁を述べていますが、彼らのようなエリート官僚が日本を滅ぼしたのであり、靖国神社に祀られたA級戦犯は中堅若手将校に突き上げられて無責任な判断を下してしまった。

しかしアメリカとの戦争になれば日本は負けることは明らかだったのに軍部の中堅若手将校は戦争に突き進んだのだろうか? アメリカの石油禁輸や資産凍結は日本の軍部もびっくりして破れかぶれで戦争に突き進んだという信じられないような状況が生じていた。日本人はいったん感情的になると切れてしまって冷静な判断を下せないようになってしまうらしい。


◆御前会議 NHK特集
http://www1.odn.ne.jp/~ceg94520/homepage/mumyouan03.html

東京の陸軍省でも秘密裏に日米の国力調査が行われていた。調査担当者は、陸軍省戦争経済研究班。ここには多くの民間の学者も加わった。責任者は秋丸次朗陸軍中佐(平成4年死)だった。
<秋丸次朗談>
「大体、1対20というような見当ですかね。我々の調査も、新庄さんの調査も合わせて考えて、そして、その戦争指導班にいろいろと意見を述べたんですけどね。いる人はみんな居眠りしとったです。聞いていない」
資産凍結、石油禁輸という事態を受けて日本では感情的な主戦論が台頭し、急速に戦争の機運が高まっていった。
陸軍の石井中佐も新たな国策の立案を急いでいた。
<石井秋穂氏談>
「資産凍結を受けてね、もう一滴の油も来なくなりました。それを確認した上でね、それで、わしは戦争を決意した。もうこれは戦争よりほかはないと戦争を初めて決意した」


(私のコメント)
このように見れば日本はまさにアメリカの謀略に嵌められたという見方も正しいし、アメリカから見れば正当な経済制裁と言うことが出来る。

最近の日本も情報部を作ろうという意見がありますが、いくら情報部が正しい情報を送ってもトップが馬鹿だと何の役にも立たない。いったい大東亜戦争の責任は誰にあるのかと言うことですが、天皇にもあるし、突き上げた軍部の中堅幹部にもあるし、政治家にもあるし、それを選んだ国民にもある。だから戦争を防ぐには一人一人がより賢明になるしかない。アメリカと言う国をもっと深く研究して対応すべきだったのだ。そうすればアメリカの謀略に嵌る事も無かっただろう。


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