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http://0000000000.net/p-navi/info/news/200607210345.htm から転載。
2006.07.21
「どこへ行けるのか」攻撃下のガザから
[19日(水)、ガザ中部のマガジ難民キャンプに集中した攻撃があり、9人が殺されました。その攻撃の合間に書かれたレポートから抄訳をざっと紹介します]
「どこへ行けるのか 爆撃の下で」
ガザ・マガジ難民キャンプより
ラミ・アルムグハリ 2006年7月19日
「戦闘機は上空から激しく撃ちだした。とっさに私は子どもたちに駆け寄り、皆を起こして階下へ連れていった。上から撃たれたときに備えて……。
母は泣いていて、父は不安になっていた。妹はニュースを聞いていた。
暗闇の中で全員が不安に陥っていた。ケロセン・ランプは警戒しているみなの顔を浮かび上がらせ、シューシューと音を立てていた。
6歳になる息子が私に訪ねてきた。「父さん、僕は2年生になれるの?」そのときニュースは彼の学校にイスラエルの戦闘機がミサイルを落としたということを報じていた。
8歳になる娘はソファに腰掛け、一晩中起きて、怯えた眼と青ざめた顔で私を見つめ続けていた。
私は兄弟とその子どもたちのことが心配になった(多くの難民家族と同様、私たちも一つの家に共に暮らしている)。上の階に上がって彼らを起こすことにした。兄弟は暑さ除けのために屋上で寝ていた。
申し訳なかったが、私は彼の休息のひとときを破った。というのは、雨が降っていたからだ。夏の夜にはよくある雨でも今晩のものはイスラエル製の「夏の雨」だった[イスラエルの作戦名はサマーレイン]。
今や少しばかり安全な小さな部屋に家族全員がすし詰めになって、静かに「夏の雨」の音と母の泣き声を聞いていた。私は母を慰めたが、それは涙を止めさせることにはならなかった。というのは、別の兄弟が涼しい夜風を求めて友人と出かけていて、母はそれをとても心配していたからだ。
午前1時から9時半まで、私がこれを書いている間、イスラエル軍の「夏の雨」は降り続き、6人の命を流し去った。何人かは負傷している。難民キャンプの多くの家や建物、我が息子の学校の壁も攻撃を受けて、キャンプは元の形を崩しつつある。
私の恐怖、また私の家族の恐怖は、1948年、56年、67年と2006年6月27日にこのマガジと他の難民キャンプが攻撃を最後に受けた間のこの60年間に何千人もの難民家族がずっと抱えていたものと同じものだ。
しかし、過去のパレスチナ人たちは逃げていった先で安全な避難場所をみつけることができた。今、私たちに残されているのはたったひとつの選択肢のようだ。──つまり、ろうそくの灯りの下、家にいること。 これがパレスチナ難民のストーリーだ。21世紀の今、私はイスラエルに訊きたい。
「どこへ私たちに行って欲しいというのか? 君たちは私たち全員に死んで欲しいとただ願っているように思えるし、世界の誰もが気にもかけていない」、と。
私はこれを紙の上に鉛筆で書いている。コンピュータはもはや使うことができない。電気は完全に消え去ってしまい、バックアップのシステムも壊された。私は自分が書いたものを携帯電話で西岸にいる友人に読み上げ、タイプしてもらう。しかし、おそらくすぐに私の携帯も使えなくなるだろう。
今、私は2人の親戚がこの攻撃で殺されたことを知った。午後には葬儀に出なければならない。イスラエル軍は葬儀も攻撃してくるだろうか?最近では葬儀があると毎回、戦闘機が頭上をうなり声をたてて飛び、葬儀のところへ爆弾を落とし、更なる葬儀が必要になる。
私は次の葬儀が私自身やかわいい子どもたちのものじゃないことだけを願っている。」
原文: A story from Maghazi Refugee Camp, central Gaza
(大雑把な訳:ビー・カミムーラ)
*マガジ難民キャンプへの攻撃は19日午後にもあった。一つ前のエントリに。
**20日もマガジ難民キャンプへの爆撃があり、小学校の近くに集まっていた人々の上に爆弾が落とされた。1名死亡。20人が負傷し、その全員が子ども。そのうち、9人が重傷となっている。
Israeli attacks continue in Maghazi Refugee Camp, killing one and injuring 20
ガザの基幹病院であるシーファ病院の医師たちからは、封鎖で医薬品が入ってこないため、これ以上イスラエル軍の攻撃が続くともうすぐ治療行為を行うことができなくなるという悲痛な訴えが出ている。
(不審な兵器の使用疑惑については、次のエントリに)
☆「イスラエル政府に対する要請とあて先」については アムネスティ・インターナショナルによるもの が一定参考になる。