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□イエメンの権力者、サレハ大統領の横顔 軍と部族を支持基盤に長期政権を維持 [アルジャジーラ]
http://news.livedoor.com/webapp/journal/cid__2164772/detail
イエメンの権力者、サレハ大統領の横顔 軍と部族を支持基盤に長期政権を維持
【アルジャジーラ特約6月24日】イエメンのサレハ大統領は6月24日、昨年の引退予告声明を翻し、今年9月ごろに予定される次期大統領選に立候補する意思を明らかにした。同大統領の当選はほぼ既成事実でもある。
アルジャジーラはイエメンの実力者の横顔を追ってみた。
イエメン大統領、アリ・アブドラー・サレハ(64)は28年間、権力の頂点に立つ抜け目のない政治家である。
1978年、当時の北イエメン大統領に就任、以来、権力の座にある。主要な業績は、南北イエメンの統合であり、1990年5月にイエメン共和国の初代大統領となった。
4年後、大統領はイラクを中心とするアラブ諸国の支援を得て、南部の分離策動を壊滅させ、半島共和国の団結を維持した。1997年12月、イエメン議会は「新イエメンの国家建設に歴史的、民族的役割を果たしたことを認知して」、大統領に「元帥」の称号を贈った。
実利主議者であるサレハ大統領は幾つかの危機を切り抜けてきた。その中には、1990年のフセイン・イラク政権によるクェート侵攻があり、当時、サウジアラビアはイエメンがイラク側に付いたとして懲罰を加えた。
サウジ政府は約70万人のイエメン人就労者を追放し、同国の主たる財源の一つである海外送金を奪ったのだった。
サレハ大統領の支配は国軍と与党、「国民全体会議(GPC)」に依拠しているが、GPCは公務員と都市部、農村部のコミュニティー代表者の寄り集まりである。また、イエメン社会の背骨であって、死活の重要性をもつ部族の支持にも依拠している。
イエメンのような複雑な国柄で、かくも長期にわたり異なる多くの集団を丸め込んできた大統領の能力は、彼がいかに戦術に長けているかを示している。
イエメン統合の後、サレハ大統領は用心深く改革を進めた。複数政党制を導入し、メディアに最低限の自由を与えた。1993年と97年に立法議会選挙を実施し、99年には大統領選挙も行った。
選挙での唯一のライバルはサレハの与党、GPCの無派閥党員で、南イエメンの初代大統領の息子であるナジブ・カハタン・アル=シャービだったが、シャービの得票率はわずか3・7%だった。
鋭い眼をして小太りなサレハ大統領は薄い口ひげをつけ、軍服を優雅なスーツに着替えても何のトラブルもなかった。ごく限られた学歴しかないが、若くして軍に入り、1962年のザイディ国王(教主)を追放し、共和国を樹立したクーデターに参加した。
彼の指導力はめきめきと頭角を現し、権力の階段を登ることを可能にした。
1978年6月、アナマド・アル=ガシュミ大統領が暗殺されると、サレハは立憲議会で北イエメン大統領に選ばれた。
常に近しい側近に囲まれており、特に兄弟たちは軍や治安機関の枢要なポストに任命された。
ザイディ宗派社会の出身。ザイディはイラク、レバノン、シリア、湾岸諸国におけるイラン系シーア派とは異なるアラブ系のシーア派信仰を奉じている。スンニ派の教義にも近く、イエメン北西部に勢力を持つが、スンニ派が主流の同国では約30%の少数派である。
イエメン指導者として、強力なハシェド部族連合の一角をなすサンハン部族から崇められている。
サレハ大統領は汎アラブ主義者として知られている。1989年、イラク、ヨルダン、エジプトとともに短命だった「アラブ連合」に参加したが、同連合は1990年、イラク軍のクウェート侵攻によって崩壊した。
結婚して7人の息子がいる。息子の一人、アハマド(37)は共和国親衛隊とスペシャル・フォースを取りしきる陸軍中佐で、後継者と目されているが、イエメンではこの話題はタブーになっている。 (翻訳・ベリタ通信=日比野 孟)
2006年07月05日16時47分