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(回答先: クルド人虐殺めぐるフセイン裁判、8月21日に開始へ【CNN】 投稿者 ワヤクチャ 日時 2006 年 6 月 27 日 22:21:56)
*下記の日本語文書は参考のための仮翻訳で、正文は英文です。
イラク:口を封じられた国民
米国国務省民主主義・人権・労働局
http://japan.usembassy.gov/j/p/tpj-j20030430d1.html
2002年12月
概要
サダム・フセインは1979年、政権を掌握した直後から、イラク国内のあらゆる政治的反対勢力の発言を封じ、単独政党国家を、個人崇拝のカルトへと転換した。以来20年以上にわたり、フセイン政権は、組織的にイラク国民を処刑、拷問、投獄、強姦、恐怖による支配、そして抑圧し続けてきた。イラクは、優れた学問と科学の長い歴史と豊かな文化を持つ国家である。にもかかわらず、サダム・フセインは、イラクの女性・子どもに加え、科学者や学者の言葉を封じた。
イラクの一般市民が反政府的発言をしたり政権交代を求めたりすることを抑止するために、イラクの反体制派は拷問にかけられ、殺され、あるいは姿を消している。集団的懲罰という制度によって、ひとりの反体制人物の活動のために、家族全員あるいは民族グループ全員が拷問を受ける。女性は強姦され、家族の脅迫に利用するためその様子をビデオに撮られることも多い。市民が大衆の面前で斬首され、家族は、国民が現政権の方針に疑問を持つことへの警告として、その首を公にさらすことを要求される。また、サダム・フセインは一国の指導者として初めて、自国民に対して化学兵器を使用し、60以上の村で3万人以上の市民の口を毒ガスによって封じた。
サダム・フセインは、イラク国内の民族的・宗教的少数派の口も封じようとしてきた。1987年から88年にかけてのアンファル作戦の際、フセイン政権は、クルド民族を殺害し、拷問にかけた。その結果、多くのクルド人村落が全滅し、生き残ったクルド人はフセインによる支配が可能な地域に追いやられた。フセイン政権は、イスラム教シーア派の地域社会を、殺りく・拘束、そして特定の地域における金曜の祈りや書物の禁止によって抑圧した。さらに、イラク国内の他国籍の人も標的とし、クウェート人、イラン人などを殺害し拷問した。
イラク国民は、現政府を排除するための投票を行なうことも許されていない。表現、結社、移動の自由は、イラクには存在しない。メディアは厳しく統制されており、サダム・フセインの息子がイラクの日刊紙を所有している。イラク国民は、政府を支持する目的以外では、集会を開くことができない。イラク国民は、自由に出国することができない。
国連および国際的な非政府機関を含む国際社会は、フセイン政権による虐待の恐ろしい記録を文書化し、繰り返し非難してきた。サダム・フセインは、自国以外の世界の意向をまったく無視している。
彼は、イラク国民に過酷な選択肢を与えた。それは、沈黙を守るか、あるいは沈黙を破ってその結果を甘受するか、という選択である。しかし、イラク国民の口を封じようとするフセイン政権のこうした努力にもかかわらず、国民の声は聞こえてくる。
アルシェイク・ヤヒア・ムーシン・ジャーファル・アルゼイニ
1999年7月2日、アルシェイク・ヤヒアという20代後半の神学生が帰宅したところ、彼の父親と2人の兄弟が連れ去られていた。フセインの秘密警察が、彼を逮捕するまでの身代わりとして、父親らを拘束したのである。アルシェイク・ヤヒアの容疑は、その6カ月前に殺害されて抗議運動の引き金となったシーア派の著名な聖職者の支持者であるということだった。抗議運動は、政府治安部隊によって厳しく制圧されたが、その後も弾圧は続いていた。
他に道はないと考えたアルシェイク・ヤヒアは、出頭し、逮捕され、目隠しをされて、「尋問のために」サダム治安管理局ビルに連行された。友人のひとりが拷問されるのを無理やり見せられた後、彼は治安警察官らに別室に連れて行かれ、自分の番を待った。アルシェイク・ヤヒアが語るその後の出来事は、ぞっとするような内容である。
「彼らは私を裸にし、治安警察官の1人が、『さっき見せた人物がおまえに不利な自白をした』と言った。『おまえたちのような(アヤトラ)アルサドルの信奉者たちは、国家の治安を害する行為を行い、外国から入ってくる反政府的な声明を広めている』。彼は、私が、イランに本拠を置いてこうした反政府的声明に署名をしているイラク人宗教学者と連絡をとっているか、と尋ねた。私は、『そのような人物と連絡はとっていない』と答えた。・・・それから私は、(裸のまま手錠をされ、両ひじと両ひざの間に板をはさまれ、2脚の高い椅子から)つり下げられた。私の顔は上を向いていた。彼らは私の性器に電線の一端を取り付け、もう一端を電動モーターにつないだ。警察官のひとりが私の足をコードでたたいていた。数分ごとに電気ショックが与えられ、その回数が増していった。1時間以上、つり下げられていたに違いないと思う。私は、意識を失った・・・。こうした(拷問の)方法が数回繰り返された」
アルシェイク・ヤヒアは、定期的に電気ショックと足への殴打を繰り返された。2カ月の拘束期間中、彼は後ろ手に縛られたまま、うつ伏せになって床の上で眠った。本人の証言によると、これは電気ショックより耐えがたかった。またある時は、3日間連続で窓からつり下げられ、その間に1度、性器に重いおもりを付けられた。
5カ月後、アルシェイク・ヤヒアと他の21人の拘束者は、やはりバグダッドにある別の拘置所に移された。彼は、告訴も裁判もないまま、さらに4カ月間拘束された後、2000年4月14日に釈放された。
(アムネスティ・インターナショナルの「イラクにおける政治囚の組織的拷問=2001年8月15日」による)
アルシェイク・ヤヒアの体験は、特殊なケースではなく、サダム・フセインとその政権が、イラク国民の信念を表現する自由を奪うために組織的虐待を行っている一例にすぎない。
口を封じられる「反逆者」
1979年以降、サダム・フセインとその政権は、イラク国民に対し、組織的に、殺人、手足の切断、拷問、投獄、強姦、恐怖による支配および抑圧を行ってきた。イラクの著名な学者カナン・マキヤが「恐怖の共和国」と名づけたこの国は、20年以上にわたり、権力の維持、富の蓄積、そして土地の獲得のために、いわゆる国家の敵とされる人々を標的として迫害してきた。こうした敵とされるのは、多くの場合、罪のないイラクの一般市民であり、その中には、母親、妻、児童、教師、イスラム教徒、クルド人、そして知識人などが含まれる。またフセイン政権は、こうしたいわゆる敵とされる人々の親族を、日常的に逮捕、拘束、拷問そして殺害している。さらに、サダム・フセインは、クウェート、イラン、サウジアラビアなどの近隣湾岸諸国においても敵を見いだしている。
「イラクの政治・法体制は、人権尊重とは相容れないものであり、むしろ国中で見られる組織的・体系的暴力を内含している。そして事実上国民全体に影響を及ぼしている」--- 国連人権委員会のイラク特別報告官マックス・ファン・デル・ストール(1999年)
こうした行為は、サダム・フセインが1979年7月に大統領となった直後、自らの治安警察に、イラク議会の著名なベテラン議員数人を公然と強制的に排除、投獄そして最終的には殺害を命じたときに始まった。フセインは、議会内に「反逆者」がいると主張した。バース党の幹部66人が連れ去られる様子を自らビデオに録画しながら、サダム・フセインは議会内で落ち着き払って葉巻タバコを吸った。後に彼は、バース党指導部の他の幹部らに対し、逮捕された同胞の公開「民主的処刑」の場に立ち会うことを要求した。以来、あらゆる階層のイラク人の口を封じるために、同じ方法が使われてきた。どのような方法で「反逆者」というレッテルを貼られたにせよ、何らかの手段で沈黙させられるのである。
「フセイン政権下のイラクは、希望のない、悲しみと恐怖に満ちた地となった。国民が民族的浄化の対象となり、イラク国内の300以上の刑務所では、囚人に対する拷問が行なわれている。強姦が組織的に行なわれ・・・サダムの自国民への毒ガス攻撃によって、先天性奇形、先天性異常、不妊症、ガン、その他さまざまな疾患が発生している。・・・妻子の目前で夫が殺され、拷問を受けている。・・・フセインの支配するイラクは、地獄と化し、犯罪の博物館と化している」---国際正義連盟擁護ディレクター(イラク人)のサフィア・アル・スーハイル
イラクは豊かな文化遺産を持つ国である。その国民は、知的、科学的業績を残した歴史を有している。サダム・フセインの全体主義政権は、人命、人間の尊厳、そして基本的自由を全く尊重せず、前へ進んできた時計の針を何世紀も前に戻してしまった。フセイン政権は、自己と家族の自由と普通の生活を求めるイラク人の口を封じている。
殺人による口封じ
20年以上にわたり、サダム・フセインは法の支配を無視して、反体制と見なした人々を処刑してきた。フセインは、それら反体制と見なされた人々の政治信念、信条、民族的背景、家族、あるいは知人が、フセインの権力への脅威となると信じているために、こうした人々の口を封じるのである。まず政治囚として捕らえられた後に処刑される人々もいる。1998年2月には、アブ・ガライブ刑務所で、400人の囚人が予告なしに処刑された。その2カ月後、ラドワニヤ刑務所に拘束されていた100人が、ラマディ州で生き埋めにされた。こうした殺害は、刑務所を「きれいに掃除する」ものとされた。1997年以降、同様の方法で3000人以上が殺害されている。
イラクにおける即決処刑は、多くの残酷な手段で行われる。ひとつの素早く、しかも効果的な方法は、ひとつの村を全滅させるために、村の男性を全員一列に並ばせ、順番にひとりずつ銃殺するやり方である。しかしながら、サダム・フセインの政権は、もっと時間がかかり、被害者やその家族に、より多くの苦痛を与える方法を好むことが多い。フセイン政権は、政治囚を、遅効性の毒であるタリウムで毒殺した。この毒物は、人体組織にゆっくりと浸透し、死に至るまでに数日間を要する。イラク国民は、しばしば家族の目前で斬首され、また家族の面前で銃殺された上、残された家族が銃弾の費用を請求されることもある。サダム・フセインは、政府に不忠実であるとして、イラク北部のクルド人やシーア派の宗教指導者らに対してこれらの殺害方法の多くを実行した。殺害された後、多くのイラク人は家族が訪れられないように無名の墓に埋葬される。
「イラク北部の重要とされる地域からクルド人を一掃することによって、イラクの人口構成を変えることが、イラク政府の方針となってきた。イラク政権は、強制国外追放、恣意的な逮捕、そして組織的な拷問によって、これをを実行してきた」---元イラク国民の教師パイマン・ハルマット
政治的反対勢力の口封じの特に残忍な例として、湾岸戦争後のイラク南部における反政府暴動で、シーア派の少なくとも3万人から6万人が殺害されたと推定されている。
拷問による口封じ
サダム・フセインの命令により、イラクの治安当局は、イラク国民を日常的・組織的に拷問にかけている。殴打や強姦に加え、手足の骨を折ったり食料や水を与えないなどの拷問が、イラクの拘置所で日常的に行なわれている。またフセイン政権は、独自の恐ろしい拷問方法を考案してきた。それらの拷問方法には、男性性器への電気ショック、爪を引きはがす、回転する天井のファンからの宙づり、皮膚に酸をたらす、眼球をえぐり出す、熱した焼きごてまたはブローランプによる火傷などが含まれる。
ロンドンに本社を置く、英インディペンデント紙のグウィン・ロバーツ記者は、イラク北部にある拷問所での体験を次のように記している。
「独房のひとつには、人間の肉片(耳たぶ)がくぎで壁に打ち付けられ、天井には血が飛び散っていた。天井からは大きな金属製のファンがつり下がっており、ガイドの説明によると、囚人がそのファンに縛り付けられ、ファンの回転とともに棍棒で打たれるということだった。天井には囚人をつるすためのかぎが取り付けられていた。拷問の被害者から聞いた話では、囚人がくぎで手を壁に打ち付けられて、はりつけにされることもあった。よく使われた拷問のひとつは、囚人をかぎにつり下げ、睾丸におもりを付ける方法だった」--1991年3月29日付「インディペンデント」紙
外国人も、こうした残忍な行為を免れることはできない。湾岸戦争中には、多くのクウェート人が殺害・拷問・強姦された。クウェート・シティでは20以上の拷問所が発見されており、電気ショック、酸槽、集団処刑、電気ドリルで体に穴をあける拷問などの報告を裏付ける写真もある。また、多くの罪のない民間人が人間の盾として利用された。
イラクの病院では、焼印の使用や手足の切断は日常的なことである。1994年、イラク政府は、焼印などの残酷な処罰を定めた少なくとも9件の命令を発動した。軍隊脱走で有罪となった者に対しては、手足切断の刑が行なわれている。また、手を切断された者が、大衆に恐怖心を植え込むため、国営テレビでさらし者にされた。
1994年および1995年だけでも、脱走の罪で多くの兵士が耳の一部を切り取られた。イラク政府は、これらの兵士が戦争で負傷した英雄だと国民に思われないように、彼らの額に「X」の焼印を押した。こうした手術を行うことを拒否した医師は、報復をすると脅され、逮捕・拘束された医師も多数いた。イラク当局は1994年、焼印を押されたり手足を切断された犠牲者に、医師が形成手術を施すことを違法とする法令を布告した。2000年には、フセインや彼の政府を批判した者の舌を切断する権限を政府に与える新たな法令が布告された。
イラクにおける各種の拷問方法
医学実験
むち打ち
はりつけ
指や手にくぎを打つ
電気ナイフで男性性器や乳房を切除する
目に殺虫剤を吹き付ける
熱した焼きごてで焼印を付ける
強姦の現場を配偶者に強制的に見せる
直腸への熱湯の注入する
舌を木の板にくぎで打ち付ける
ペンチで歯を抜く
親の目の前で裸の子どもをハチやサソリに刺させる
消息の全くわからない行方不明者
多くのイラク人が、ただ単に「行方不明」となり、その後の消息が全くわからない。少数民族であるクルド人の間では、頻繁かつ定期的に行方不明者が発生している。アムネスティ・インターナショナルは2001年、中東や北アフリカで過去数十年間に発生した数十万もの行方不明のほとんどにフセイン政権が関係していると主張した。
「逮捕されたら人生は終わりだ」--「アハメド」と名乗る匿名のイラク人が「クリスチャン・サイエンス・モニター」紙のキャメロン・W・バーに語った言葉(2002年10月31日)
国連人権委員会のイラク特別報告官は、1万6496件の行方不明事件を具体的に記録しているが、1988年のアンファル作戦で行方不明となったクルド人だけでも何万人にも上る可能性があると述べている。ヒューマン・ライツ・ウォッチおよびアムネスティ・インターナショナルは、行方不明者数を7万から15万人としている。国連特別報告官によると、クルド人に次いで行方不明の対象なることが多いのは、イスラム教シーア派である。
イラク国民を沈黙させる化学兵器
サダム・フセインは、世界で初めて自国民に対して組織的・攻撃的に毒ガスを使用した指導者となった。1983年から88年までの間だけでも、フセインは、マスタードガスおよび神経ガスで3万人以上のイラク国民を殺害した。いくつもの国際機関は、サダム・フセインが、多数の女性や子どもを含む6万人以上のイラク国民を化学兵器によって殺害したと主張している。クルド民族に対する2年間のアンファル作戦の期間中、フセインは、40以上の村に対し、こうした化学兵器を使用した。
1988年3月16日午後6時20分、ハラブジャの町に突然リンゴのようなにおいが広がった。イラクのクルド人が住む人口8万人のこの町は、一瞬にして毒ガスの厚い雲に覆われ、罪のない一般市民の衣服、口、肺、目、そして皮膚に、化学物質が浸透していった。3日間にわたって、イラク空軍の飛行機が、マスタードガス、サリンおよびタブンとして知られる神経ガス、そして新たに製造された致死率の高いVXガスの爆弾を落としていった。これらの化学薬品によって、少なくとも5000人の市民が、最初の攻撃から数時間以内に死亡し、その後数年間でさらに数千人が死亡したり障害を負うことになった。ハラブジャでは、1988年以降、進行の速いガン、遺伝子突然変異、神経障害、および精神障害の発生率が驚異的に高まっている。今日でも、市内を歩くと、いまだに大勢の病気または傷を持つ市民と出会う。
シャホは、当時9歳だった。数週間の間に、彼は背中の痛みに襲われ始め、ついには立つことも歩くこともできなくなった。「化学兵器の攻撃を受けるまでは、私は全く健康だった。・・・私の病気は毒ガスが原因だと確信している。母はその時に失明し、私の体はそれ以来徐々に悪化している」シャホは毎日を自宅のマットレスに横になって過ごし、献身的な姉が、床ずれを防ぐために30分ごとに体の向きを変えてくれる。 (グウィン・ロバーツ、「有毒兵器」、戦争犯罪、グトマン、リーフ編[シンガポール、1999年])
市民のひとり、アクラ氏は、家族を探すために、ハラブジャへ帰る前に、イランの病院に連れて行かれた。「たった100メートル進む間に200以上の死体を見た。化学薬品と死体の強烈な臭いがした。私はシェルターに入った。最初に祖母を見つけた。祖母の体は膨れ上がっていた。それから私は真っ黒になった母の顔を見つけた。そこで私は気を失った」 --- ガイ・ディンモア、2002年7月10日付「フィナンシャル・タイムズ」紙
沈黙させられる女性:フセインは女性への暴力行為を認めている
フセインは、自らの政権が女性を拷問し、残虐に殺害していることを否定しない。サダム・フセインの長男、ウダイが所有する日刊紙「バベル」は、2001年2月13日、売春容疑の女性を斬首していることを公に認める記事を掲載した。シリアのダマスカスにあるイラク女性連盟はこれについて以下のように述べている。
「売春行為との戦いを口実として、ウダイが代表となっている準軍事組織「フェダーイー・サダム」の各部隊は、国内各地で、これまでに200人以上の女性の首を切り、切断された頭部をその家族の家の戸口に投げ捨てた。犠牲者の多くは、何の罪もない専門職にある女性で、一部は反体制の容疑をかけられた女性たちであった。こうした野蛮な行為は、イラクの刑法の定めるところの適正な司法手続きさえ全く無視して実行された。」(2001年3月3日)
イラクでは、女性であるがために、次のような目にあう可能性がある。
売春容疑による斬首
政権が国家反逆と見なした人物に関係していた場合、強姦
反体制派の身内である場合、拷問
報告によると、多くの家族は、犠牲者の頭部を自宅のフェンスに数日間放置するよう要求されている。こうした残忍な方法は、あらゆる職業の女性に対して実行された。一例を挙げると、ある産科医は、医療サービス分野における腐敗を非難したことで逮捕されたが、その後、売春の罪で斬首された。また夫と3人の子どもを持つ別の女性は、何の容疑も裁判もないまま斬首された。アムネスティ・インターナショナルによると、彼女の夫は、国家に反対するイスラム教軍事活動にかかわったとされ、治安当局の指名手配を受けていた。彼は出国することができたが、「フェダーイー・サダム」(準軍事組織)に所属する男たちが彼の自宅に行き、妻子と義理の母親を見つけた。妻は通りに連れ出され、住民の目の前で、2人の男に腕を押さえられ、3人目の男に後ろから頭を引っ張られて首を切られた。治安警察官は死体と頭部をビニール袋に入れ、子どもたちと義理の母親を連れ去った。彼女たちのその後の消息は不明である。
女性は、その親族への脅迫の目的でしばしば強姦される。イラクを出国し、イラク反対派グループに加わった男性は、親族である女性が強姦される場面を映したビデオテープを送りつけられる。これらのビデオテープは、外国に住むイラク人が反対派の活動に加わらないようにするために利用される。以下に示すように、当局者の中には、自らの公務「活動」を「女性の名誉の侵害」と記した名刺を待ち歩いている者もいる。
グライアット・ジボール部族の長シェイク・シャラル・ムハメド・アルシャラルの妻、ニダル・ムーイ・アルシェイク・シャラルが、2002年10月4日に行った陳述
・・・私の兄弟は、1980年に逮捕された。その後、彼に何が起こったのか、私たちは全く知らない。政府は私たちを挑発するために、彼の死亡通知を送ってきた。私のいとこでもある、夫の兄弟たちは処刑された。彼らの名は、ラード・シャラル・ムハメド・アルシャラルとワードアラー・ムハメド・アルシャラルである。その後、私たちは財産を没収され、土地を追われた。現在では私たちの果樹園の一部は、化学兵器製造のための秘密工場になっている。場所は、グライアット(イラク北部のアザミヤの郊外)である。
私は何回も尋問された。夫が逃亡し姿を隠したのはその頃である。それから、私は政府の仕事から追われた。夫が反体制であるため、夫を逮捕しようという試みが何度もあった。彼の兄弟たちは処刑された。1991年、夫は「インティファーダ」(蜂起)に参加したが、捕らえられ、イラク軍情報部が管理する刑務所に、4カ月間入れられた。彼は拷問で左の肋骨と鼻を折られ、また電気ショックも数回行なわれ、その痕はいまだに体に残っている。
私たちの部族、ジボール部族は、ほとんど皆殺しにされた。アルグライアット(ジボール部族の一派)は、イラク政権との闘争で有名である。私の親族と部族民のうち、882人もの男たちが逮捕され、その後の消息は分かっていない。私のおじの娘たち、ライラ・アルジボーリ、ファティマ・アルジボーリ、タルファ・アルジボーリ、そしてサファ・アルジボーリはすべて処刑された。
子どもたちの幸福を裏切る政府
フセインは、イラクの子どもたちの健康や幸福に対する配慮が全くない。湾岸戦争以降だけで、サダム・フセインは自分のために48のぜいたくな宮殿を建てた。一方で、病気の子どもたちに支給されるはずの医薬品が、外国で転売するために輸出されている。子どもたちが切実に必要としている医薬品や医療器具の供給も、政権関係者が供給者からのわいろを要求するため、遅れが頻発している。イラクにおける健康管理の欠如は、コレラやポリオなどの病気の再発につながっている。
さらに政府は、特定地域でスンニ派アラブ人多数派を増やすために、少数民族の子どもたちを人質にとり、家族を強制移住させている。また、10歳から15歳までの子どもたちは、強制的に3週間の武器使用、白兵戦、ヘリコプターからの懸垂下降、ならびに歩兵戦術の訓練コースに参加させられる。これらの子どもたちは、毎日14時間の身体訓練と心理的プレッシャーに耐えている。自分の子どもをこの厳しい訓練に参加させたくない家族は、食糧配給カードを取り上げると脅迫されている。
イラクでは、何百万もの罪のない人々が苦しんでいる。彼らの日常生活は、清潔な飲料水の不足をはじめとして、食糧の配給やその質、医薬品・衛生用品の供給などの点で、極めて混乱している。これらの要素はすべて、基本的な健康や教育制度の機能を深刻に妨げるとともに、労働の権利を脅かしている。 −国連人権委員会のイラク特別報告官による1999年報告書
フセイン支配下のイラクでは、子どもであっても、次のような状況に直面し得る。
フセインが輸入を制限し、輸入品の大半を友人や政治的盟友に配給するために生じる、栄養および薬品の不足
産油地域に住むアラブ人以外の民族であった場合、誘拐
両親の政府に関する発言内容の報告
イラク有権者の無言の声
国際社会が、個人の自由、社会的多元主義、および代議政治に対する支持を強める中で、イラク国民は、自らの政府を変える権利を持たない。サダム・フセインは、1979年に権力の座に着いて以来、政治的反対勢力の口を封じ、真の選挙を実施していない。イラク憲法は、結社の自由を与えている。しかしながら、イラクの法律は、バース党以外の政党に過去、現在または未来のいずれかの時点で関わることを、死刑の対象としている。フセインは、自らが実施した1995年および2002年の非民主的「国民投票」を後ろ盾として、自らの大統領としての立場を正当化している。最近の国民投票では、政府が投票者を確認できるように、「秘密投票用紙」には番号が付けられていた。投票用紙の候補者名はひとつだけで、「サダム・フセイン ---『はい』または『いいえ』と書かれていた。国民は、サダム・フセインの「敵」になれば、どのような結果になるかを知っていた。フセインは、驚異的な100%の勝利を宣言した。これは、1995年の、99.96%という結果を上回った。
バース・アラブ復興社会主義党
永遠のメッセージを掲げるひとつのアラブ国家
−革命指令委員会の命令−
死刑による処罰:
1. バース・アラブ社会主義政党の党員で、以前に所属または参加していた政治組織、政党、政治活動を意図的に隠す者。
2. 同党の現党員または元党員で、同党に所属しながら、他の政党または政治(組織)と関係があること、またはそうした政党や組織およびその利益のために働いていることが立証された者。
3. 同党の現党員または元党員で、党との関係を断った後に、他の政党または政治(組織)に加わったり、またはそうした政党や組織およびその利益のために働いた者。
私、マジド・アルシャド・マハムドは、革命指令委員会の命令を承知して、この命令の規定に違反した場合には、法の下に責任を有する。これについて私はここに署名した。
氏名:マジド・アルシャド・マハムド
自宅住所:イルビル、アルアラブ
勤務先住所:イルビル病院
年月日: 1979年1月11日
(署名)
署名が真正であることを支部により確認すること。
署名が真正であることを師団司令部により確認すること。
(署名)
師団印
独立した思想または信念に対する抑圧
イラクでは、歴史を通じて学者が政治思想の発展に貢献してきた。しかし今日では、政治論争は行われず、イラクの新聞に政府に疑問を呈する記事が掲載されることすらない。そうした行為を試みた者は、現在追放されているか死亡しているかである。
1999年9月、著名なジャーナリストでバグダッド大学教授でもあるハシェム・ハサンは、ウダイ・フセインの国営刊行物の編集長に指名されたが辞退したため逮捕された。彼の消息は不明である。政府がメディアを統制しているため、報道の自由は存在しない。イラク憲法には集会の自由が規定されているにもかかわらず、イラク国民は、政府支持を表明する以外の目的で集会を行うことを許可されていない。また、イラク国民は、国外に出て、自由な国家の国民のように旅行をすることができない。政府の特別許可証の必要性、高額の出国ビザ、そして旅行者が政府に支払わねばならない担保は、多くの国民が逃れたいと思っているイラクの国内に、サダム・フセインが国民を人質としてに留めておくための方策である。出国を許可された大学教授やジャーナリストは、帰国後尋問を受け、引き続きイラク政府に「忠誠」であることを確認される。
サダム・フセイン支配下のイラクでは、カルデア系キリスト教徒のイラク人、トルクメン人その他の少数民族、またはシーア多数派の一員は、以下のような扱いを受ける可能性がある。
現政権が支配または住民の立ち退きを計画している地域に住んでいる場合、強制移住
自分の宗教の研究および実践の禁止
シリア語など自分の母国語の学習および宗教の実践における母国語使用の禁止
暴徒からの保護はなし
学校、職場、政府における差別
イラク憲法はまた、「道徳性と公共の秩序」に違反しなければ宗教の自由を認めている。しかしながら、サダム・フセイン支配下のイラクには、宗教の自由は事実上存在しない。イラクではシーア派信者が人口の約6割を占めるが、スンニ派アラブ人からなるバース党が権力を持ち、最も一般的なシーア派の祈とう法をほとんどすべて非合法化した。多くの地域で、シーア派イスラム教徒は、金曜日の祈とうに参加することを禁じられている。国営ラジオおよびテレビでは、シーア派の番組の放送が全面的に禁止され、またシーア派の祈とう書や指導書はイラク国内で出版禁止となっている。多くのシーア派著作物がイラク国内で禁止されている。
サダム・フセインに異議を唱える国際社会の声
1945年以降、国連および各種地域組織は、基本的な自由と人間の尊厳が尊重される世界をつくるために力を合わせてきた。この20年間、イラクは、それとは反対の方向へ進んでいる。国際法は、拷問、殺人、そして残酷で、非人間的な、または侮辱的な懲罰を禁止している。にもかかわらずサダム・フセインは、こうした国際法に明らかに違反する制度を築き、その虐待行為を国際社会に見せつけている。過去20年間のフセインによるイラク国民への攻撃は、国際社会によって継続的に記録され、糾弾されている。
国連安全保障理事会は、「・・・クウェートの人口構成を変えようとするイラクの試みを非難する」−国連安保理決議677、1990年11月28日
国連安全保障理事会は、「・・・イラク各地におけるイラク市民に対する抑圧を非難する」−国連安保理決議688、1991年4月5日
国連人権委員会のイラク特別報告官マックス・バン・デル・ストールは、1999年にイラクを訪問した後、同委員会議長に次のように報告した。
「私は、拷問による傷や傷跡を見せてくれた人々から、イラク当局に拉致され姿を消した家族の人数を指を立てて示してくれた大勢のクルド人女性まで、さまざまな証言を得た」
「現行の、組織的に人権を侵害する制度は、イラクの多数の国際的義務に反するものである・・・。」− 国連イラク人権委員会特別報告官、1999年
「サダム・フセインは、引き続き中東の安定に対する脅威である。彼はイラク国民に対する絶対的な支配を追求し続けており、組織的な抑圧を実行しようとしている・・・。」−トニー・ブレア英国首相、2001年2月17日
「大統領を支持しないことを示唆しただけで、死刑の可能性が生じる」−特別報告官アンドレアス・マブロマティス、国連事務総長報告書、2001年
2002年11月8日の国連安保理決議1441は、イラクにもう1度チャンスを与えている。
「私は、イラク指導層が・・・この機会をとらえ、それによってイラク国民の孤立と受難に終止符を打ち始めることを強く求める」−コフィ・アナン国連事務総長、2002年11月8日
国際社会はイラク国民を支持している。イラク国民を沈黙させようとするサダム・フセインの数々の試みにもかかわらず、イラク国民の声や物語は世界に届いている。
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