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以下、軍医学校跡地で発見された人骨問題を究明する会HPより勝手部分転載
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軍医学校跡地で発見された人骨問題の解説
人骨問題とは何か?
1989年7月22日、新宿区戸山の国立予防衛生研究所(現・国立感染症研究所)建設現場から、100体を越す人骨が発見された。
新宿区の依頼を受けた佐倉朔札幌学院大学教授(当時・形質人類学)の鑑定(いわゆる『佐倉鑑定』)によると、そのほとんどがモンゴロイドのものであり、しかも日本人と特定することはできなかった。
当時、厚生省の態度は、人骨の速やかな焼却埋葬を要求していたが、1992年2月、新宿区の鑑定が公表される直前、山下徳夫厚生大臣の英断により、厚生省による由来調査がはじまった。
93年来、人骨焼却予算を計上しつづけた新宿区に対し、109名の新宿区民は異議を申し立て、人骨焼却差止め訴訟を提起した。裁判は最高裁まで争われ、2000年12月に住民側の敗訴が確定したが、それまで人骨の焼却を阻止し、解決への道を開いたと言う意味で、事実上の勝訴と言っても過言ではない。
2001年6月、厚生省は、由来調査の報告書を出し、人骨の保管を決定した。この課題を引き継いだ厚生労働省は、2002年3月、人骨発見現場近くの国立感染研敷地内に保管施設をつくり、現状のまま保管している。
人骨問題とは何か 詳 細
人骨問題とは?
1989年7月22日、新宿区戸山の国立予防衛生研究所建設現場から、ほとんどが頭骨と大腿骨という多数の奇妙な人骨が発見されました。たまたま工事現場近くで、弥生式住居跡の遺跡発掘にあたっていた戸山遺跡調査会は、見つかった人骨は埋蔵文化財ではないと判断し、警視庁牛込署に通報しました。
通報を受けた警視庁牛込署は、科捜研に鑑定を依頼、その結果は以下のとおりです。
1、個体数35体
2、死後経過年数20年以上
3、犯罪と認められる加害の証跡なし
戸山遺跡調査会が、埋蔵文化財と判断しなかった根拠は何でしょうか。明らかに「警察に通報すべき」と判断する事情があったのでしょうか。現場に居合わせた人からは調査会が当日残したメモがあった筈だといいますが、東京都はその公開を拒んだどころか、存在すら認めていません。
この土地は元々陸軍軍医学校があった土地です。専門家や多くの市民は、発見当初から「七三一部隊」など戦時中の医学犯罪の証拠ではないかと疑いをもち、新宿区もそれらの声に答えて真相の究明を約束しました。そして、区長、区議会一体となって、厚生省に調査を要求、さらに独自鑑定に取り組みました。
ところが厚生省は、その声に答えないどころか、新宿区に人骨の速やかな焼却・埋葬を要求してきました。
(詳細は厚生労働省への働きかけと対応を参照)
そこに陸軍軍医学校があった
人骨が発見された場所が「旧陸軍軍医学校」跡地であったということは、何を意味するのでしょうか。
軍医学校は、文字どおり軍医の教育・養成をするところです。ところで、日本の軍医が戦地で何をしていたか。元陸軍病院の軍医、湯浅謙さんが貴重な証言をしています。戦地の病院で数回にわたり生体解剖や人体実験を行っていたというのです。重要なことは、このおぞましい体験が、当時決して特別なことではなかったということです。
また「七三一部隊」は、凍傷実験や毒ガスの致死実験、異種血液の注入、伝染病の感染実験など、考えられるかぎりの残虐な人体実験を行い、大量殺戮兵器として国際法上使用が禁止されていた、細菌などを使った生物兵器や、毒ガス兵器の研究・開発を行っていたことで有名です。毒ガスについては、今日も遺棄弾が数万〜数十万発以上残っており、未だに付近住民を苦しめています。細菌戦については、寧波、常徳など中国各地で少なくとも4回実施されました。
この「七三一部隊」は、中国全土やシンガポールにまで展開していた防疫給水部のなかの一部隊に過ぎません。これらの統括機関であった防疫研究室は、軍医学校の防疫部に設立され、大学の医学部など、当時の医学アカデミズムと七三一部隊などをつなぐ役割を果たしていました。
つまり軍医学校や防疫研究室があった新宿戸山という場所は「七三一部隊」をはじめとする戦時医学犯罪の拠点であったということです。
調査を求める七三一部隊犠牲者遺族
人骨が発見されたとき、この問題に関心を抱いたのは私たちだけではありません。その当時、遠く中国の地では、少なくとも3000名はいたと言われる「七三一部隊」の犠牲者のうち、59名が確認されていました。
その遺族のうち、夫を失った敬蘭芝さんと、父を失った張可偉さん、張可達さん兄弟は、91年7月、日本の外務省と新宿区に対して、「人骨」の保存と調査、身元が判明した場合の返還と補償を求めて申立書を提出しています。また調査を行わないことは遺族の人権を侵害することだとして、日弁連人権擁護委員会にも申立が行われ、日弁連は、これを受けて調査部会を設置、新宿区長、内閣総理大臣、厚生大臣に調査と保存を求める要望書を提出しました。申立書は、その後も数人から提出されています。この方たちは、1993年7月〜8月、「心に刻む会」主催の証言集会でも来日し、熱い思いを語ってくれました。
日弁連は、1994年12月、新宿区に人骨の保存を、日本国政府に被害者の調査を求める勧告を行いました。(日弁連勧告書)
しかし日本政府は、これらの声に答えて、十分な対応をとっているとは言えません。
佐倉鑑定を読む
1991年8月31日から翌年3月31日の半年間、新宿区の英断により「人骨」の鑑定が実現しました。鑑定人は佐倉朔札幌学院大学教授(形質人類学)、一般に公表されたのは92年4月22日でした。
1、土中経過年数は数十年以上百年以下
2、個体数は前頭骨だけで六二体、全体ではおそらく百体以上
3、四分の一は女性で、未成年者も含む
4、モンゴロイド系の異質な人種が混在、一般日本人集団の無作為標本ではない
5、ドリルによる穿孔、鋸断、破切など人為的加工の痕跡
6、切創、刺創、銃創の痕跡
7、四肢骨の多くはいろいろな位置で意味不明の鋸断跡
この結果を皆さんはどう読むでしょうか。佐倉氏は公表後の記者会見で「戦争に関係のある骨だ」とはっきり言っています。(詳細は佐倉鑑定を参照)
人骨焼却差止住民訴訟事件
鑑定結果公表後、新宿区は今までの住民寄りの態度を一変させて「人骨の焼却・埋葬」を言いだし、92年度予算から、焼却予算を毎年計上しはじめました。逆に厚生省は、92年に入って、人骨の由来調査を開始しました。
もし、新宿区が予算を執行して人骨を焼却してしまったら、DNAや炭素・窒素の同位体分析など、身元を探るためのあらゆる情報が失われてしまいます。その意味で、焼却は被害者を口封じのために2度殺すことになるわけです。
人骨の焼却―戦時医学犯罪の証拠湮滅―を阻止するために、102名の新宿区民(94年7月22日現在)が、新宿区を相手に「人骨焼却差止訴訟」を起こしました。この裁判の目的は、侵略戦争の加害国「日本」の戦時医学犯罪を新宿区 - 政府に認めさせることです。つまり、加害国である日本の住民が、自らその加害責任を問う初めての裁判といえます。
訴訟は2000年12月、最高裁の判決が下されました。結果は敗訴でした。原告も死亡や移転により79名に減ってしまいました。しかし6年半に及ぶ裁判闘争は、その後の展開に大きな影響を及ぼしたと確信しています。
(詳細は人骨焼却差止め訴訟を参照)
厚生省の調査と厚生労働省の対応
人骨が発見されてから11年目の2000年6月14日、厚生省(当時)は、92年以来調査に取り組んでいた調査報告書を公表。そこで厚生省は、将来の由来調査を前提に、弔意を持って人骨を保管することを決定しました。(厚生省報告)
この決定を引き継いだ厚生労働省は、2002年3月、国立感染症研究所を含む戸山研究庁舎内に御影石造りの納骨施設を建立しました。
これからの人骨問題
人骨が発見されてから15年目を迎えます。この間私たちは、裁判、厚生省交渉、新宿区交渉と、政府や関係機関の無責任を責め続け、集会やデモなどで訴え続けてきました。一方、中国側の資料の公開や七三一部隊展に触発された多くの市民の努力などで、戦時医学犯罪に関する研究は飛躍的に進んできています。また、七三一部隊の犠牲者、毒ガス戦・細菌戦の被害者たちが続々と日本を告発し、裁判闘争を始めるという状況も生まれてきています。
私たちにとっては、遺骨の身元・由来について、事実を明らかにする努力がこれからもっとも重要な課題になりました。そのために専門家の意見を聞き、政府にも調査を求めていきます。
また、人骨発見現場に隣接する防疫研究室跡地にも、大量の医学標本類(遺骨)が埋められているという、確かな証言も得られています。その発掘調査も、新たな課題として浮上してきました。
戦争犯罪の物証としての「人骨」は、14年の間に、一人一人の人格を持った「遺骨」として認識されるようになってきました。私たちは、今まで本当に「人骨たちの声」に耳を傾けてきたでしょうか。その声に答えていくことが、これからの私たちに課せられた課題です。
http://www.geocities.co.jp/Technopolis/9073/zinkotuhp/document.htm
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