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日の丸油田開発の夢、またもや頓挫か?
http://nikkeibp.jp/wcs/leaf/CID/onair/jp/biz/425713
2006年03月24日 15時10分
イランの石油というのは日本にとっていつの時代でも鬼門のようだ。日本が官民一体で開発を始めたイランのアザデガン油田の事業の停止を求める圧力がアメリカからかけられてきたのだ。アメリカというよりも米欧諸国からの圧力と呼んだほうがよい。圧力の理由はイランの核兵器開発への動きである。
日本は過去にもイランの石油がらみで手痛い目にあってきた。私自身もその一端を目撃した。
■イランへの利敵行為を絶対に赦さない米国
1979年11月、イランでイスラム原理派の革命が進み、過激派学生が首都テヘランのアメリカ大使館を占拠して、アメリカ人外交官ら約50人を拘束してしまった。その外交官たちを人質にしてアメリカ政府に要求をつぎつぎに突きつけた。アメリカの時のカーター政権は必死で応じたものの、進展はない。カーター大統領はイランに対し石油をはじめ一切の物資を輸出入することを止める禁輸措置をとった。圧力をかけ、人質を解放させる目的だった。禁輸の結果、アメリカに売られるはずだったイラクの原油が大量に宙に浮いた。
一方、アメリカ議会でもイランと経済取引をする外国の政府や企業にはアメリカとの取引を禁ずるという厳しい制裁措置をとる一連の法案がつぎつぎに出された。上下両院にイラン糾弾の声が広がり、まず国際的な連帯によりイランを経済面で締めつけようという意見が多数派となった。
そんな状況下での禁輸で宙に浮いたイラン産原油を日本の商社など大手企業数社がさっと買ってしまったのだ。2000万バーレルという大量だった。本来はアメリカに輸出されるはずの原油をしかも正規の市場ではないスポット市場で買っていた。アメリカ側には日本の行動を利敵行為として非難する声が一気に広まった。
私はそのころ毎日新聞の特派員としてワシントンに駐在していた。そしてそれまではわりによかったアメリカ側の対日態度が文字どおり一夜にして悪化する状況をまのあたりに目撃したのだった。
「アメリカの敵を助ける背信行為」「「同盟国への裏切り」「イランのテロ勢力を支援する無神経」などなど、日本のこの商業行動を攻撃する声がアメリカ側の政府、議会だけでなくマスコミから一般世論まで一気に燃え上がったのである。その勢いには慄然とさせられた。日本にとっての石油の必要性への同情など皆無だった。日本の時の大平正芳政権はひたすら釈明と謝罪に出たが、いったん爆発した米側の反日感情はなかなかもとにもどらず、結局この事件で傷ついた日米関係の完全な修復にはその後、何年もかかることとなった。
■詳しくは、こちら「nikkeibp.jp SAFETY JAPAN 2005」サイトでご覧になれます。
http://nikkeibp.jp/sj2005/column/i/19/
イランの石油と日本ということではさらに忘れられないケースがある。1970年ごろから89年までに及ぶIJPC、つまり「イラン・ジャパン石油化学」の大事業の破綻である。三井物産が中心になって進めたものの、まったく実を結ばす、1300億円の清算金まで払って幕を閉じたイランでの日本の石油化学プロジェクトだった。
IJPCの出発は日本によるイランの油田廃ガス有効利用としての石油化学事業を目指し、両国間で結んだ1970年の覚書である。日本のエネルギー資源確保という大目的のために企業としてのIJPCが73年に設立され、中東戦争の荒波をかぶりながらも78年には建設工事の85%までが完成した。だが79年にイラン革命が起き、その対処に追われるうちに、こんどは80年にイランとイラクとの戦争が始まってしまった。この間、総事業費は7300億円にまで増額されていた。
だがイラン・イラク戦争は激化の一途をたどり、IJPCの工事現場までが爆撃を受けるにいたる。その結果、プロジェクト全体が81年11月には打ち切られてしまった。その後の残務整理や清算に8年近くの歳月がかかったわけである。壮大かつ無残なIJPCの破綻ドラマだった。
イランの石油と日本とのからみには、こうした多難な歴史があるわけだ。そんな歴史をみると、いま日本が直面するのは「第三次イラン石油危機」とも呼べるかもしれない。
日本は官民一体でその後もイランの石油開発への道を模索し、2004年2月には石油公団傘下の国際石油開発がイラン側と契約を結び、アザデガン油田の開発に着手することになった。イラン南西部にある同油田は1999年に発見されたばかりで、推定埋蔵量は260億バーレルと、世界でも最大級とされた。日本側はそこに総額20億ドル(二千数百億円)の経費を投入し、契約から8年で日量26万バーレルの生産を予定した。
ただしこのころからアメリカは日本のこの動きに反対していた。第一期目のブッシュ政権は明確に日本にイランへの石油開発大型投資をやめるよう求めていた。その理由はイランの核兵器開発への動きだった。イラン当局はこの当時から核兵器用の軍事転用が可能な高濃縮ウランを生産する施設を建設しようとしていたのだ。アザデガン油田の開発はイラン当局によるこの核兵器製造への歩みをより容易にし、加速すると懸念された。だからアメリカ政府は日本の同油田開発主導に難色を示したわけだ。
しかし日本はアメリカのこの反対を無視する形でイラン側との契約に調印した。日本にとって石油資源確保は致命的に重要な国家事業である。イランとの古くからの独特のきずなもあった。それになによりも当時はフランスの国際石油企業のトタル社がこのアザデガン油田の開発に意欲を示していた。もし日本が降りれば、フランスが一気に入ってくる構えだった。だからその点をブッシュ政権ではリチャード・アーミテージ国務副長官ら一部がよく理解して、最終段階では日本に対し軟化していた。
しかしそれから2年余りが過ぎて、日本にとっての情勢はずっと険しくなった。まず当のイランが核兵器を開発すると受け取れる動きをますます顕著にしてきたのだ。核拡散防止の立場から各国の状況を監視する国際原子力機関(IAEA)もその旨の警告を発するにいたった。アメリカは当然、イランに対する構えを硬化させる。ブッシュ大統領が3月16日にみずから発表した「国家安全保障戦略」も核兵器の新たな開発に関してはイランが全世界でももっとも警戒すべき「チャレンジ」だと強調したほどである。そのイランの石油資源を開発し、石油生産を潤沢にして国力の増強につなげるアザデガン油田の開発にアメリカが反対してくるのは当然となる。
2年前とくらべて日本にとってさらに不利なのはフランスはじめドイツ、イギリスなどの西欧諸国がはっきりとイランの核兵器開発阻止の立場を示すようになったことである。アメリカやフランス、イギリスは緊密な連携を保ち、国連安全保障理事会を使ってイランの核兵器開発を防止しようとする。ロシアと中国は一線を画し、イランの立場にある程度の理解をみせながらも、なお核兵器開発にははっきりと反対の意向を表明する。
国連安保理の動向はまだ予断を許さないが、もし常任理事国の5カ国がみな賛成して、イランに核開発を放棄させるための経済制裁ということになれば、当然、イランの石油の輸出やイランの石油の開発への投資を規制する国際合意が求められる。その場合に日本のアザデガン油田開発はその合意の違反となるわけだ。
だからアメリカ政府はここにきて、日本への同油田開発の停止を非公式ながら明確に要請するようになった。アメリカ政府関係筋が明らかにしたところでは、ブッシュ政権ではこれまですでに少なくともロバート・ゼーリック国務副長官、ジョン・ボルトン国連大使、ロバート・ジョセフ国務次官(軍備管理・国債安全保障担当)の3高官が日本政府に非公式な形でアザデガン油田の開発の中断を求める意向を伝えた。アメリカ側では日本が同油田の開発を進めれば、イランの財政を豊かにし、国力を強め、核兵器の開発に注ぐ力を増すことになるうえ、国連安保理がイラン制裁に踏み切れない場合でも米欧諸国主体の有志連合の国際連帯を乱すことになると懸念しているという。
そのあたりのアメリカの思考をボルトン国連大使は3月上旬、オン・ザ・レコードの公式発言で率直に語っている。
「イランは自国の資源の石油や天然ガスを対外戦略の武器に使ってきた。日本もその格好の対象となってきた。日本にとってのエネルギー資源の確保の重要性はよくわかるが、日本は同時に国際的な核拡散防止にも誓約を保ってきた。だから油田の開発よりもイランの核武装を防ぐことのほうが重要だろう。とくに日本はいま国際舞台で指導的役割を広げようとする時だから、イランの核兵器保持を防ぐ政策を進めることは自然だろう。アメリカにとっても日本が拡散防止の国際連帯に緊密に加わることが非常に重要なのだ」
日本への期待はこれほど大きいのである。だから日本がそのアメリカの期待を裏切った場合の米側の反発も激しいことが予想される。
日本には2年前にあった「日本が降りれば、フランスが入ってくる」という口実もいまはもうない。「日本が降りれば、中国が入ってくる」という言葉が日本側の一部ですでに述べられている。だがアメリカ側ではブルッキングス研究所のイボ・ダールダー、フィリップ・ゴードン両研究員のように「アザデガン油田の開発に必要な高度技術は中国にはまだなく、日本を含めての西側の米欧諸国だけがそれを保持している」と述べ、日本の「口実」を先回りするように事前に否定する向きもある。
いずれにしても、日本にとって年来の鬼門のイラン石油は日米同盟の危機とさえ呼べるような深刻な潜在摩擦を引き起こしつつあるようなのである。
古森義久(こもり・よしひさ)氏
[現職] 産経新聞ワシントン駐在編集特別委員・論説委員。国際問題評論家
杏林大学客員教授
[出身] 1941年、東京生まれ
[学歴] 1963年、慶應義塾大学経済学部卒業。ワシントン大学ジャーナリズム学科留学
[職歴] 1963年、毎日新聞入社。記者として静岡支局、東京本社社会部、外信部を経て72年から南ベトナムのサイゴン特派員。75年、サイゴン支局長。76年、ワシントン特派員。81年、米国カーネギー財団国際平和研究所上級研究員。83年、毎日新聞東京本社政治部編集委員。87年、同外信部副部長。同年に毎日新聞社を退社して産経新聞に入社、ロンドン支局長。89年、産経新聞ワシントン支局長。94年、同ワシントン駐在編集特別委員兼論説委員。98年9月から中国総局長、産経新聞の31年ぶりの北京支局再開の責任者となる。2001年から現職。2005年より杏林大学客員教授を兼務。
[受賞など] 76年、ボーン国際記者賞(ベトナム戦争終結時のサイゴン陥落報道で) 78年、講談社ノンフィクション賞(著書『ベトナム報道1300日』で) 82年、日本新聞協会賞(ライシャワー核持ち込み発言報道で) 93年、日本記者クラブ賞(日米関係報道などで) 95年、日本雑誌ジャーナリズム賞(中央公論連載『大学病院で母はなぜ死んだか』で) 90年から98年、米国ウッドロー・ウィルソン・フェロー
[著書] 上記の他に『核は持ち込まれたか』(文藝春秋)、『日本はなぜ非難されるのか』(集英社)、『アメリカの嘘と真実』(光文社)、『国際報道の読み方』(ネスコ)、『遥かなニッポン』(毎日新聞社)、『嵐に書く』(同)、『USA報告』(講談社)、『ワシントン情報ファイル』(新潮社)、『情報戦略なき国家』(PHP研究所)、『ヨーロッパの戦略思考』(同) 『日米異変』(文藝春秋) 『倫敦クーリエ』(同) 『世界は変わる』(同)、『透視される日本』(同)、『日中再考』(扶桑社)、『北京報道700日』(PHP研究所)、『日中友好のまぼろし』(小学館)、『亡国の日本大使館』(同)、『国の壊れる音を聴け』(恒文社21)、『ODA再考』(PHP研究所)、『国連幻想』(扶桑社)、『外交破壊』(小学館)、『中国「反日」の虚妄』(PHP研究所)。
[その他] 文藝春秋、中央公論、SAPIO、 諸君!、ニューヨーク・タイムズ、ウォールストリート・ジャーナル、インディペンデントなどの誌紙に論文寄稿多数。フジテレビ、TBS、ニッポン放送、文化放送、CNN、FOX、PBSなどのテレビ、ラジオにコメンテーターとして出演。
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