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http://www.mainichi-msn.co.jp/kokusai/europe/news/20060319k0000m030037000c.html
【ベオグラード会川晴之】ミロシェビッチ元ユーゴスラビア大統領の葬儀が18日、元大統領の故郷ポジャレバツ(セルビア中部)で開かれる。セルビア社会党によると、元大統領と交流があったロシア共産党の幹部や外交官など約50カ国の代表が参列するほか、数万人規模の支持者が別れを告げに参列する予定だ。ただ、タディッチ・セルビア大統領など政府関係者はすべての式典への出席を見送る。
葬儀に先立ち、同日昼から首都ベオグラードの連邦議会前でお別れの会が開かれた。会場にはセルビア全土から中高年齢層を中心に熱烈な支持者数万人が集まり別れを惜しんだ。
元大統領が率いたセルビア社会党や極右民族主義政党のセルビア急進党は、10年間に及び大統領を務めた実績をたたえるために「国葬を実施すべきだ」と要求した。しかし元大統領が戦犯として公判中だったことなどを考慮して親西欧派の現政権は要求を拒否した。
お別れの会の後、遺体はベオグラードから車で約1時間のポジャレバツに移送され、社会党の関係者などによる葬儀が執り行われる。ひつぎは元大統領とミリヤナ夫人が「ファーストキス」をした菩提樹(ぼだいじゅ)の根元に埋葬される。
地元各社の報道によると、セルビア当局から職権乱用などで訴追され、モスクワに在住しているミリヤナ夫人など親族は葬儀に出席しない見込み。司法当局は保証金や裁判所に出向くことなどを条件に同夫人の拘束を見送る判断を下したが、親族側は帰国を見送ったとみられる。
元大統領は旧ユーゴ紛争の責任者として、オランダ・ハーグの旧ユーゴ国際戦犯法廷で人道に関する罪などに問われていた。結審を待たず11日に死去したため、20万人以上の死者を出した旧ユーゴ紛争の戦争責任は未確定なままに終わった。
◇鋭い政治感覚…民族主義路線に
ミロシェビッチ元ユーゴスラビア大統領の生涯は、「民族の十字路」と呼ばれるバルカン地域での権力者の盛衰を象徴していた。その軌跡は、多民族共存の理想から民族自決権への傾斜に揺れ動いた旧ユーゴ連邦の歴史と重なる。
64年の生涯を閉じたミロシェビッチ氏は暗い幼少時代を過ごした。神学校教師の父と母は相次いで自殺した。だが、セルビア中部ポジャレバツで暮らした時の級友で、エリートの家系のミリヤナ夫人との出会いが、その後、出世コースを歩むきっかけになる。
第二次大戦後の旧ユーゴ連邦を率いたチトーは、セルビア人、クロアチア人、スロベニア人など多民族の融和を重視。チトー時代には6共和国2自治州の分権化を進める法改正が行われたが、ベオグラード大学法学部学生だったミロシェビッチ氏は寮友に「これは正しくない」と語った。権力集中の意義を重視する気質は当時からあった。
大学卒業後、ベオグラード銀行勤務を経て、一党独裁の共産主義者同盟の幹部として昇進した。同氏は筋金入りの民族主義者とは言えない。チトー死去後の80年代後半、アルバニア系住民の多いコソボ自治州でセルビア人擁護の発言が共感を得たことを察知し、民族主義路線に転じた。鋭い政治感覚によるものだ。
セルビア共和国の指導者になったミロシェビッチ氏は89年、同共和国内のコソボ自治州の権限を縮小する憲法改正を行った。さらに旧ユーゴ連邦内でのセルビアの主導権拡大を画策した。その反動が91年以降の連邦解体につながり、今、モンテネグロとコソボも独立に向かっている。
90年代の民族紛争の流血の責任を問われ、旧ユーゴ国際戦犯法廷に拘置された同氏は、「セルビアは誰にも屈しない」と繰り返し言った。しかし、彼の弔いの場に民族主義が陥りがちな虚飾の影をセルビア人は見たのではないか。【町田幸彦】
毎日新聞 2006年3月18日 19時08分 (最終更新時間 3月18日 21時03分)