★阿修羅♪ > 戦争79 > 183.html ★阿修羅♪ |
Tweet |
http://d.hatena.ne.jp/TomoMachi/20060304#seemore
2006-03-04 「わかってもらえるさ」RCサクセション
今年のアカデミー賞で作品賞ほかにノミネートされている映画『グッドナイト&グッドラック』は、マッカーシー上院議員による「赤狩り」が吹き荒れる50年代を舞台に、政治的な傾向のあるマスコミ関係者が次々と社会主義者と決め付けられて弾圧されるなかで、マッカーシーに敢然と立ち向かったCBSのキャスター、エド・マローの勇気を描いている(詳細)。
しかし、なぜ、今、50年も昔のことを映画に?
製作・脚本・出演のジョージ・クルーニーは、赤狩りの恐怖のためにマスコミ関係者が政府批判を避けるようになった50年代が、対テロ戦争の下、マスコミがブッシュ政権を批判しなくなった現在の状況とが似ていると考え、ジャーナリストに本当の役割を思い出させるためにマローのことを映画化しようとしたのだ(クルーニーは大学まではキャスター志望)。
この『グッドナイト&グッドラック』のシナリオをクルーニーと共同で執筆したグラント・ヘスロヴは、50年前の赤狩りに現在を象徴させる手法についてインタビューでこんな風に言っている。
http://clooneystudio.tripod.com/grantheslovinterview.html
「僕たちが参考にしたのは『るつぼ』でした。『グッドナイト&グッドラック』は僕らにとっての『るつぼ』です」
『るつぼ』とは、50年代「赤狩り」の真っ最中に劇作家アーサー・ミラーが書いた戯曲で、17世紀にアメリカのセーラムで起こった魔女狩りを描いている。無実の者がある日突然、魔女だと決め付けられ、周囲の人々は自分が標的になることへの恐怖から魔女弾圧に加担する。ミラーはその劇を通じて、当時まさに猛威を振るっていた「赤狩り」もまた「魔女狩り」であると言おうとしたのだ。
もちろん「魔女狩り」と「赤狩り」の間は200年以上離れているし、二つの出来事は事情も、状況も、理由も、何もかもまったく異なる。
また、「赤狩り」と「現在の対テロ戦争」も50年以上は離れているし、事情も状況も理由も何もかもまったく異なる。 さらに、上記のような解説がなければ、『グッドナイト&グッドラック』を観た観客の多くは、これをただの歴史的事件として見るだけだろうし、『るつぼ』も同じことだ。実際、ヘスロヴは高校の頃は『るつぼ』の意味がわからなかったが、後から研究して知ったと言っている。
同じくアカデミー作品賞・監督賞にノミネートされている『ミュンヘン』は、72年のミュンヘン五輪で選手団11人をパレスチナのテロリストに殺されたイスラエルが報復のためにパレスチナの政治運動家11人を暗殺しようとした実話を描いている。(詳細)
しかし、なぜ、今、30年も前の事件を映画に?
『ミュンヘン』は、在りし日の世界貿易センターが墓標のようにそびえる姿で終わる(CGで73年当時の風景を再現したもの)。
ここで、多くのアメリカ人は衝撃を受けた。そこまで二時間見せられた復讐劇が、なぜ、今、作られたのかわかったのだ。テロへの報復がたとえ正義であろうと、報復は新たな報復へと永遠に続いていくだけだということに(そう感じなかった人には唐突なだけだっただろう)。
監督のスピルバーグは『TIME』誌のインタビューで、「911テロとミュンヘン五輪襲撃との間には何の共通点もない」と強調しながら、にもかかわらず、「(世界貿易センタービル)を見せなければならなかったんだ」と言っている。http://time-proxy.yaga.com/time/archive/preview/0,10987,1137679,00.html
惜しくもアカデミー賞候補にはならなかったが、批評家に絶賛された『ヒストリー・オブ・バイオレンス』は、30年前にギャングの殺し屋だった男(ヴィゴ・モーテンセン)が、正体を隠して小さな田舎町に住んでいたが、ふとしたことでギャングたちに見つかってしまい、平和な家庭を守るために再び殺戮を始める物語だ。(詳細)
「西部劇にはよくある話だよ。引退したガンマンが名前を隠して農民になろうとするが、ならず者たちに狙われて再び銃を取る」
監督のデヴィッド・クローネンバーグは僕のインタビューでこう言った。
Even though the movie is not overtly political, it is still somewhat political.Viggo and I discussed the political overtones of the script, The question is this: is American foreign policy right now actually taken from old American western movies? If someone attacks you and your family, is any retaliation justified?
「この映画はまったく政治とは関係ない。にもかかわらず、やはりこの映画は政治的なんだよ。
主演のヴィゴ・モーテンセンと私は、この脚本の政治的含意について話し合った。(この映画が観客に喚起する)問いはこうだ。今のアメリカの外交政策は西部劇映画に影響されてるんじゃないか? 誰かが自分や自分の家族に危害を加えたら、どんな報復も正当化されるのか?」人間は、暴力の歴史を断つことはできないのか?
こんなことは最近の映画に限らない。
たとえばシェイクスピアは彼の時代よりも1500年以上昔のジュリアス・シーザーの史実を通して当時のイギリスの状況を批評した。
さらに、後世にその戯曲を読む者は、読む者が属する社会や時代に共通するものを物語の中に見出しながら読んでいくものだし、そういう風に読める作品だから残っている。
『ホテル・ルワンダ』を監督したテリー・ジョージは北アイルランド出身の白人である。
アイルランド人が、なぜ、アフリカの小国の民族虐殺を映画化しようとしたのか?
テリー・ジョージは、カソリックとプロテスタントの殺し合いの間に挟まれ、投獄されるなど苦難の青春時代を送り、映画作家になってからも、その抗争の間に挟まれた者を常に主人公にしてきた。その彼が『ホテル・ルワンダ』を映画化しようとした動機をインタビューで答えている。
http://www.bluntreview.com/reviews/terrygeorge.html
「私は宗派(派閥)の対立について特に経験がある。その対立がどのように操られるのかも身をもって知った。“異者”への脅威が普通の人々に恐怖を注入するんだ。たしかに、ルワンダの虐殺は北アイルランドとは規模もまったく違うけれど、それでも根っ子の部分ではやはり同じなんだ。分裂し、相手を征服しようとし、異者が自分の財産や自分の命を狙っているという恐怖を作り上げることだ」
テリー・ジョージ監督も認めているようにルワンダの虐殺と北アイルランドのカソリックとプロテスタントの対立は、場所も、理由も、事情も、状況もまったく違う。関係ない。
それでも、何もしていない人々をその属性によって殺そうとする、ということでは同じなのだ。
そして、ルワンダの虐殺と関東大震災での朝鮮人虐殺はたしかにまったく関係ない。
でも、僕は書いた。
「ルワンダは遠い世界の私たちとは違う人たちの話。私たちは虐殺なんかしない」と思う観客の皆さんのために。
パンフレットの文章の最後の最後にたった一行だけ。
スピルバーグが『ミュンヘン』の最後の最後にまったく物語と無関係な世界貿易センタービルを見せたように。
ポールさんは「ルワンダと同じような状況になったら、ルワンダの教訓を活かして欲しい」と願ったが、「同じような状況」であって「何から何までまったく同じ状況」とは言ってない。
すべての状況はそれぞれに違うに決まっているからだ。
だから「関東大震災の朝鮮人虐殺はルワンダ虐殺とは違う」と差異をあげつらうのは簡単だ。
太平洋戦争時の日系アメリカ人の強制収用やリンチだって事情や状況が違う。
トルコのアルメニア人虐殺も、ナチやロシアによるユダヤ人虐殺もみんなそれぞれに事情は違う。
だからそれぞれの違いを考えるのももちろん大切だ。
でも、動機や状況や歴史的背景がどう違おうと、恐怖によって多数派が少数派の異者を、それぞれの個人の行動の罪によってではなく、属性によって殺した、という事実は同じだ。
「大震災の場合は違う」と強調したい人は、「違うから悪くない」と言いたいのだろうか?
そうやって正当化するのなら、人は何度でも虐殺を正当化できる。
それでは、歴史からも、映画からも何も学べない。
「根っこの部分では同じなんだ」と、テリー・ジョージ監督は北アイルランドの経験を投影して『ホテル・ルワンダ』を撮った。ならばなぜ、それを関東大震災に投影してはいけないのか?
関東大震災で殺されたのが朝鮮人だったことはあまり重要ではない。
僕に韓国の血が流れていることともそれほど関係はない。
(僕に韓国の血が流れているからといって、「ルワンダ」の件を韓国人としての党派的発言だと考える人がいるようだが、僕は韓国民ではなく、日本国民だ。何かを考える時、僕はまず日本人としてしか考えられない。混血であるというアイデンティティがその次で、韓国系としてのそれは三番目だ。たまたま父親が韓国人だっただけで何の民族教育も受けてないのに、僕が韓国人として物を考えることができるわけないじゃないか。正直言って、僕は頼んだわけでもないのに生まれたら勝手に韓国の血だけ入ってて、その後何のフォローもされず、迷惑以外何も受けてないんだよ。そんな僕を韓国の手先と考えるのは太平洋戦争中にアメリカの日系人を「敵性分子」として収容所に入れたFBIと同じ考え方だ。僕にとって韓国というのはアメリカの黒人にとってのアフリカのようなものだと言えばわかるかな? なんたって僕は今の天皇陛下が大好きなんだぞ。わからない人にはわからないだろうが、日系人が真珠湾攻撃に迷惑したように、韓国や北朝鮮の狂った反日行動に一番迷惑しているのは僕のような存在なのだ。竹島なんて原爆でこの世から消してしまえばいいと思っている。あんな岩くれのために日本の韓国・朝鮮系が白い目で見られるなんてアホらしい。人は誰でも民族性や党派に当てはめて決め付けようとするが、関係ない人だっている。たとえば僕はイラク戦争やブッシュ政権に反対したので反戦リベラルだと決め付けられるが、そもそも僕が『宝島30』やってた頃、『噂の真相』から「新保守の黒幕」って叩かれてたの知らないの? 北朝鮮拉致や辛ガンスの告発も、まだ国やマスコミが否定していた1992年に既に僕が『宝島30』でさんざんやってたの知らないの? 『底抜け合衆国』を読んでもらえばわかるように、2000年の選挙では民主党のゴアにも反対だった。ずっと応援してきた大統領候補は共和党のジョン・マケインだ。『華氏911』には賛同したが、銃器を所持する権利は守るべきだと思ってて、三度のメシより銃が好きでしょっちょうバリバリ撃ちまくっている。僕はグローバリズムの悪い面を批判したが、だからといってグローバリズム絶対反対!というわけじゃなくて、いい部分はいいと思っている。インチキな金持ちは嫌いだけど資本主義は大好きで、自分はお金持ちになりたい。男女雇用機会均等と共稼ぎに賛成だが、夫婦別姓に反対だし、女性は優しいほうがいいと差別的なことを考えている。事によって意見なんかバラバラで矛盾だらけで、党派や民族に偏った思想なんかない。普通の大多数の人たちと同じようにね)。
関東大震災の虐殺の原因は現在の日本での朝鮮人蔑視とも日韓併合とも直接はそれほど関係はない。当時の朝鮮人は日本国民であり、韓国と言う国は存在しない。少なくとも現在の韓国とは直接の関係はない。この事件はむしろ日本の中の少数民族問題として考えたほうがいい。
震災のパニックで、人々の恐怖心が朝鮮人が井戸に毒を入れたというデマになっただけで、実は異者ならば、朝鮮人でなくても誰でも被害者になる可能性があったのだ。
重要なのは、テリー・ジョージの言う「根っこ」の部分、「異者への恐怖」そのものだ。
僕は、マスメディア(朝日新聞もだ)がデマを撒き散らし、見た目に違いがない隣人を殺したという点で、ルワンダの虐殺と関東大震災との共通点は多く、日本史上、最も「似たような」例だと思われたので結びつけた。歴史のすべての事件の事情はそれぞれに違うから差異があるのは当たり前だ。
もちろん、そのパンフが日本の観客向けだからそれを例に挙げたわけで、もしオーストラリアの観客向けなら、先日のアラブ人リンチ事件、アメリカなら……山ほどあるな、韓国、中国、それぞれの国の観客に対してはそれぞれの例を挙げて「誰にでもどこにでも起こり得る」と映画を遠い外国の出来事から身近に引き付けるための一言を書いていただろう。
しかし、実際「ルワンダはルワンダ。うちとは関係ない」と分けて考えたがる人がいっぱいいるわけで、期待するだけ無駄、と言う人もいる。
無駄だから言わなきゃいいのに、ということだ。
スピルバーグは『ミュンヘン』作ったせいでユダヤの同胞から裏切り者呼ばわりされている。
ジョージ・クルーニーは『グッドナイト&グッドラック』でマッカーシーを再評価する右派メディアから袋叩きになっている。
彼らは商業的な娯楽映画を撮ってたほうが利口だと言われている。
僕もこんなこと書かないほうが利口だったかもしれない。
仕事やファンが減るだけで何も得しないのに韓国系であることを明らかにするのも、まったく利口なことではない。
ただ日本で公開される映画のことを褒めて金を稼いでいるほうがずっと利口だ。
しょせん映画なんてただの娯楽で、劇場を出ればみんな忘れるんだ。
『ホテル・ルワンダ』でルワンダの虐殺を撮影したカメラマンが言う。
「みんなこれをテレビで見ても『ひどいわねえ』と言うだけで、また何事もなかったように食事を続けるだけさ」
『ホテル・ルワンダ』を見ても「ひどいわねえ」と言うだけで、日本は関係ないと思うだけさ。
人は決して歴史から何も学ばないのだ。
だから、自分と自分の家族の生活だけ心配して、余計なことを書かないほうが利口かもしれない。
でも、やるんだよ。
『ホテル・ルワンダ』で最も感動的なシーンはこれだ。
ポールさんが、ついに国連軍から「君の家族だけ逃がしてやる」と言われる。
しかし、ポールさんはホテルに残ることを選ぶ。泣いて怒る妻子を先に逃がして。
それまでのポールさんはとにかく自分の家族を守ることだけに必死だった。家族愛なんて誰でも持っているものだ。しかし、家族を捨てて、他の人々のために残ると決心した時、彼は家族愛を超えた。だからあのシーンは感動的なのだ。
ポールさんと同じで僕らも映画作家も、政治家でも軍人でもない。
政治のことをいくらいっても床屋談義にすぎない。
パンフにも書いたとおり、テリー・ジョージ監督は、最初の脚本にあったルワンダの特殊な政治的事情に関する部分を大幅に切り捨てた。
そしてポールさんを世界中どこにでもいる人として演出し、時代や土地を超えて共通する普通の男がどうするか、という部分に絞って『ホテル・ルワンダ』を作った。
だから、僕らのような普通の人間にまず、できることは、自分たちが生きて生活する場で、将来虐殺が始まったら、扇動に乗らずに、ポールさんと同じように、自分では絶対に殺さない、と胸に誓うことぐらいだ。
でも、そういう人が世界中にいっぱい増えれば虐殺は減るだろう。
映画や芸術は政治や経済や軍事と違って世の中そのものを直接変えることはできない。
でも、個人個人の考え方は変えることができる、伝わらないことがほとんどだとしても、あきらめずにずっと続ければ少しずつわかってくれる人が増えてくる……愚直にも楽観的にもそう信じようとする気持ちによって映画や芸術は作られ続けていると思う。
スピルバーグもクルーニーもクローネンバーグも、自分と自分の家族の生活のために商業的な娯楽映画だけ撮ってりゃいいのに、無駄だと思っても映画に自分の考えを込め、それが人々に伝わるようインタビューで自分の意図を訴える。
表現が人の気持ちや考え方を変えると信じている。
なぜなら、彼ら自身が映画や小説や戯曲によって目を開かれ、表現者になったからだ。
自分が目覚めたように他の人も目覚めるかもしれないと思うから、無駄とは知りつつも表現することをやめることはできない。
そして僕の仕事は、彼らの意図を彼らの言葉を使って、観客にとって身近なものに結び付けて、観客に伝えることだ。
『ホテル・ルワンダ』のパンフレットでは、上記のテリー・ジョージ監督のインタビューの「ルワンダもアイルランドも根っこは同じだ」という言葉を引用してから大震災の虐殺の話へとつなげたほうが唐突な印象は和らいだかもしれない。でも唐突さでは『ミュンヘン』のラストシーンと似たようなものだと思うけどね。
しかし、最後にたった一行書いただけで朝鮮人への憎しみがぶわーっと沸き起こる人々を見ると、「やっぱりルワンダと変わらないじゃん」と言いたくなった。
でも、僕はブログに関東大震災の朝鮮人虐殺のことを書くとき、虐殺を止めようとした日本人のことばかり書いた。
それは、「日本人はひどいことをした」と断罪してもしょうがないからだ。
だって立場が逆なら朝鮮人が日本人を殺しただろう。どこの民族も虐殺をやってるわけだから。
80年前のことで今の日本人を責めても意味がない(責められた、と思った人は過剰反応したようだが、その人には自分が虐殺をするような人間だという自覚があるのかもしれない)。
僕は、それよりは「ポールさんみたいな人が実際に日本人にいたんだ」という事実を胸に刻んだほうがポジティブだな、と思ったからそう書いた。
そうやって虐殺を止めた日本人こそが本当の日本人だと信じたほうがポジティブだ。なぜなら僕が日本人だからだ。
クローネンバーグはインタビューでこんなことも言っていた。
「現実というのは一つではない。現実は人によって違う。人間は自分にとって現実だと信じたい現実しか信じない生き物だ。モラルも一つではない。自分に都合のいいようにモラルを解釈する。教会で『汝、殺すなかれ』という聖書の教えを奉じ、中絶に反対するキリスト教徒が同時に、戦争や死刑制度に賛成する。だから人類は殺し合いをやめることができないだろうと思う。でも、だからといって、殺し合いのない世界を想像することをあきらめてはいけないんだ。不可能なことを信じるのも、人間だけができることだから」