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http://www.mil-box.com/news/2006/20060215_8.html
<彰古館 往来>
〈シリーズ 49 〉
外地での戦争では帰還兵が国内にコレラやペスト、腸チフスなどの伝染病を蔓延させる危惧があります。
明治27年(1894)の日清戦争の折、野戦衛生長官だった石黒忠直軍医総監は、後藤新平中央衛生委員を陸軍省次長の児玉源太郎少将に推薦し、広島の宇品港外の似島に検疫所を開設します。衛生制度上も検疫部を独立した陸軍省内の一部局として、陸軍大臣直属の検疫官の職権を定めます。これによって帰還者は、いかなる階級・人物も例外を認めず、検疫を受ける義務が発生しました。
長期に亘る極限状態から解放され、外地から凱旋した帰還兵は一刻も早く帰郷したいのですから、検疫と停留、入院・隔離、治療などに対しては不平も多く出ました。しかし、伝染病予防の観点から断固として実行に移されたのです。
さらに下関の彦島、大阪の櫻島、小樽検疫所を開設し4箇所体制としました。
明治27年6月1日から翌年の1月11日までの間に似島検疫所では検疫船舶数441隻、検疫人員96,168名、停留人員28,980名、入院患者総数1,260名に上り、これは当時世界でも例を見ない規模でした。石黒は報告書をドイツ語に翻訳し、プロシア衛生長官に贈呈し、絶賛されました。
10年後の日露戦争では、日清戦争時の似島検疫所を第一検疫所とし、さらに第二検疫所を増設し、明治37年(1904)11月1日から、翌年6月14日まで検疫活動を実施したのです。
まず、帰国する船内で検疫の必要性と要領を説明した冊子を渡され、宇品港外で乗船している船舶の消毒が行われます。上陸後は私物品と武器・装備品に荷札をつけて別に消毒します。
着ている服は全て脱いだ上で消毒され、石炭酸水のプールの沐浴で体を消毒して新しい着物に着替えます。血液検査の結果が出るまで、新聞・雑誌・遊具完備の娯楽室で数日から数週間停留されることになります。
この検疫に従事した職員数は1,153名、衛生部員は350余名でした。この間の検疫船舶数は1,753隻、検疫人員663,443名、停留人員3,022名、入院患者7,122名という未曾有の検疫作業となったのです。
彰古館に現存する「明治三十七八年戦役陸軍衛生史」によって、史上最大の防疫活動の詳細が、現在に伝わっています。