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http://www.mainichi-msn.co.jp/chihou/kanagawa/news/20060128ddlk14040304000c.html
平和のものがたり:61年目の戦後に/番外編 中沢啓治さん/下 /神奈川
◆「はだしのゲン」作者・中沢啓治さん
◇人類にとって、最高の宝 自分の身に合うような考え方でとらえてこそ平和という言葉が生きてくる
原爆で父と姉、弟、妹を失った中沢啓治さん。平和への思いを心の隅に抱きながら、まだ形になっていなかった。
◇ ◇ ◇
僕は漫画家を目指し1961年に上京した。SF物や「ガメラ対ギャオス」「ゴジラの息子」……。暗い気持ちを吹き飛ばす明るい楽しいものを描きたかった。
だから原爆を描くのは嫌だった。ある日、仲間に「広島で原爆を受けている」と話すと、ものすごい形相で僕を見た。東京では原爆を受けていると放射能がうつるという奴もいた。ものすごい差別。原爆がますます嫌いになった。新聞でも「原爆」の文字が躍っていたら一切読まない。原爆から全部逃げた。
描くきっかけは原爆病院に7年入院していたお袋の死。遺体を火葬場で焼くと、骨がない。「こんなバカなことあるか」。原爆直後、おやじや姉の骨を掘り出したときは頭がい骨から全部あった。だけどお袋は小指の先くらいの破片が白く点々としているだけでどっちが足か頭かさえ分からない。「原爆の放射能の野郎はお袋の骨までとっていったのか。もう黙ってないぞ。言いまくってやる」と決意した。
「はだしのゲン」を描き始めるとたくさん手紙が来た。「戦争と原爆がこんなに悲惨だとは知りませんでした」が圧倒的な声だった。だけど反対にショックだった。「日本は唯一の被爆国だ。唯一の平和憲法を持つ国なのに全然分かってないじゃないか」ってね。
平和という言葉が氾濫(はんらん)し始めたのは、原爆の漫画を描き始めた60年代末ごろじゃないかな。ビートルズが来て、「ピース」とやり、学生運動の新宿騒乱のときも「平和を守れー」と、機動隊とぶつかっていた。
でも、平和が氾濫するとうさんくさいものでね。僕らにとって平和は待望久しいものだったけど、今は平和ぼけになっている。若者は語呂合わせのように「平和平和」と言うが、平和の実態を知っているのか。本当の平和は一生懸命作り上げていくものなんだ。平和を得るためにすごい犠牲を払っていることを突き詰めて考えないと平和という言葉が浮いてしまう。
このままだと僕らが死に絶えたとき日本はまた戦争をするだろう。戦前のように言論弾圧とかファシズム体制に動き出すんじゃないか。だから、300万人以上の日本人が犠牲になり、やっと手にした平和憲法を守ることは絶対必要。改正論が動き出したら目をつむるんじゃなく、一人一人が立ち向かい、本当の平和を求めなきゃいけない。だてや酔狂で平和は来るもんじゃない。
平和を守るためには戦後、人々が平和を願い企業や建物に平和と冠したような小さな力が一番大切なんじゃないかな。毎日ごはんを食べられるのも映画やテレビを見られるのも平和のおかげと、自分の身に合うような考え方でとらえてこそ平和という言葉が生きてくる。
僕は2年前から目を悪くして、もう漫画は書いていない。でも、死ぬまでに戦争がどんなに悲惨なものか、今度はドラマで作り上げたい。作品を通じ平和はどんなにありがたいか分かってもらいたい。人類にとって最高の宝は平和なんですということをね。
◇ ◇ ◇
取材後、中沢さんは記者の求めに応じて、久々にペンを取りスケッチブックにメッセージをしたためてくれた。一点を見つめるようなすがすがしい瞳のゲン。そして、確認するようにもう一度。
「人類にとって最高の宝は平和です」【堀智行】
毎日新聞 2006年1月28日