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2006 年 01 月 15 日(日)
http://ch.kitaguni.tv/u/1023/%bb%fe%bb%f6%a1%f5%bc%d2%b2%f1%cc%e4%c2%ea/0000311764.html
☆9月21日水曜日にアメリカン大学にて行われたHart Viges氏の講演 Bring Them Home Now Tour(反戦翻訳団)
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http://blog.livedoor.jp/awtbrigade/archives/50173838.html
原文:Speech by Hart Viges on Wednesday September 21st at American University
http://www.bringthemhomenowtour.org/article.php?id=226
翻訳:203号系統
先ず、イラクに出征した日本軍将校の講演録をお読み下さい。
【イラクにおける自衛隊の活動について】第一次イラク復興支援群長 番匠幸一郎;自民党、国防部会・防衛政策検討小委員会(2004/6/16)
http://www.jimin.jp/jimin/jimin/2004_seisaku/iraku/01.html
以下、転載。
そして3つ目は、日本人の素晴らしさを感じたということであります。先程、イラクの方々から手を振っていただいた、歓迎していただいたということを申し上げましたけれども、これは私たち自衛隊が行ったからということだけじゃないのではないかなと。
もっと古くいえば、日露戦争で活躍をした100年前の先輩たちが行ってという日本の歴史、あるいは戦争から復興を成し遂げてこられた我々の父親とか祖父母の世代の方々が努力をされた姿を、きっとイラクの方々は見ていたのだろうし、最近で言えば20数年前のODAによってサマーワ病院ができたときにいた日本人がどんなに素晴らしかったかということをいろんなところで聞きました。
そして、いまでは、車とか電化製品とか日本製品がたくさんあります。この信頼性というもの。そういういろんなことが相まって、日本人に対する信頼感とか敬意を向こうの方々は持っていただいた。
その上に我々がポンと行ったものですから、歓迎していただいたということじゃないかなと思うのですね。そういう意味では、日本人はやはりすごいんだなと。
それからこれは若干、手前味噌になるかもしれませんけれども、今回隊員たちを連れていって、ある意味再発見をしたというか、何があってもびくともしないし、世界のいろんな国の軍隊とある意味では比べることがありましたけれども、どこにもひけをとらないだけのレベルにあるなという感じがいたしました。そういう意味では、日本人であるからこそ隊員のレベルもこれだけのものを維持できているのかなというふうにも思いました。日本人の素晴らしさ。
以上、転載終わり。
この将校は、サマワと云う都市がどうして「復興」を必要とする事態になったのか、現地に行ったくせに一言も語らない。20数年前に日本人が作った病院を自賛しながら、15年前から日本人も加担していた経済制裁
http://www.mdsweb.jp/doc/773/0773_08a.html
のためにイラクの医療がどう云う状態に陥ったのか、
http://square.umin.ac.jp/ihf/news/1999/0715.htm
一言も語らない。果ては電化製品の話まで持ち出して、結局のところこの将校の講演は、イラクにおける自衛隊の活動をネタに「日本人はやはりすごい」と言いたいだけなのではあるまいか。
原因を理解しようとしない者は同じ過ちを何度でも繰り返しますので、戦地で汗を流して居られる兵隊さんのために、サマワは誰に破壊されたのかを伺ってみましょう。 サマワにも居られましたイラク帰還兵Hart Viges氏です。では、どうぞ。
●
Hart Vigesと申します。 9・11事件が起こったその翌日、私は新兵募集案内所( recruiting office )に行って「私を空挺部隊に入れて下さい。歩兵にして下さい。」と係官に言っていました。それが世界を良くする為になる、と考えていたのです。
私は歩兵学校と空挺学校に入り、第82空挺師団に配属されました。そして2003年2月にクウェートに出征しました。
第3歩兵師団の進撃が予定よりも早かった為め、私たちは地上からイラクに侵攻しました。ですので、私がバグダッド空港に降下する必要は無くなりました。
貯蔵物資を押さえるためにサマワに侵攻したとき、私が居た迫撃砲小隊は無数の砲弾をこの町にぶち込みました。カイオワ攻撃ヘリコプター がヘル・ファイア・ミサイルを何発も何発も撃ち込むところも見ています。
AC130(訳注:原文ではC130となっている)スペクター・ガンシップも見ました。
・・・これがどんなものか貴方が知っておられるかは、判らないのですけど・・・
この兵器は町を更地にすることが出来ます。弾帯で供給される砲弾を、幾つもの巨大な多銃身回転式機関砲(super-Gatling guns)で発射することが出来るのです。町には正に炎が降り注いだのです。(訳注1)
私が撃った迫撃砲弾によって何人の無辜の人たちが死んだのか、私には判りません。そのことについては、頭の中で想像をめぐらすだけです。ですが、無線で聞いた言葉は、はっきりと憶えています。「全タクシーへの攻撃を許可する。敵はタクシーを物資輸送に使っている。」
一人の狙撃兵が無線で問い合わせて来ました。「失礼ですが、先ほどの命令は私の聞き間違いでしょうか?タクシーはみな攻撃して宜しいのでしょうか?」
「そうだ。ベルトを締め直してかかれ。」
突然、町はぶっとびました。タクシーに無辜の市民が乗っていようがいまいが構うことなく、私たちは迫撃砲弾を降らせたのです。狙撃兵が撃ち始めたタクシーに子供が乗って居るか居ないかなど、私たちは気にはしませんでした。
次はファルージャで、私たちは抵抗を受けることも無く町に入り込みました。が、C中隊は、地域作戦遂行のために学校を接収することに決めたのです。それに抗議する人たちがやって来て言いました。「私たちの学校から立ち去って下さいますよう、どうかお願いします。私たちの児童にはこの学校が必要です。教育が必要なんです。」
彼らは住民たちの申し出を断りました。住民たちは4、50名ほどの集団で再びやって来ました。中にはAK-47をぶっ放すなどと名案を思いついた輩も居て、銃を空に向けて撃ち放っていました。その弾が何発か学校に飛び込んで来たのです。
我が軍は抗議の人々を粉砕しました。(訳注2)
そのようなことがあって、事の重大さを認識した我が軍は速やかに学校より撤収しました。(訳注3)
それから私たちはバグダッドに移動しました。そこでの日々を、私は思い出したくもない。忘れようと努めています。そこでは、バグダッド郊外にある浄水場に向かう請負業者を護衛する日々を送りました。残念乍ら、彼らは自国再建に勤しむイラク市民ではありませんでした。
そのような場所は危険であると聞いていたかもしれませんが、私たちが行ったときにはそれはまた美しいところでした。芝生にシュロの木が植わっておりその間を川が流れていました。百姓たちも居ました。戦火に晒されたことが無いかのような美しい所をイラクで目にしたのは、全くその時が初めてでした。
両側に深い溝の在る道路から出ようとしたときでした。突然、RPG(Rocket Propelled Grenade Launcher、ロケット推進式榴弾)が私たちに向かって飛んで来ました。そしてどうした訳か、RPGを持った二人の男が道の向こうから私たちの正面に這い上がって出て来たのです。
彼らは右手の方に走って行きます。そして私は自分の持ち場を見据えておりました。私は良く訓練された兵士です。銃弾と同様に混乱が死に直結することを知っております。私は持ち場を見据えながら、正面と右手の方向に向かって大声で叫ぶだけでした。「武器を捨てろ」と。(「武器を捨てろ」はアラビア語で。)
彼らは、女たちそして子供たちに掴まっていました。そう、それで(私たちは)射撃を控えたのです。私はもう耐えられずに(銃を)他所に向けてしまいました。腰に狙いを定めて、指を引き金に掛け、殺しの訓練を受けた私です。でも、あれは化け物でも怪物でも敵でもない。彼は人間なんだ。恐怖と疑念と不安が同時に沸き起こり、何がなにやら判らなくなりました。
私は、もう引き金を引きません。以前とは変わりました。殺しをしようと云うときに起こるこの心情について、軍は何も教えてくれなかったようなもんです。そのことに関して、私には何も言ってくれなかった。軍は私を無感覚にしようとしていました。私から人間性を剥ぎ取ろうとしていました。あれは人間では無い―あれは軟目標( soft target )だ、と教え込もうとしていたのです。
で、想像が巡ります。
若しあそこで引き金を引いていたら、どうなったと云うのか?私が引き金を引かなかったことで、いったい何人の米兵やイラク警官が何組の家族が殺されることになると云うのか?私は引き金を引かなかったけれど、あの後で彼が誰も殺していないことを願っています。
この小さな村から立ち去り、私たちには何機かのアパッチ攻撃ヘリコプターと2輌のブラッドレー戦斗車輌が割り当てられました。そして、この小さな素敵な町、美しい町に再び侵攻したのです。私たちは詰問しました。奴らは何処に居る?遂に、私たちはこの家族が住む小さな小屋に案内されました。私と(他の兵士は)喜び勇んでこの小屋を物色しました。
上空にはアパッチ・ヘリコプターが旋回しています。ブラッドレー戦斗車輌は両翼を固めています。上部にマーク19自動榴弾投擲機を搭載した私たちのハンビーそして私の後ろを固める機関銃の援護を受けてのことです。
私はこの小屋に入り、AK-47・爆発物・RPGを探しました。お分かりでしょうが、誰かを有罪にするための証拠が必要な訳です。そして私が発見できたのは、小さなちっぽけなピストルが一丁だけ。多分、彼の収穫物を盗もうとする泥棒を脅かすためのものでしょう。
そんな訳で、そのピストルを証拠物件として、私たちは小屋の若者を二人連行しました。彼らの母親は、まるで私が足に接吻を受けるのが当然な身であると言わんばかりに、私の足元に額づいて両足に口づけしようとし、そして嘆き叫びながら懇願するのです。
私には彼女の気持ちが解りました。愛情・不安そして恐怖を理解するのに、アラビア語を話す必要はありません。私の後ろには攻撃ヘリコプターとブラッドレー戦斗車輌が控えておりました。そして私は、レーザー照準器を装着したM4(半自動小銃)を持った、82空挺師団の殺し屋( 82nd Airborne killer )です。
でも、私は無力でした。
この女性の苦しみを何ら癒してやることが出来なかった。
帰還してから、私たちはもっとまともな選択をしなければならない、と解って来ました。
私は良心的兵役拒否者としての地位認定を申請しました。「山上の垂訓」を思い起こすことが出来ました。私は基督者です。ならば、他の人間に銃を向けた今までの行いは一体なんだったのだろう?隣人を愛しなさい。彼に良き行いをしなさい。貴方を迫害する者のために祈りなさい。彼らを撃ってはならない。
私は良心的兵役拒否を認める通知を受け取りました。私はただ一人の身。もう束縛もありません。私はやりました。一件落着だ。そうですよね?
否!私はまだ臭いものに蓋をしているだけだ。(今夜も)皆さんの手そして顔を見渡しながら、誰か私を撃ち殺したがっている人が居ないか探している。
私は何も上手く言うことが出来ない。愛情を表現することも出来ない。人間関係もみんなボロボロです。誰も私のことを全く理解できゃしない。私が体験してきた苦しみをどう理解できる?私が見てきた光景を、死体の数々、連れ去られた・裸にひん剥かれた・殺された無辜の人々の姿に私がどれ程苦しんでいるか、どうやって理解できますか?
自分の手では無理でした。でも、この苦しみにも耐えられなかった。人々は私から去っていく。私は孤独でした。自分で手首を斬ることは出来なかった。それで警官を呼びました。警官はドカドカと部屋に入って来ました。私はナイフを手にして彼らに言ったんです。「俺を撃て、撃ってくれ」って。
突然、RPGを手にしていたあの男と同じように、私は全ての銃に狙いをつけられた状態になりました。「そうだ。世界の問題は、殺し合いで全て解決出来る。」などと考えるなんて、間違いを植えつけられているんですよ。おかしいと思いませんか?
先ほどのような話もありましたが、私は運良く生き延びております。ですが、血塗られた貴方の両手は、それをきれいにしようとも、新たな血の上塗りの為にそれも出来ません。それが出来ないまま、新たな傷は絶えません。幾つもの家族が潰されています。
ヴェトナムで死んだ人間の数よりも帰還して自殺した退役兵の数の方が多い。もう一度、言わせて下さい。ヴェトナムで死んだ数よりも家に帰って来たときに自殺した数の方が多いのです。貴方の魂・人間性・家族に対して戦争が為してくれたものが、これです。
「非暴力は強者の武器である。(Non-violence is the weapon of the strong )」−Gandhi
「異議申し立てこそ愛国主義の最高の形である。(Dissent is the highest form of patriotism )」−Thomas Jefferson
「殺すな。( "Thou shalt not kill.” )」
ご清聴ありがとうございました。
投稿者:はなゆー at 09:34