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(回答先: スターリンは毒殺だった=カルテで判明−ロシアで新資料(時事通信) 投稿者 熊野孤道 日時 2006 年 1 月 13 日 18:42:53)
これは、内村剛介さんが著作の中で書かれていたことです。
彼は、日本軍特務機関で働いていたので戦後にラーゲリに収容され、その中でロシア人の政治犯やロシア・ヤクザ等と共に生活していたのです。
内村剛介↓
http://www.toho-shoten.co.jp/sanpo/sanpo10.html
ところで、ユーリ・アンドロポフも「暗殺」ではなかったのか?
と、私は昔から疑っている。
一人置いて後には、ゴルバチョフというソ連破壊者が政権を担当した。
アンドロポフ↓
KGB議長
1967年に国家保安委員会(KGB)議長に就任し、以後15年の長きにわたって同職を務めることとなる。1973年に党政治局員となる。秘密警察の責任者が政治局に入るのはラブレンティ・ベリヤ以来のことであった。KGB議長としては外交面での緊張緩和(デタント)がソ連国内でイデオロギーを弛緩させることに関して警戒し、峻厳な治安政策をとった。アンドロポフは、異論派運動を弾圧し、ソルジェニーツィンの国外追放やアンドレイ・サハロフをゴーリキーに流刑にするなど反対派の弾圧に辣腕を振るった。一方で、KGB議長としてソ連内外の情報を管理・知悉する立場から、ブレジネフ時代後半の「停滞の時代」にあって危機意識を強め、体制内改革を志向するようになっていった。
書記長
1982年5月、ミハイル・スースロフの死去後、中央委員会書記(イデオロギー担当)に返り咲き、ブレジネフの最側近で後継者と目されたコンスタンティン・チェルネンコを追い上げていった。同年11月ブレジネフの死去に伴い、葬儀委員長に就任。大勢を決した。11月12日ソ連共産党中央委員会書記長に就任。この間、1983年〜1984年には最高会議幹部会議長も兼任した。
チェルネンコらは、アンドロポフの書記長就任に当たり前任のブレジネフの基本路線を踏襲することを求めたが、アンドロポフは政権獲得後、直ちに綱紀粛正と経済再建のための労働規律強化に着手した。外交面では、アフガニスタン戦争で揺らいだデタントの再構築というブレジネフ末期の基本目標を継承した。同郷で若手の党活動家だったミハイル・ゴルバチョフや、ニコライ・ルイシコフ(後に首相)を登用、ペレストロイカへの道筋をつけた。
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死去
1984年に急逝し、後任にはコンスタンティン・チェルネンコが就任した。
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