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戦艦大和の特攻出撃を描いた映画が上映された事により、大和と最後の戦闘につき世間では又もや騒ぎが巻き起こっている。
私は、大和の沖縄戦参加としての特攻出撃について論評する意志は全くない。
既に今まで様々な立場から論じられてきており、目新しいものも現れてはいない。
戦局の成り行きとして当然の様に現れたことでしかないと考えている。
様々な立場からの論評は可能であり、導き出される結論も目新しいものは期待できない。
私がここで書きたいことは、殆ど触れられることのないことである。
それは、
大和が対戦末期に出撃させられることがなく、長門のように温存されていたならば、
戦後の運命はいかなるものが考えられたであろうかと言うことだ。
もしも、これはよく言われることだが、航空カバーの援護が出来ないのであるから大和の特攻攻撃は行われなかったとする。
そうであれば、軍港に係留されて終戦を迎えたであろう。
そしてそれから占領軍によりどのように扱われることになったであろうか?
結論を書くと、長門が辿った運命と同じであったと考えるのである。
すなわち、
ビキニ環礁における核兵器の実験に試験材料として提供されたであろうという事だ。
大和は用兵思想としては過去のものとなってはいたが新鋭艦であり、長門のような老朽艦とは比較にならない優秀な実験材料になった筈なのだ。
つまり、原爆を投下されて「被爆」したであろうと言う事だ。
この事は、後述するが文化的・文明的意味も存在するのである。
もうひとつ考えられる運命は、可能性はより小さいのであるが、
米軍が「戦利品」として接収し、その後「米艦」として使うことである。
これは全くあり得ない事ではない。
46cm主砲は、世界最大の艦砲であり核兵器小型化が図られていた時代であるから原子弾を発射するには好都合であったに違いない。
ミズーリ級の戦艦は朝鮮戦争でも艦砲射撃を行っていたはずだ。
マッカーサーの核兵器使用論が朝鮮戦争で採用されていたならば、米国戦艦の「旧大和」が朝鮮半島か満州に向けて艦砲射撃をやり、原子弾の開発が進んでいたならばそれを発射するという悪夢も有り得たであろう。
米国は退役していたミズーリ級戦艦を現役復帰させて、湾岸戦争では艦砲射撃や巡航ミサイルの発射に使った。
しかし、やはり核実験に引かれて行ったと言う運命の可能性が高いであろう。
長門の最後について、下のほうに紹介しておく。参照されるとよいだろう。
長門については、「幸運な艦」として扱われることが多い。
この事は勿論、対照的な運命として陸奥を想定しての事であろうが、
しかし私はこの見方は採らないのである。
陸奥は軍港内で共産主義者水兵により火薬庫を爆発させられて沈没してしまった。
これに対し、長門は連合艦隊の旗艦であった事もあり、「幸運艦」と見られている。
しかし、核実験に使われて被爆させられる最後を遂げた長門を「幸運艦」と見る事は出来ないと考えるのだ。
戦闘に参加で出来なかったが、被爆という悲劇を免れた陸奥とは同程度の運命と看做すべきではないのか。
長門も陸奥も人に例えてみればよい。よく働きはしたが被爆して死んだ人と、働く前の青年で溺死させられた人とは不幸の程度は同じではないのか。
私は長門と陸奥の名前を見ると、幕末の長州と奥羽を連想するのだ。
そして「長門の被爆」に、「広島・長崎」の被爆と同じ意味を見るのだ。
明治維新の長州・薩摩主導の政権奪い取りにより創り上げられた天皇制絶対主義体制は天皇三代で敗戦により破綻したが、しかしスメラミコト(天皇)の不滅性により昭和天皇の儘で新規出直しがなされたのである。即ち、歴史は変わりながらも継続が守られ混乱と流血を防ぐ事が出来た。これはドイツの様に帝政の後にナチスを招きだす危険性から免れる事が出来たと言う事なのである。このような事は日本以外では有り得ない事であった。
この過程で、日本は広島と長崎が被爆したわけであるが、この事は明治以来の日本近代史の歩みへの戒めとして捉えなければならないだろう。
長門の被爆も同様の意味で考えるのである。日本の軍事体制は戒めとして敗北し、長門は軍事体制の象徴として被爆したと見るべきであろう。
しかも長州に縁ある名前の長門が被爆した意味を考えるべきであろう。
その様に考えれば、長門を幸運艦として看做して済ませておくわけには行かないであろう。
またまた軍事路線を歩んで、謀略事件に乗せられて傭兵として使われる危険性の道を歩めば再び戒めとして天罰が与えられるのだ。
9条の護りを外してしまえば、経済敗戦の謀略を防げなかった日本人に傭兵化謀略の為のテロ事件や国際紛争を見抜けるはずはないのである。
改憲の後には必ずこの手のテロ事件や国際紛争が起こされるはずだ。
日本人にはフランス人やドイツ人が持っているような程度の政治的知性がない。
であるから、9条に護ってもらわなければ自分で自分を護ることは出来ないのである。
自惚れてはいけない。それだけの政治的知性の蓄積でしかないのである。
「日本人は9条に跪け」と言いたい。
大和が戦闘で沈まずに生き残ったならば長門に代わって、または長門と共に被爆した可能性が高い。
大和の名で被爆せず、陸奥の名でも被爆せず、長門の名で被爆した事にも意味はあるであろうと考えるのである。
戦艦長門
http://chiebukuro.yahoo.co.jp/service/question_detail.php?queId=5820452
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E9%96%80_(%E6%88%A6%E8%89%A6)
http://www.asahi-net.or.jp/~ku3n-kym/heiki6/bikini/bikini.html
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