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http://www.okinawatimes.co.jp/day/200512281300_01.html
軍用手帳に初の文書記録
沖縄戦で戦死した日本兵の軍用手帳に、スパイを殺害したという記述があったことが分かった。手帳は本部半島の今帰仁村運天一帯に駐屯していた海軍中尉の所有。米国立公文書館に翻訳され保管されており、琉球大学・保坂廣志教授が発見した。沖縄戦で、日本軍が住民にスパイ嫌疑をかけ、殺害した数々の事件は住民証言で明らかになっているが、日本軍による記録は見つかっていない。研究者は、日本軍の住民殺害を裏付ける証拠となるとみている。(謝花直美)
手帳は、一九四五年六月十八日、今帰仁村呉我山で米軍との交戦で死亡した海軍の竹下ハジメ(漢字名不詳)中尉の所持品から回収された。米情報部は、軍用手帳や日記に作戦や虐殺、虐待の記録があると重視。中尉の手帳も、三月二十三日から六月十六日までの全文が翻訳されている。
スパイ殺害記述があるのは四月十七日。日本軍は当日、八重岳から多野岳移動を予定し、午後六時に六百人が集合。移動命令後に、「スパイを殺害。オダさん?」との記述がある。
沖縄戦で、日本軍は、防諜重視の方針で、県民を総スパイ視。地域の指導者層、島言葉を話す者、移民帰りの者にスパイ嫌疑をかけ殺害する事件が各地で多発している。
手帳の記述と一日違いで本部町伊豆味で、米軍上陸を日本軍に報告しに行った国民学校の校長が殺された。五月には伊豆味と今帰仁村渡喜仁の指導者らや、大宜味村渡野喜屋で中南部の避難民が集団で日本兵に殺害されている。
軍用手帳に記述されている「オダさん」という人物が、加害者なのか、被害者なのかは分かっていないが、保坂教授は「日本兵が、対米軍の遊撃体制の中で、食糧強奪、住民監視する中で、向かい合ったのが民間人だった。軍が同じ軍に対して、食糧強奪やスパイ摘発はしない。スパイを殺したということは、すなわち沖縄住民を殺したということだ」と指摘。「住民殺害を記した文書の記録はこれまで出ていない。記録した側は、県民を総スパイ視した防諜作戦を遂行しており、記録を残すのがまずいという意識がなかった」と分析する。
本島北部を管轄した国頭支隊の防諜作戦に関する資料をまとめた大城将保さんは「日本軍による住民殺害の事例は多いが、それを否定する動きが本土にはあった。(殺害を裏付ける)証拠となる資料だ」と指摘する。
◇ ◇ ◇
「父のことか」遺族衝撃
「軍は住民守らない」/父失った照屋さん 死の真相垣間見る
「この記述は父のことなのか」―。本部町伊豆味で日本軍によって殺害されたとされる照屋忠英本部国民学校長の長男淳久さん(80)=同町=は六十年ぶりに現れた軍用手帳に衝撃を隠せない。遺族は戦後、真実を探し求めたが、憤りと父を失った苦しみから、ほとんど事件を語ってこなかった。死の真相に一歩近づく記録に「戦争する中で人間が人間でなくなる。戦争を恨む」と、悲しみを新たにした。
忠英さんは、県師範学校卒業後、将来を嘱望され上級学校へ進学を誘われたが、それを断り、古里本部で農村教育に力を尽くした。沖縄戦当時、避難小屋で見た米軍上陸の情報を日本軍に伝えに行った後、伊豆味の樫名原で斬殺遺体で見つかった。
北部を守備していた国頭支隊(宇土部隊)と行動を共にした学徒隊の証言には「五、六十代の国民服姿の男性を、日本兵数人が『校長なのに…』と小突き回していた」「両腕を後ろ手に縛られて銃剣で突き刺され苦しんでいる男性がいた」などがあり、この男性が照屋校長とみられる。
避難のためこの事件の数日前に忠英さんと別れた二女の与儀毬子さん(75)=那覇市=は「父が亡くなったのは十七日だと思う。樫名原で、父が私の名や水を求める叫びを聞いた人がいた」と話し、遺体発見が十八日だったため命日をその日にしたという。
事件の後、地域の指導者だった忠英さんの兄忠助さん(故人)も日本軍に狙われた。「毎夜、日本兵が戸をトントンたたき、ひそひそ声だが、威嚇する調子で、『照屋忠助はいないか』と尋ねた。伯父は恐れて、家で寝ずに、朝になるまで山中で過ごした」という。
「父は、家族用の食糧も、日本軍にはすべて提供するほど、最大限の協力をした。だのに、なぜ軍は矛先を向けたのか」と、無念そうに話す。
淳久さんは「軍隊は平時は、住民と仲良くしていても、いざ戦闘になると、軍隊の目的しか果たさない。地域の住民は守らない」とし、「これまで遺族がどれだけ忍びなかったか。遺族にとって戦後処理は六十年たっても終わらない」と話した。
[ことば]
北部の住民虐殺 三十二軍司令部は「防諜には厳に注意すべし」という基本方針を持ち、北部守備を担当した国頭支隊は「本島の如く民度低く島嶼なるに於いては、軍事始め国内諸策の漏洩防止に重点を指向し」と下達。これらの方針が、本土防衛の持久戦と位置づけた北部のゲリラ戦で、戦局悪化とともに「県民総スパイ視」へとつながった。北部各地では、日本軍が住民処刑リストを作り、殺害されたり、狙われたという証言(沖縄県史、大宜味村史)が複数ある。
米攻撃で艇失い移動/軍用手帳抄訳
タニヨ岳へ移動計画/18時に集合、タケトミの防空壕
竹下中尉は、一九四四年八月から今帰仁村運天に駐屯した海軍第二十七魚雷艇隊所属。一帯には、特殊潜航艇隊も配備され、海軍秘密基地だった。しかし、米軍の攻撃で艇を失い、四五年四月以降、陸軍国頭支隊(宇土部隊)の指揮に入った。手帳記述では八重岳、多野岳、久志岳、屋我地島を移動している。
【手帳抄訳】
4月17日 タニヨ岳(多野岳)へ移動を計画/18時に集合、タケトミの防空壕/600人/移動の命令/スパイを殺す 小田さん?/道路を横断/敵の地域を抜けていった/中島大佐のもとに全員集合
6月8日 朝、愛楽園を訪ねる。園長の早川(早田の誤記)と泉に会い、米3石と、7月までに25石を用意するように頼む/敵の軍医が嘉手納(軍政府本部)から来ている/カリフォルニア米の4回目の積み荷は、まだ愛楽園の敵側にある(中略)園は敵の配給を受け、徐々に復興しつつある(中略)/屋我地島を我々の食糧基地として保持するために、軍隊を送る必要がある/羽地の捕虜と避難民について話す。偵察を米軍歩哨詰め所に送る。運天も久志のような状態になりそうだ。住民の報告に不快になった。敵に協力するものに躊躇はしない。私たちに協力するものとしないものを区別しなければならない
愛楽園から食糧供出
米軍管理下状態で日本兵
軍用手帳には、ハンセン病患者が入園していた愛楽園に食糧を供出させていたことも記録されていた。六月時点で敗残兵となっていた日本兵は、飢餓とマラリアが広まった北部山中で住民から食糧強奪を続けていた。そのような状態で、米軍の管理下にあった園を食糧補給基地にしようとしたことが分かった。
手帳には、六月三日に三石の米(約四百五十キロ)、八日に三石の米と七月までに二十五石(三・七五トン)を要求。また、「屋我地島を我々の食糧基地として保持するために、軍隊を送る必要がある」とある。
また、六月一日に竹下中尉名で「兵が許可なく屋我地島に渡り留まること、個人で食糧を受け取ることは厳禁」との命令を発令している。
当時の早田皓園長(故人)の論文記録では、竹下中尉らは兵二百人分、毎月米六石を要求。「凶刃を振るわれては一大事なので、泡盛を振舞ってお引きとりを願い、要求を引き受けた」とある。
その後、竹下中尉が戦死、日誌に米提供のことがあったため米軍が事務長を取り調べたと記録。そのきっかけが今回発見された手帳とみられる。
園の炊事係だった知花重雄さん(82)は「入所者は食糧難で一日一個の小さなにぎり飯を食べていた。白石隊は、積んでいた米の半分を要求した。むちゃなことをすると思った」と振り返る。
沖縄愛楽園証言集編纂委員会の森川恭剛琉球大学助教授は「早田が書いていたことが、軍資料からも確認されたのは重要だ」と話している。