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(回答先: 『カトリック教会と奴隷貿易―現代資本主義の興隆に関連して』(西山 俊彦 著)[戦争71からのコピー] 投稿者 Wotan 日時 2005 年 12 月 27 日 11:58:19)
大変素晴らしい本の御紹介、ありがとうございます。
1619年から1807年の奴隷貿易禁止法のアメリカ議会通過までの間に、北米に運ばれたアフリカ人達の正確な数は分かっていませんが、航海の途中で死亡した人の数が、全体の半分とも3分の1とも言われていることからして、その数は少なくとも1500万人から6000万人と言われています("Encyclopedia of Black America":Low & Clift; DA Capo Press, NY)
第二次大戦時、強制収容所に入れられた日系人達は、そのための補償金として、1人当たり2万ドルを勝ち取りましたが、アフリカ系アメリカ人達に関して言えば、そのための運動が一部では起こっているものの、恐らく実現不可能なこととして処理されることになるでしょう。
日本の文献によると、黒人がはじめて日本に行ったのは、安土桃山時代のことで、その時に行ったポルトガル人船長が。フランシスコ・ザビエルに当てた手紙に「日本人は、モザンビークからきたカファヤ人を見て、大変喜んだ」と書かれています。
「その後も、1577年ごろ日本にやってきたイタリア人宣教師オルガティーノは、手紙の中で[日本人は極めて新奇な事を喜ぶ。もし日本にエチオピアの奴隷が来るなら、人は皆、彼を見るために金を払うであろう]と書いている。
日本人の書いた文献の中に黒人が登場するのは、1600年ごろ、太田牛一がまとめた「信長公記」が最初のもので、それによると、イタリア人巡察師バリニューノが、1581年上洛の折、従者として黒人を連れていた。
[きりしたん国より黒坊主参り候。年の齢26,27と見えたり。その身の黒きこと、牛の如し。かの男、健やかに、器量なり。しかも強力十の人に優れたり]
織田信長は彼を大変気に入り、自分の手元に置いた。
徳川家康の過信、松平主殿助が残した「家忠日記」によると、信長は、この黒人を弥助と呼んで、かわいがったという」(宮田仁編「海外交流史事典」:内外アソシエーツ)
イエズス会の人たちは、新規なものを好むという日本人のメンタリティーを知っていて、人集めの為に、アフリカ黒人を同伴させて、キリスト教の布教に努めたようです。
そして、だんだんと日本への「メイソン進出」は推し進められる訳ですが、この後の展開については、もっと詳しい方々が大勢いらっしゃると思いますので、省略いたします。