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序・戦況と空爆作戦
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■戦 況
東京大空襲から約一ヶ月を経た昭和20年4月15日、この日の天候は朝から快晴であった。平和な時代であれば、舞い散る桜の花弁を市民が愛でるところである。しかし、戦況の押し詰まった昭和20年の段階では、市民がうららかな春を楽しむ余裕は少なかった。
大本営がいかに情報統制を敷いても、南方前線の敗報は帰還兵を通じて否応無く広まる。相次ぐ戦勝報道にもかかわらず、敵接近の状況は日々に切迫感を加えていた。
既に2月16日には、硫黄島上陸作戦の側面支援のため、主にグラマン、ヘルダイバーなどの米艦載機約270機、述べ1000機余りが首都の上空に現れ、ついでとばかりに京浜地区を銃爆撃、味方機と空中戦を演じていた。
3月10日には東京の浅草・両国一帯を灰燼に帰した東京大空襲が行われ、その日、川崎市の住民は、真っ赤に燃える北の夜空を恐怖の思いで仰ぎ見ていた。軍用道路として発達した京浜国道は避難民であふれ、市民は肉親・親戚・友人を通じて、その惨状を見聞いていた。
軍需産業を数多く抱える京浜地区を擁する川崎の臨海部には、探照灯(サーチライト)や潜水艦用エンジンを製造する富士電機があり、上陸用舟艇など特殊艦艇を製造する日立造船もあり、硫安をはじめ火薬原料を生産する昭和電工、鉄鋼生産を営む日本鋼管がある。市の中心部にはサーチライトやレーダのほか、航空機用の計器盤や変圧器を製造する東京芝浦電機の堀川・大宮・柳町・富士見の4工場が位置していた。
更に多摩川を挟んで北側には羽田飛行場があり、南側には苛性ソーダの生産や大豆の搾油をする大日本化学(のちの味の素)がある。川崎は戦時経済を支える産業の密集地帯があり、これまで直接の攻撃対象として見逃されていたほうが、むしろ不思議なくらいであった。
それだけに市役所の西に位置する鶴見山山頂、および東側の富士見公園内には高射砲陣地が建設され、主な工場の事務所棟の屋上にも高射砲や機関砲が配備され、延焼防止のために主要な道路は強制立ち退きをもって拡幅され、防空指令部から派遣された宇都宮113連隊3個大隊が常時、厳重な警戒体制にあたっていた。その切迫した思いのままに、この日は35万川崎市民にとって忘れ得ぬ日となった。
米空軍B29爆撃部隊は、徹底的な都市破壊戦を主張するカーティス・ルメイが司令官に着任するを機として、それまでの高高度攻撃から、より爆撃の成果をあげるため夜間低空爆撃を実施するようになっていた。それは攻撃する米軍部隊にとっても、高射砲に身を晒す危険な行為であることは、言うまでもない。
しかしながら、市民の被災記録を読むかぎり、洋上に発生している台風を感知しないまま、人が日々を平穏に暮らすに似て、市民が危機を現実のものとして感知するまでには、まだ一刻の猶予があったもののようである。米軍の巨大な破壊力を、彼らはまだ知らない。
■作 戦
戦後明らかになった米軍の資料によれば、4月14日〜15日にかけての米軍部隊編成は、以下のようなものであった。
第21爆撃機集団司令部1945年4月14日付作戦命令第5号
目標 第90・17-3601区 東京市街第二地域 第73航空団が担当。
(現・大田区大森町・平和島付近)
目標 第90・17-3604区 川崎市街第一地域 第313、第314航空団が担当。
(現・川崎市小田・浅田・南渡田町)
これまでの同様作戦の経験によって、風に向かって飛行しながら爆撃するという方法は、攻撃部隊の先頭から3分の1の航空機にとって有利なだけだということが判明していた。後続の航空機にとっては、火炎・煙・熱気などが邪魔になって爆撃精度が少なくとも50%がた低下するのである。
この理由により、各航空団に12機からなる先導機群を設け、これが風に向う針路をとることに定められた。残りの主力は、別の攻撃針路を取り、先導機群によって起こされた火災との関連で照準し投弾することになる。
攻撃方法は、各機相互間に十分な間隔をとって行うことになっていた。先導機群および主力の攻撃針路および爆撃高度は、次のように定められた。
航 空 団 先導機群の攻撃針路 主力の攻撃針路 爆撃高度
第 73 方位310度 方位48度 9000ft
第313 方位308度 方位49度 8000ft
第314 方位305度 方位49度 7000ft
先導機群は主力に先んじて発進し、所定時刻の10分前に攻撃を実施、主力は所定時刻の10分後に攻撃する。もし先導機群が第一の目標を爆撃できなかった場合には、左の方に旋回して主力に合流する計画である。
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川崎空襲の記録 http://history.independence.co.jp/ww2/contents.html#kaw