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後南朝の自天王が暗殺された時は、1457年(長禄元年)12月2日(旧暦であろうと思われる) であるとされています。
旧暦の12月2日は、今年の新暦では1月1日がその日に当たっていたのです。
旧暦の1ヵ月後すなわち1月2日は、本日(新暦1月30日)がその日に当たるのです。
自天王は、「天皇」とあらわされる場合と「天王」とあらわされる場合があり、「天王」とあらわされる事があるのは、何らかの事情があるものと考えられます。
自天王の暗殺については資料に明記されており、世間的にも認められていると考えられます。
歴史上の「天皇の暗殺」は、その事実が明記された資料は少なく、資料が存在しても黙殺、抹殺されるケースが殆どであるようです。
また、資料すらなく、状況証拠から判断せざるを得ないケースもあります。
志半ばで御倒れになられた自天王の御心をお察し致します。
http://alcatrazz1974.blog34.fc2.com/
北山宮
不動七重滝の帰りに道路マップでチェックしていた北山宮(奈良県吉野郡上北山村)へ立ち寄りました。
「北山宮 吉野神宮境外摂社
御祭神 北山宮 後亀山天皇玄孫
http://www004.upp.so-net.ne.jp/teikoku-denmo/html/history/honbun/nanboku2.html
2.後南朝・熊沢家系図 註 (S1)等は、後南朝の代数
┌(S2)中興天皇─(S3)自天皇
(99)後亀山天皇─(S1)小倉宮実仁太上天皇┤
└(S4)南天皇─(S5)南帝王(西陣南帝)
さて、後南朝はその後、どの様な運命を辿ったのでしょうか? 天皇の証し「神器」を手中にした小倉宮の子・尊義親王(中興天皇)、その子・尊秀王(自天皇)と「南朝皇位」が継承されました。しかし、1457(北朝長禄1・後南朝天靖15)年、後南朝側に帰順していた赤松氏の裏切りで、自天皇は暗殺され、その跡を継いだ小倉宮の第四皇子・尊雅親王(南天皇)も「神器」奪取を目論む足利方の賊に襲われ負傷、その傷が元で、29歳の若さで崩御してしまったのです。風前の灯火となった後南朝の「皇位」をついだのは、南天皇の子で、僅か5歳の皇子・信雅王(南帝王)だったのです。そして、最後の希望の星(幼君)を擁した後南朝方は、最後にして最大の決戦を挑み、その結果、「パンドラの箱」を開けてしまったのです。
南朝も北朝も元は一つであり、分裂、対立が存在した事は異常な出来事であり、後世にてこの対立は完全に解消が為されるべきでありましょう。
怨みは人間社会を崩壊に導きます。
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