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「日本の警察」 西尾漠(著)より引用です
警察の歴史−敗戦まで
江戸時代の警察
一般市民を対象とした専任の警察機関が日本にできるのは、江戸幕府が成立してのちのことだ。江戸の町に置かれた南北2つの町奉行所(1ヵ月交代)は、警察と裁判をともにしごととしたほか、監獄、厚生、土木をも扱った。いわば町奉行は、現在の東京都知事と警視総監と東京地方裁判所所長を兼ねていたわけである。同様の奉行所は、江戸以外の主要都市にも置かれ、また、各藩でも同じような職制を定めていたという。
一般市民を対象とするといっても、市民同士の殺人などを捜査することはまれで、禁令違反者の摘発のほか、放火や強盗などの社会不安を生ずる事件の場合だけに出動、一般事件の捜査は与力・同心や小者の小づかいかせぎのしごとだった。警察官が副業に私立探偵をしているようなものといえる。
1665年には、閑職になっていた御先手組(弓組、鉄砲組)のうち1〜2組の御先、手頭を火付盗賊改役に任じ、放火や強盗事件について町奉行所の不足を補わせることがはじめられている。当時の江戸の人口は100万人以上といわれるが、南北両奉行所の与カ・同心の数は、それぞれに与カ25人、同心100人余であった。
近代警察の誕生
近代の警察は1873年11月、内務省の創設にはじまる。前年からこの年にかけてヨーロッパ諸国、とりわけフランスの警察制度を視察・調査してきた川路利良の建議によるものである。これにより、前年10月に司法省に置かれた国家警察組織「警保寮」を74年1月、内務省に移し、裁判機能との分離が行なわれた(ただし、犯罪の捜査は、司法官憲である検察官の指揮下にあった)。内務省下のいわゆる行政警察の任務は、犯罪の予防、なかでも国事犯=政治犯の取り締りの他、日常生活のすみずみまでわたっていた。
特高警察の時代
大逆事件の翌年の1911年8月、警視庁に特別高等課が設置され、その下に特別高等係と検閲係が置かれた。高等警察は政党などの規制を任務としたが、特に政友会・民政党の二大政党の対立時代には政党との癒着がはなはだしかった。これに対し特別高等警察(特高)とは、一政党の利害にとらわれない、国家体制の護持を目的とする警察の謂である。
1922年7月に非合法の日本共産党が結成されると、その対策のため、主要道府県の警察部に特高課が置かれるようになる。1925年3月には治安維持法が制定され、1928年7月、専任の特高係約1000名による全国的な特高網が敷備された。全国の都道府県に置かれた特高課(警視庁では1932年6月、特高部に昇格)は、警視総監ないし各道府県警察部長の管下にありながら、実質上は内務省警保局の保安課長が一元的にこれを指揮・管理したのである。特高による弾圧は、共産党(当時、最大でも1000人は越えていない)に対するものだけにとどまらず、あらゆる社会運動、宗教から「不敬」な言動をした一般庶民にまで及んだ。
特高警察が廃止されるのは1945年10月のことで、米占領軍の命により特高幹部約500人が公職追放となっている(ただし、のちに相当数が復帰、一部は米占領軍の諜報組識に迎えられた)。廃止されたはずの特高の思想がいまに生きていることは、本文中に述べた通りである。
あとがき
警察というもののあり方について筆者が興味を抱くことになったきっかけは、ほかの人とはかなり違っているかもしれない。1970年代のはじめのころ、広告業界の隅っこにいて、しかも広告というしごとのいかがわしさが気になりだしていたときに、大阪で反広告会議を組織していた吉田智弥さんからCR(コミュニティ・リレーションズ)なるものについて教えられた。それは、原子カ発電所の建設反対の運動に対抗する電カ会社の地域掌握作戦の名称だった。
CRという考え方と手法を電力会社に授け、広告のしごとをまさに《敵》を叩く道具として露骨に位置づけたのが、広告会社である。そのことに少なからぬショックを受けて、CRに関する資料を漁り、CR批判の一文をある雑誌に発表した。原子カ発電所の建設反対運動をしている人びとへの資料提供が主な目的だった。その際、CRがそもそも「黒人暴動」に対処すべくアメリカで編み出されたことや、日本にも警察によってまず移入され、警察から広告会社に天下った人物(町田欣一博報堂取締役=当時)により広められたことには触れたものの、実は警察のCRについては、ほとんど実態を知らなかった。
拙稿を読んだという救援連絡会議の玉川洋次さんから連絡をもらい、そこで初めて多くのことを教えられたのである(一方、玉川さんは、警察のCRには注目していても、電力会社のCRは知らなかったとのことだ)。それから本格的に警察のCRの検討をはじめ、79年に、たいまつ新書の『現代日本の警察−CR戦略とは何か』としてまとめた。同新書でもっとも言いたかったことのひとつは「市民警察」と呼ぱれるものの真の姿であり、もうひとつは、世のため人のためと思って日々働いている一人ひとりの警察官の善意が、その本意に反して、警察の”生きた広告”ヘとねじまげられ、それによって権力に奉仕してしまう構造のいまわしさである。
この二つの点を一つにつなぐのが、CRという名の70年代の警察のキー・ワードだった。125ぺ一ジに述べたように、キー・ワードとしてのCRはすでに役割を終えたが、上の新書で言いたかったことは、いまも変わらない。警察における広報の重要性を、新井裕元警察庁長官が端的に語った言葉がある。〈昔の警察といまの警察と違うのは、何といったって違警罪即決例、行政執行法というものが廃止されて権限がなくなったことだ。あのカは大変なものだったね。それがないのを何で補うのかといったら、技術と広報だと思いますよ。〉(『警察研究』79年1月号)。
違警罪即決例というのは1885年9月に公布された法律で、旧刑法に規定された違警罪=軽犯罪を裁判官でなく警察暑長またはその代理が即決で処罰できるように定めたもの。行政執行法は1900年6月公布。泥酔者、癲癇者、自殺企図者など、および公安を害するおそれのある者に対する予防検束や危険物の仮預かり、立入り、強制入院、土地・物件の使用、処分などを認めたものである。予防検束は「翌日ノ日没後二至ルコトヲ得ス」とされていたが、実際は警察署を転々とさせる、「たらいまわし」や同一警察署での「蒸し返し」(書類操作のみで、いったん留置場から出して再び留置したことにする)などによって何日間も留置された。
そうした治安立法を補うのが技術と広報だという考えのもとに、記者クラブを「警察の別働隊」に仕立てあげ、意のままに動かすことが図られた。「広報は、自分が行なうより第三者にやらせた方が大衆の信頼度もよい」として、記者クラブの存在を徹底して利用する作戦が練られた。マスメディアに「事実」を提供するにはどんな留意点があるか。昇任試験でそんな出題があった際の模範答案は以下の通リだ。
@時期の選択が大切である。タ刊、朝刊の締切時間、あるいは、他に事故・事件があるか、ニュースの多いときか等を考慮して時期を選定する。A内容を整え、資料は適切な解説を付し写真等についても十分配慮する。
こうして遅くとも1977年には「報道関係の方々には警察の発表で内容を知っていただき、取材は手びかえていただくなどの協カをしていただいています」(鈴木邦芳警視庁広報課長―当時)といった状況が、すでにつくられてしまっている。もちろん、警察発表を鵜呑みにばかりして報道がなされているわけではない。また、記者クラブのあり方についてマスメディアの側からも強い批判や不満が聞かれる。しかし、情報を独占しているのが警察であってみれぱ、しょせん勝負は見えていよう。「報道機関側も、いろいろ批判はあっても、豊富な情報源である警察に密着でき、多くの情報が得られる記者クラブ制度を廃止することはないと思われる」――警視庁広報室の自信である。
「世論形成に大きな影響カをもち、また、即効性の強いマスコミとの協カ体制の推進」とならんで、警察では、ロータリークラブ等の指導者層の諸団体、防犯協会、民間少年補導委員、学校警察連絡協議会、職場警察連絡協議会、交通安全協会、町内会、その他の業者の組織等を通じた「地域社会に即応した広報の推進」など、あらゆる手段をつくしての広報作戦をすすめている。そこでは、「警察官一人ひとりが広報媒体」とするCR以来の考えが、いまも強調される。しかしその一方で、かつて「常に街頭にあっては、つとめて国民の目につくような活動の方法が必要である。
すなわち、街頭において活動する外勤警察官としては、『見せる活動』『目立つ活動』ということに配慮すべきである」として、「交差点等で交通指導や交通整理等をする場合においても、目につきやすいということも考慮して位置を選択する」ことが要求されたり、「立って警戒にあたる方法と腰かけて警戒にあたる方法とどちらが頼もしく見えるか」といった議論がなされていた点については、明らかに時代を画することにもなった。外勤警察官の街頭活動に関する最近の模範答案はこうだ。
〈今日までの「見せる警ら」から一歩進め、犯罪の予防検挙や事敬防止、又は管内実態掌握等の実効を高める「実のある警ら」を推進するために、職務質問を中心とした積極的な活動を展開しなけれぱならない。〉1984年の「外勤警察の運営重点」は、さらに露骨に「攻めの街頭活動」をうたいあげている。もはや国民の顔色をうかがう必要はないというわけか。きわめてハードな時代を、ソフトな対応を意識的に行ない、警察官一人ひとりに「愛される警察」を演技させつつ乗り切ってきた日本の警察は、その”成功”の上に立って、いま改めて新しい一歩を進めようとしている。それが、本書で見てきた80年代戦略だ。
むろん、変化を見せているのは警察だけではない。警察のCRと軌を一にして、「愛される自衛隊」をうたいあげてきた防衛庁も、かつて力を入れていた地域の祭などへの参加から手を引きはじめた。83年版の『防衛白書』は、自衛隊が今後力を人れるべき面に関する世論調査の結果、「災害派遺」とする者が多かった10年前に比べて、「国の安全確保」とする者が急増し「災害派遣」とする者の倍近くになってきたのを「自衛隊の主たる任務についての国民の理解の高まり」と評価している。
「愛される警察」「愛される自衛隊」から「強い警察」「強い自衛隊」へ。80年代の彼らの戦略は明らかに変化を見せたと言ってよいだろう。とはいえ、80年代の日本警察の戦略の実態については、まだわからないことがたくさんある。筆者はいま、何人かの弁護士や救援違動関係者らとともに定期的な研究会をもち、さらに検討をつづけているが、本書をとりあえずの中間総括として、読者の方がたからのご批判やご助言をぜひ得たい。多くの人々とカを合わせ、民衆の立場から警察の実像を正確にとらえることが、特にいま、必要だと思う。
これまで筆者は引用についてはきわめて厳格に出典を示すことを心がけてきたが、今回に限り、むしろ意識して出典を外すように書いた。入門書ということもあって引用のわずらわしさを避けたものである。読者からの問い合わせがあればいつでも明らかにする用意があることを言い添えておきたい。
【参照】
日本の警察の裏事情:60年代末の新左翼による街頭闘争で先頭に立って火炎びんを投げ煽動していたのが公安の刑事だった!
日本の警察の裏事情:警察の大義名分”革命政権の転覆こそが警察のめざすところ”