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(回答先: Re: 【テスト】テロ対策:地下鉄駅の顔認証実験を初公開 国交省など(毎日新聞) 投稿者 いいげる 日時 2006 年 4 月 29 日 09:16:31)
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“これだけ議論してみて分からないのか” (…多情・乱雑な議論不要)
それは、よそでやってくれたらいい…。俺の世界とは関係ないし、そういうことが必要とは思わない。間違った前提でいくら話を上乗せしても、
間違いの量産しかないだろう‥‥両陣営ともに。どちらも原理をしらないだろうし、そればかりか、間違った原理(多数化原理)で成り立つ壮大な世界を
追認・助長するばかりだろう。また錯綜した話は、どんどん奇怪な誤りを生み出し、影響も残ると思われ、そういうのは一切が無駄(あだ)になると思っている。
徒労だと思わない人達で無駄骨を折ればいいはずだ。要は原理であって、そこから全ては出発するのではないか。柱の位置を間違えた「建築」や、出来上がってきた
手抜きだらけ出鱈目な「建造物」をあとで修正するのは不可能かもしれない。だいいち議論の基礎も共有されていないだろう。もがきあっていても半永久的に何も生まれまい。
“1つでも誤ればそれが被害を生みうる” (…後付け修正の期待‐無用)
‥‥
闘争という言葉の規格がそう定着しているなら、闘争はゼロサムのパイに関する概念だろう。
しかし、そうした世俗の勢力争いとは別に、真実そのものを己や周囲のうちに拡張するという…。
勢力争いを自明の聖職と信じているようだが、もうその必要がない次元というのがあるのでは?
意識を獲得すればいいという地平にいると、洗脳も可能と思うだろう、この辺りは既出かな。
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その2つの多数化の区別がつかなくなるのが多数主義としての多数化の危険性だったはずだが。
‥‥
違うだろうな。徳川幕府から欧米の傀儡だったんだろう。
政治勢力というのは、一つを除いて全て利用されうると思う。
政治利用とは、強い勢力が、弱い勢力を利用することであろうし。
真の危険思想とは政治そのものに完全な政治不信を突きつけること
かもしれない。単に政治不信というのとは違い、通常いう意味での不信
でもないはずである。この不信は、原理的不信‥‥つまりいかなる選出を
実現させても「乗っ取り」も「遠隔操作」も可能ということにほかなるまい。
政治は、その理念に照らして不可能‥‥これが真の“危険”となろう。
‥‥
“偽情報と判る前に行う事が無駄で、犠牲も生むかもしれない”
“人命が修正不能なら完全でない論は全て危険視すると良い”
別にアシュラのスケールでものを考える必要もあるまい。目的はアシュラの栄華か。
またアシュラの機能上の適性に応じて、目的を変質させても、いっこうに構うまい。
そういうことはよくあろうが、これが何か問題を生じさせるだろうか。アシュラには反
権力の雰囲気があり、問題意識を持った人間が集まるとして、そこに表われるような
情報(…具体的に卑近で、後追い的に刹那で、偽装的に表層で、真相に到達したかも
不明な「情報」)で遊び、生き甲斐を感じることだけが許されているとは思わない‥‥。
より高度に抽象的で、推論として洗練された体系を導くことこそ、寧ろ道具としての
アシュラのスペックを最大限に生かす方策かもしれない。‥‥尤も、こうも邪魔が
多いとな(笑) 「場が開かれている」状態と、無駄に強迫じみ、(その交渉自体を
目的とする理念を振りかざして)交渉したがるのとは、これまた次元が異なろうな)
“例えば主観的真実を作る事が「真」ならばそれが真理だろう”
“情報を真理と呼ぶか。総体世界よりも原理こそ真理と思える”
‥‥