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(回答先: Re: test 投稿者 gataro 日時 2006 年 8 月 02 日 11:48:06)
【板井原、上板井原】周辺地図
地図では板井原集落まで林道が通じていないように見えるが、渓流左岸に立派な舗装林道が走っている。
8月1日、板井原集落を訪ねる前に上板井原集落を訪ねた。智頭町から林道を辿ると、板井原トンネルがあり、抜けると右は上板井原、左は板井原へ向かう、分岐点の三叉路に出る。三叉路には訪ねてきた人のためにパーキングが設けられている。
@ (http://www.geocities.jp/anc3aj/sato7.jpg から借用)
右に向かうとすぐに上板井原の入り口だ(写真@…板井原集落の方がすでに廃村となっていてもはや区別する必要がないのか、最近ではほとんどの記述が上板井原のことを板井原としているようだ)。
上板井原集落の様子がよく分かるので次のスライドを見てみよう。
板井原集落(10/25)
(鳥取県智頭町伝統的建造物群保存地区)
http://www.geocities.jp/anc3aj/newpage38.html
オートバイを神社下の公民館的建物の駐車スペースに置いて、集落の中に入ってみた。集落は渓流の左岸にあり、舗装林道は右岸を走っている。ひときわ立派な茅葺きの建物が目に入ったので、まずそこを訪ねることにした。
藤原家住宅
智頭町有形文化財「藤原家住宅」である。集落の沿革がよく分かるので、住宅に付いていた説明板を引用する。
上板井原集落についてはこう記されている。
<位置> 智頭町中心部より北東へおよそ4km、牛臥山(うしぶせやま)の裏側で、標高は430m、町内より130m高く、赤波川の支流、板井原川沿いに拓かれた農山村集落である。
<集落> 現在の集落は東西に23軒(江戸後期は30軒)、板井原川の左岸に並び、幅員1間(1.8m)が古くからの生活道である。明治32年の大火で18軒の主屋が焼失したが、復興も早く行われた。昭和26年、用瀬町まで開発林道が敷かれたが、町内へは従来より峠越えの山道が主要道で、昭和42年、板井原トンネルが開通してより、初めて智頭町の経済圏が身近になった。
<生業> 明治から大正・昭和にかけての生業は、伝統的な焼畑で大根とソバ・小豆、わずかな水田と定畑では麻・桑の栽培、周囲の雑木は炭焼き、狩猟による兎・山鳥、採集による栃・栗の実・くず根など、ことに炭焼きや養蚕は盛んで、換金稼業によって暮らしを立てながら、勤勉と努力によって形成された集落である。
<特色> 住民の多くは町内を生活拠点としているが、今なお主人の仕事は春から秋にかけて田畑・山林といった農林業に従事し、主屋・本蔵・味噌蔵・キビ屋には、かつての生活の足跡と事績が引き継がれてきている。農山村の原風景と生活文化の形成過程には、暮らしの技術や知恵が伝統的な生活様式として息づいている。
なお、「藤原家住宅」は母屋が明治32年の建築で、茅葺で入母屋造。大黒・小黒柱は欅材。そのほか本蔵・味噌蔵・蔵・養蚕場・倉庫からなっている。
「野土香」
「火間土」
また、地区住民の手で「野土香」「火間土」の2店が地区保存運動の一環として営業されている。「野土香」は火、水が定休日、「火間土」は日曜のみ営業。ということで残念ながら小生はどちらも利用することはできなかった。
集落の特徴のいま一つは幅1間の通称「六尺道」である。そのために今だ、集落内に自動車は一度も入ったことがないという。
@AB
日本の山村集落の原形をとどめるということで、廃村一歩手前で保存されている。美しい姿をいついつまでも後世に伝えたいものである(写真@〜B 写真Bには用水の水を使う老婦人の姿が写っている)。
智頭からの帰りは粟倉温泉で汗を流し、往路とはまた別の志引峠をこえて宍粟市千種町に戻る。走行距離約280km、一般道走行のオートバイ・ツーリングとしてはかなりハードなものだった。