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(回答先: Re: test 投稿者 gataro 日時 2006 年 5 月 14 日 21:11:26)
東京音頭さん、正直言って生野銀山は石見銀山には勝てそうもありません。
石見銀山
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E8%A6%8B%E9%8A%80%E5%B1%B1
商業への影響
石見銀山が開発された時期は日本経済の商業的発展の時期を重なっていた。このため、石見銀山で掘り出された銀は銀貨として広く国内で流通したばかりでなく、16世紀後半からマカオを拠点に来航するようになったポルトガルや17世紀初めに来航したオランダ東インド会社さらに中国密貿易商人らとの活発な交易を支えた。当時の日本の銀産出量は世界全体の三分の一に達し、スペインのペルー副王領ポトシ銀山(現ボリビア、世界遺産)と並ぶ。日本は中国や西欧で銀産出国として有名になった。
これでいくと黄金の国ジパングではなく、銀(しろがね)の国ジパングですね。
ちなみに生野銀山も石見銀山にかなわないまでも、相当「いい線」までいっています。
生野銀山
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
生野銀山(いくのぎんざん)は兵庫県朝来市(旧生野町)に開かれていた、戦国時代から昭和にかけての日本有数の銀山である。
歴史
生野銀山は平安時代初期の大同2年(807年)の開坑と伝えられるが、詳細は不明。天文11年(1542年)、但馬国守護大名・山名祐豊により、石見銀山から採掘・精錬技術を導入し、本格的な採掘が始まった。
織田信長、豊臣秀吉、徳川家康といった時の権力者は直轄地とし、佐渡金山、石見銀山とともに重要な財源とした。
江戸時代に入ると生野奉行が置かれ、第三代将軍・家光の頃に最盛期を迎え、月産150貫(約562kg)の銀を産出した。宝永2年(1705年)には、「御所務山(ごしょむやま)」という最上級の鉱山に指定されている。
慶安年間(1648年〜1652年)頃より銀産出が衰退し、享保元年(1716年)には生野奉行は生野代官と改称した。江戸中期には銀に換わり、銅や錫の産出が激増している。
明治元年(1868年)から政府直轄運営となり、フランス人技師ジャン・フランソワ・コワニエらにより近代化が進められた。明治22年(1889年)から皇室財産となり、明治29年(1896年)に三菱合資会社に払下げられ、国内有数の鉱山となった。
昭和48年(1973年)3月22日、資源減少による鉱石の品質の悪化、坑道延長が長くなり採掘コストが増加し、山ハネなどにより採掘が危険となったことから、閉山し、1200年の歴史に幕を閉じた。坑道の総延長は350km以上、深さは880mの深部にまで達している。
現在は「シルバー生野」として史跡となっており、のみの跡も生々しい坑道巡りのほか、鉱山資料館には「和田コレクション(和田維四郎)」をはじめとした多数の貴重な鉱物が展示されている。
銀山のことはこれぐらいで、もう「ご破算で願いましては…」にします。この言い方を東京音頭さんは知っていますか。もう死語になっているのかな、これ。そろばんで次の計算に移るときにこう言うのです。つまりここでは「銀山の話はこれで終わり」という意味です。
「安寿と厨子王」の世界、あるいは森鴎外の「山椒大夫」の世界に話を変えましょう。
この物語は小生の世代にとって、「浦島物語」や「一寸法師」あるいは「かぐや姫」、「桃太郎」などと並んで、子どもが大人から聞く定番物語の一つでした。
10代になって、いずれの時か定かではありませんが、日本文学に触れ始めたとき、鴎外の「山椒大夫」に出会いました。小生の知っていた「安寿と厨子王」の話は、鴎外作「山椒大夫」の簡略版だったのです。しかしそう思ったのは小生の勘違いでした。
ここに(http://www.choryo.jorne.ed.jp/area/mori.html)この物語の起源をこう説明してあります。
この物語は、中世に起こった「語り」の一種で、説経節と呼ばれ、庶民に親しまれてきた。歌経節、説経祭文、説経浄瑠璃など少しずつ形を変えながら、近世に引き継がれ、通俗化していく。江戸時代に入って、人形浄瑠璃や歌舞伎などに取り入れられて、しばしば上演された。数多くの説経節の中で、五大説経のひとつと言われるほど有名である。
明治に入り姿を消した「語り」も、森鴎外が1915(大正)年「山椒大夫」を文学作品として書き表し、広く読まれるようになる。安寿が拷問で死ぬ場面が、この作品では、沼に身を沈める入水として書かれている。
小生の生家は小生が5、6歳の頃、戦後の混乱期に戦地から帰った父の放蕩から、一家離散の憂き目にあいましたが、生家が富農層に属したという家庭環境もあってか、祖母から溺愛されていた小生はお伽話の類は一杯聞いて育ちました。当然、「安寿と厨子王」も祖母は語ってくれたように思います。
小生が今も覚えているこの悲しいお話は、多分鴎外からのものと思われますが、舞台は佐渡島と丹後の由良にまたがっています。「人さらい」の山岡太夫にかどわかされた母と姉弟は互いに引き裂かれて、売られていきます。母は佐渡へ、姉弟は丹後の由良へ。丹後は但馬の隣国です。
姉弟を買ったのが小説の題名になっている山椒大夫という人物です。小説の最後に有名な場面がありますね。
安寿恋しや、ほうやれほ。
厨子王恋しや、ほうやれほ。
鳥も生あるものなれば、
疾う疾う逃げよ、逐わずとも。
後年佐渡で母を捜しあてた厨子王、この最後の場面で「正道(成人した厨子王)はうっとりとなって、この詞に聞き惚れた。」とあります。物語がここまでくると、小生、必ず涙ぐみます。今この投稿文を書いているときもです。
鴎外作の「山椒大夫」は「青空文庫」に出ています。
山椒大夫 森鴎外
http://www.aozora.gr.jp/cards/000129/files/689_416.html
ここでまた小生得意の「重箱の隅っこつつき」。
山椒大夫は散所太夫に由来すると言われています。
散所とは広辞苑によるとこうなります。
さん‐じょ【散所】
古代末〜中世、その住民が年貢を免除される代りに権門寺社に属して掃除や土木・交通などの雑役に服した地域。また、その住民。散所の民。浮浪民の流入するもの多く賤民視された。室町時代以降、卜占・遊芸を業とするものが出た。近世、「算所」「産所」とも書く。
つまり「安寿と厨子王」は「賎民」の「元締め」に買われていったということになります。
ところで東京音頭さん、「安寿と厨子王」の物語を丹後由良の人たちは現在どう考えているか書いておきます。以下は http://plaza.rakuten.co.jp/anzyu/8003 からの引用です。
安寿姫塚では、毎年、安寿姫の命日、7月14日(前後の土曜日)には、安寿姫の冥福を祈り、先人達に教わり伝えてこられた「安寿姫塚夜祭(慰霊祭)」を行っています。
平成14年の夜祭には、池の辺に、100個をこえる提灯とフロートキャンドル(水に浮くロ−ソク)1000本を、準備し、会場にお見えになった皆さんの手をお借りし、午後6時30分花火の合図と共に皆さんで点火をしていただきました。
これを読むと地元の人たちは単なる伝承とは考えておられないような気がいたします。
最後に但馬の話も少しだけ。
但馬へは小生、オートバイツーリングによく出かけます。大屋という所には、水芭蕉自生地の南限(http://www.fureai-net.tv/saiki/mizubasho.htm)があります。
阿修羅にも播磨から但馬にかけてのオートバイツーリング記も投稿しています。
Re: 紅葉ツーリング ― オートバイでの、しがない独り旅でござい。(愚民党さん、なんとかUPできました)
http://www.asyura2.com/0505/bd41/msg/783.html
投稿者 gataro 日時 2005 年 11 月 04 日 10:03:23
但馬の滝はこれ。
天滝・落差98m日本の滝100選・兵庫一の名瀑壁紙写真集(データ・所在地・地図)
http://kobe-mari.maxs.jp/yabu/tendaki.htm
但馬の城はこれ。
竹田城 (▼施設データ・所在地・地図▼)
http://kobe-mari.maxs.jp/asago/takedajo.htm
また、竹田城は標高352mの山の上にあり、冬の早朝には雲海に包まれた幻想的な風景を眺めることが出来ます。このため「天空の城」とも言われています。黒澤明監督の影武者や、角川映画の天と地との映画のロケ地になったことでも知られています。
この山城跡にのぼると、たちまち気分は戦国時代、小生今だ、これより立派な山城の跡を見たことがありません。但馬でもっとも好きな場所の一つです。応仁の乱のとき、東軍大将・細川勝元と覇を競った西軍大将・山名宗全が陣を布いたさすが要害の地です。
但馬は日本海側とはいえ、古代より都に近い土地柄から、見るべきものはたくさんあります。そのうち機会があれば、ぽつりぽつりと小出しにします。
それではまた。