★阿修羅♪ > 社会問題3 > 738.html ★阿修羅♪ |
Tweet |
色々言われているけれど、現代独特のいじめ ー 限度を知らない、止めるこどもがいない、困難と闘うことのできない弱さ、助け合えない子供たち − による自殺 をなくす方法はある。
それは、こども達に自分達の社会を作る知恵、強さ、人間関係の作り方を身を持って教えてあげることだ。 こどもへの人間的成長に関わる教育は、科学技術の発達によって進歩しているとは限らない。合理化も効かないし、経済効果とも関係ない。子育て同様、原始的で、もっとも人間の本質にかかわるものなのだと思う。
人間は 生きていく限り 社会を形成することから逃げられない。
それなのに、こどもにもっとも必要な人間関係を学ぶ機会は、なんと軽視されていることだろう。大人は、こどもが他の人とかかわりをもつ、つまり、遊ぶことがどれほど重要か、認識しているだろうか。身体を動かして遊ぶこと、いろんな年齢のこどもたちと年齢なりの責任を持って遊ぶ事、栄養のあるものをきちんと食べる事、親だけでない大人がみんな彼ら、彼女らに関心を持ってみまもること、こういう社会があれば 時折りいじめっこが登場しても、時折りいじめられっこが出ても、なんとか解決していけるはずだ。
いじめ問題は自殺者が出るからだけで、問題になるのではない。
人と話し合ったり、友情を深め合ったり、話し合って問題解決ができない人がどんどん増えている。集団で生きていく力は、将来理不尽な資本家や、権力と戦っていく上でもとても大切なものなのだ。自分の人権や命を守る上で大切な能力だあるはずだ。
そういう能力のない、大人にそだったら、大変ではないか。
いじめといっても最初から、人を自殺に追いやるような過激なものではない。
大人には見えなくても、例えば同じクラスのこどもらは知っていたりする。
そういういじめに荷担していない、良識的なこどもたちを主流とし、多数派を形成させ、いじめのようなものをする(いじめている本人らには、あまり罪の意識がないことも多いので)人々を少数派にしていき、生徒どうしで守らせるということは ある程度効果がある。
しかしこういう指導は、ある程度のこどもたちに、正義感や話し合う力、他人に関心を持つ気持ち、がなくてはどうしようもない。
学校はこどもの生きる力を一から育てることは不可能だ。最初から集団生活の場であり、先生は時間の限りのある先生である、親でもカウンセラーでもお兄さんでもお姉さんでも警察でもない。
ある一定年齢でそなわっているべき人としての能力を持って学校へ入らなければ、学校生活は成り立ってはいかない。その人間としての能力は では、誰が育てるのか。もちろん一義的には、親だろう。しかし 親だけでは無理だ。今もいったように、こどもは遊びを通じて、人間としての能力、人とかかわり、社会を形成していく能力を培っていくのだから、子供達のまわりの人はすべて大切であり、違う言い方では、責任があるのだ。別にいえば、関わる権利もある、というべきか。
しかし今の社会ではそれはまるで夢である。昔は問題も多かったとはいえ、できたことが、なぜか今は夢のような社会になってしまった。大人は助けあいができているだろうか。一家心中した家庭があって、同じ町に、年収700万の家庭がたくさんあるとしよう。
助けてあげることがなぜできないか。
よく考えてみると 悲しい話である。
大人の世界で、人々は個々に分断されている。
それなのに、こどもの世界だけに、助けあうこと、人に親切にすこと、正義、おもいやりを持つことを教えて、身につくだろうか。
今の大人の感覚、自分だけが大切、他人は知らない、という”事実”を顕著に見せているCMがある。
今から2年くらい前に見たものだが 今も似たようなものはあるでしょう。
ビデオのCMだ。運動会で自分のこどもだけ大写しにするCM。思い出とかいうコピー。一生に一度とかね。自分がこどもの頃、そして教師時代、こどもが運動会に出る時代。それぞれ比べると、大人の応援態度に大きな変化が表れる。
今、多くの大人はビデオ取りに夢中だ。気持ちはわからなくもないが、入場行進、競技の前後、そして協議中、例えば 遅くても一生懸命走る生徒、先頭を走り抜けていく生徒、親から拍手がまるでない、冷たいというより、見ていない。あ、拍手と思っても、ビデオを見ていては 拍手はできない。他のこどもをまったく見なくなった親たち。
運動会はみんながいるからこそ 楽しいということをすっかり忘れさせるビデオ。
ビデオのせい、とかビデオに夢中な親が悪い、というのではなく、この現象と現在の”いじめ問題”とは根っこはつながっている、と思う。
最後に、いじめる生徒への厳罰化を推進しようという世論がそだちつつあるようで気になる。
もちろん、集団でなぐる、ける、恐喝、持ち物を破損する など、その年齢にみあった罰(責任を取らせること)はもちろん必要だろう。しかし、厳罰化では いわゆるいじめは解決しない。
特別に ものすごく残酷なこどももいるだろう、誰が見ても、この子は 少し隔離してなんとかしなれば、とはっきりわかるこどももいるだろう。(といっても原因は家庭などにあるだろうと思われるが)しかし、いじめの多くは、加害者と思われる生徒が 別の場面では、違う生徒をかばって 助けたりして、知らん顔している生徒より優しかったりすることがあり、いじめている、と指摘された子が、他の生徒からやられていて、またその子供を影からあやつっていたこどもが、家庭で父親から暴力を受け、されに父親が母親にも暴力的で、家で暴れていたりする。
そういう事情がいくらでもあるのだ。厳罰化って、一体どうするつもりなのか。
福祉問題から見ればその子は被害者なのだ。
本当にこどもをこういう社会から救いたいのなら、総合的な解決が必要になっている。
教育問題だけではないのだ。家庭がこどもを穏やかに育てられないのは、なぜか。
母親がひとり、育児の責任を負っているのは、不自然なのではないのか。母親のこども虐待はどうしたらいいのか。すべてつながっているのだ。
もっと総合的に見ていかなければ、絶対に解決しないのだ。
15年ほど前にもいじめ自殺が大問題になったではないか。
校則、画一教育、組合などがやり玉にあがっていた。
政府はいじめ対策なんて 結局何のしませんでしたよ。まったく 何にも解決しないどころか、ひどくなった。そのことで政府ってなにも責任とらない。
総括も、反省もない。
君が代、日の丸をおしつけただけ。組合に代表される(政府いわく)戦後教育がいじめを生んだとのことで、世論を味方につけたように見えましたね。現場にいましたが。)
また、個性なんて、実態のない、言葉だけ美しい概念が大流行し、他人は他人、という考えにお墨付きを与え、画一教育は悪という考えを利用し、ゆとり教育を始めて、個性を前面に出し、教育内容格差を肯定する方向に世論をひっぱってきた そういう政府に要注意です。
同じ轍をふんではいけない。