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第四点は無条件に賛成。
それ以外は、賛成であるが、別の見方も可能。
「クラスメイト」というシステムに関しては、「クラスメイト」というシステムは社会の縮図であって、子どもは社会の縮図の中で生き方を学んでいのが、それが致命的なダメージならない限りでは、望ましいと考えている。そう考えて、子どもを公立の小学校・中学校に入れた。たけ(tk)の子どもはいじめられやすそうな性格であったが、「いじめるほうが悪い」「いじめる子どもは、他で、たぶん、家で、いじめられている可哀想な子どもだ」「いじめられないように遠ざかれ」「いろいろな人間が居ることを学べ」みたいなことを言って育てた。
「クラスメイト」というシステムは社会の縮図なのだから、それを非難しても始まらない。
「いじめでなく犯罪」に関しては、刑法上の大人の犯罪と同様に扱うべきではないだろう。ただし、「悪である」ということは、明確に示す必要がある。広い意味での「犯罪」と言ってもよいだろう。それに対する制裁も必要である。ただし、子どもの場合には「制裁」が教育的に行われなければならないいう点が、大人の場合と異なる(大人に対する刑罰も教育的でなければならないと考えているが・・)。
「学校に警察力を」に関しては、現在でも制度的には懲戒権限は在るんじゃないのかな? 問題はそれを行使できるような状況でないとか、能力や気概がないとか、弊害があるとかといった点が解決できないということだろう。「犯人捜し」には弊害が在る、停学にしても効果がない、親からの抗議に対応できない、とか・・、いろいろ問題があるようです。
しかし、「いじめは『悪』であり、『悪』にはペナルティが伴う」ということを教えるのが教育というものだろう。
いじめ根絶みたいな気負いを持たずに、「悪いこと→ペナルティ」という機械的な軽い対応を繰り返すことが必要なのではないかと思う。その中でどうやって教育していくかが教育者の腕だろう。
「安全で快適な学習環境を提供しろ」に関しては大賛成。息子の教室では、(歩き回りとか、先生を無視する、反抗するといった)授業妨害による学級崩壊があった。少なくとも、授業妨害行為に対しては「ただちに懲戒室行き」みたいな毅然とした態度をとって欲しかった。というか、そういう制度があるべきだと思った。
* ちなみに、おかげさまで、子供たちは二人とも、塾ゼロで、公立高校、国立大へと進んでおりますので、多少自信を持たせていただいております。ただし、後はもう知らぬ、本人の責任。
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http://mixi.jp/view_diary.pl?id=271226153&owner_id=4284695
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思兼@31日東1C50aさんの日記 全体に公開
2006年11月18日
02:42 「クラスメイト」ではなく「他人」。「いじめ」ではなく「犯罪」
文科相をはじめ教育関係者は、もう「いじめ」という括りで語るのを止めろ。論点を整理して語る。
第一点。
「クラスメイト」とは「仲間」でも「友達」でもない。
本人にとって望んで付き合うようになった人間ではなく、とどのつまり「他人」である。
「クラスメイト」とは、たまたま集まっただけの無造作で無目的な雑多な他人の集団であって、そいつらを無理矢理に「友達」だとか「仲間」にして扱い、語ることが最初の間違いだ。
クラスメイトは、自主性によって集まった人間集団ではないし、共通の目的意識を持った集団でもない、ただの無造作な他人の寄せ集めなのだから、そこで排他や衝突が起こるのは当然だ。
これに対して、趣味の繋がりや、学習塾のクラスメイトのような、目的のハッキリしている人間集団、共通の目的によって主体的に集まっている人間集団では、いじめのような現象はあまり起こらない。「目的以外のことにパワーを回すことは余計なことである」という暗黙のコンセンサスがそこにあるからだ。
だが、学校のクラスメイトには、そういうコンセンサスがない。だから、互いにエゴを強調しあって、強者が弱者を排除する活動が起こる。
つまり、このクラスメイトというシステムこそ、いじめが起こる構造的理由なのだ。
第二点。
「他人」が「他人」を加害する行為は、「犯罪」だ。
「いじめ」という言葉のすりかえをやめろ。
街角で起こる「暴行事件」や「窃盗事件」や「恐喝事件」などは「犯罪」として扱われるのに、学校の中で起こる「暴行事件」や「窃盗事件」や「恐喝事件」などが、なぜか「いじめ」と表現され、そう扱われている。これも間違いだ。
この原因も第一点にある。つまり「クラスメイト=仲間、友達」という文科相以下学校システムが押し付ける「幻想」が、「仲間同士、友達同士のもめごとだから、犯罪ではなく、いじめ」という、わけのわからない理屈を成り立たせているのだ。
冗談ではない。
第一点で指摘したように、本人にとってクラスメイトは自分が望んでつきあうようになった人間ではなく、強制的に学校に押し付けられ、同じ部屋で学ぶからという、ただそれだけの理由で関係を強要されることになった「赤の他人」だ。
その「他人」にさまざまな「犯罪」を働かれても、なぜか学校や社会に「いじめ」として処理され、適切に対応されないのだ。当事者にとって、こんな理不尽な話はない。
つまり「いじめ」というくくり、概念そのものにも、問題があるのだ。
第三点。
学校に警察力を持たせるか、第三者機関を介在させろ。
「いじめ」を「犯罪」と定義する以上、学校は「犯罪行為(いじめ)」の実態を調査し、「犯罪者(いじめ)」を暴く警察力を持たなければならない。これが全うできないのであれば、第三者機関を学校に配属させる必要がある。
行政はこうした認識に立って、学校制度を再整備する必要がある。行政はこういうことに税金を使え。人を回せ。
第四点。
学校は子供に安全で快適な学習環境を提供しろ。
義務教育課程であれば、それは最優先事項だ。
憲法は、行政と親に子供に対して学習の機会を与える義務を負わせている。よって、学校は子供に学習の機会を提供することこそが最大の存在目的であり、使命でなければならない。
教室内での「犯罪行為(いじめ)」を放置することは、この学習環境を著しく侵害するものだし、生徒の中の「犯罪者(いじめっこ)」を放置することは、学校が義務教育を果たしていないことを意味する。そのような学校を放置してはいけない。
学校は、「犯罪者」をすみやかに退学もしくは停学すべきである。義務教育課程であっても、これは学校が全うすべき使命だ。停学もしくは退学させられる数人の利益より、他の大勢の利益が優先されなければならないのは当然だからだ。
行政も学校が簡単に「犯罪者」に停学や退学処分を課すことができるよう、法的に整備すべきだ。
以上。
要するに、行政の認識が根本から間違っているのだ。
命題は「いじめはどうすればなくせるか?」ではない。
「いじめ」は「犯罪」であり、「犯罪はなくならない」のだ。
だから犯罪に対して対応する体制を整えることこそが、唯一の適切な対応なのだ。
犯罪をいじめと言い換え、社会も親も犯罪を犯罪として扱わず、学校はその犯罪に対して警察力を発揮せず、犯罪が毎日のように繰り返され、犯罪者はなんの処罰も受けない。
こんな状態で被害者がどんな希望を持てるというのだ?
自殺者を作っているのは、クラスメイトという幻想を子供たちに押し付け、犯罪をいじめと言い換えている連中に他ならない。
http://news.mixi.jp/view_news.pl?id=118649&media_id=20
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