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(回答先: 部落問題は今や「差別問題」でなく「特権」の問題なのです。その「特権」を守るために、彼らは「差別」を叫び続けるのです。 投稿者 TORA 日時 2006 年 11 月 03 日 16:06:25)
TORAが政府=支配階級なならびにこの意を受けたファシストばりの石原慎太郎のグループと歩調を合わせ、弱者いじめに狂奔する構造について思考をめぐらせた場合、あまりに低劣な思想的根拠にまともに対応する気がないのだが、ナチスのユダヤ人狩りにも劣らぬ排外主義を垂れ流す以上は、激しい怒りをもって糾弾する。
まずもって、このファシストTORAは、アメリカ帝国主義とこれと軍事同盟(イデオロギー的には日米安保条約である)を結んで戦争できる国への未知をひた走る日本帝国主義については一切触れない。その上であるときは「北」「半島」「韓国」を、そしてあるときは「日教組」「同和」を、それらが日本の政治とは無縁の地平で、あたかも北」「半島」「韓国」「日教組」「同和」が自立した存在として描いているのである。単にネガティブキャンペーンを発するだけではなく、たとえばセオドア・ルーズベルトの言葉を借りて韓国占領を教唆したりする。この手法が稚拙であるが、日本のファシストが古くから使ってきた古臭い手法である。こういえば国民は納得するだろうという程度で、実際国民を愚弄しているわけである。
それゆえに、自分ではモノを考えられない(「コメント」の低劣さからわかる)政府=支配階級の寄生虫であることが証明されているが、そのことに自覚などない。だから引用も長くなるし、「コメント」が上っ面をなでるだけで、なぜそうコメントするかの根拠がない。「コメント」がTORAの感情の吐露だけであり、排外主義を煽るだけのデマゴギーであるゆえんだろう。
TORAの頭の中では「同和」「在日」に対する差別の発生については一切その歴史的考察はない。学問が学問として成立するのはあらゆる主観を排して「実証主義」を貫かないと、社会的には明治維新以降の皇国史観、これにもとづく軍事ボナパルチズムによる軍国主義、そしてその帰結としての第二次世界大戦での敗北という事実が歴史的事実としてとらえられなくなるからである。それゆTORAの主張は非学問的態度に貫かれている。その上で排外主義に固執するのはおのれの利害がからんでいるからである。
おのれの利害がからまなければここまで固執することはない。
賢明な人々は「同和」「在日」という問題については歴史的考察とともにその階級的性格まで推し量って考察することができる問題である。
しかし彼の場合は、ここで「同和」を語ろうと、「在日」を語ろうと、問題はいっしょくたである。論法としては「反社会分子」としてとらえていrのであって、その意味では「日教組」の同類であり、「同和」のことを語っている場合でも「在日」「日教組」のことでもある。彼が問題とする対象領域の違いすら理解できない貧困さ。しかし小学生ずのうの彼にはそんなことはどうでもよいのだ。
現状は「同和」の人々も「在日(朝鮮人)」の人々も社会的な弱者としてこれまで一般市民としての地位が、法律的にも(「在日」の場合)社会的認識としても(「同和」の場合)貶められている。なぜなら国家イデオロギーによって国民の頭脳の中には「偏見」を植え付け国民が汚染され続けてきたことにより、多くの日本人の心の中には「差別」としてそれが根付いているのだから。
TORAの認識は観念論に満ちているが、その事例はここでも展開されている。
「同和」という概念と「同和」行政、「同和の人々」という場合のカテゴリーと実体の違いも区別できないのは、「在日」も「日教組」も彼が論じる場合は同じである。だから「コメント」では
>このような現状では「同和」や「在日」は「差別」を受けているのではなく「特権」を受けている団体であると言える。
イデオロギー(ここではカテゴリー)が「団体」になっている。
そして以下引用のように「主客の転倒」。ここでは問題解決の主体が入れ替えられているのだ。
「同和」問題について論じるならば、徳川幕府の身分制によって社会の最下層からもはみ出された「エタ・非人」という存在として、人間性まで否定されてきた人々、そしてそれが明治以降も今日まで延々と日本社会の中で息づいて脈打ってきた事実にはほっかむりして、ようやく小学校でも「解放教育」が実施されるようになったわけであるが、問題解決は日本人がこの問題に真摯に対決しいかに差別の根を絶つのか、このことが出発点となねばならない。なのに部落民に対して、社会から差別をなくすためには組織を解散せよと言うのみならず、それでは手ぬるいので「部落を出ろ」「被差別意識をなくせ」という乱暴で傲慢な要求をつきつける。これでは部落民が「部落」を出たしても、被差別意識をなくしたとしても、国民全体が差別意識をなくさない限り解決することはない。
同じ論法で「在日」に対しては「日本から出てゆけ」、というわけだ。ここでは「同和」も「在日」もそれぞれの歴史性は無視していっしょくたにしているが、なんと、「在日」も「部落社会」に存在しているかのような混乱振り。
>では「同和」や「在日」の問題はどうしたら解決するのだろうか? 強制的にそれらの組織を解散させても問題は解決しないだろう。あくまでも彼らの意識の変革を待たなければならないのであり、被差別意識を持ち続ける限り彼らは団結して一般社会に恨みを持ち続けて部落社会から抜け出す事をしなくなる。
「被差別意識」とはいったいなになのか?
これは「同和」問題について考えるならば、水平社の差別撤廃運動の開始以来、被差別部落の人々には被差別意識は差別撤廃のための運動として1世紀近くにおよんでおり、日本人の心や社会に存在する差別意識の撤廃の域まで達している。差別問題と正面から対決しているのも被差別意識から発してしるものではない。すでに社会運動にまで高められていることをTORAは無知なのか、意識的に無視しているのか。差別心をあおり犯罪まで被差別部落住民に押し付けてしまったのがあの狭山事件である。国家権力の謀略であるが、権力自らが差別心に依拠して石川氏を無理やり犯人に仕立て上げたのではなかったのか?
TORAの認識。
彼にとっては歴史性も階級性も見えないので、はじめから「同和」「在日」の問題が歴史を超えて現在の形のまま存在しているようにしか見えない。「同和」「在日」というイデオロギーがどのような実体(物質の自己運動によって生成されたそれ)か、問題を追及しようという発想は無縁なのだ。絶対に歴史を語らない。「同和」「在日」をめぐる階級的な情勢の変遷も見えない。ただただアプリオリに「同和」「在日」があるのだ。支配階級対被支配階級という社会的実存繰り広げる階級情勢を語った場合、途端におのれの主張が根拠のないいシンキローであることに気付くのであるが、彼は気付くのがいやなだけである。おのれのこれまでの主張がすべて崩れてしまうから。
人権無視の差別主義者である本質が自分にはわからないほうがよいのだ。
国のお先棒をかつぐ以上はしっかり暴言を吐き続ける自分であり続けたいのだろう。
支配階級による排外主義が高まる情勢は今日的には北朝鮮をめぐる情勢の緊迫と日本帝国主義のうごきを抑えねば「同和」「在日」は排外主義イヂオロギーであることがつかめない。日本国内の政治的・経済的矛盾を乗り切る手法が「排外主義」である。そして1千万人とも言われる被差別部落住民への支配階級による様々な手法を使った抑圧政策が強まるのである。このことは日教組への弾圧(国旗・国歌の強要。「免許剥奪」という脅迫)と「在日」をからめたデマキャンペーン(憲法改悪や教育基本法の改悪の阻害要因となるため)、さらには日本を揺るがした25日間でスト権ストを果敢に戦った、経済の大動脈に存在するJR東日本労組(旧動労系。革命のヒドラと恐れる)に対する戦闘的労組破戒攻撃。これらの「同和」組織「日教組」「戦闘的労組」が総じて戦争遂行体制の確立のための阻害要因となるためにこそ、排外主義キャンペーンに狂奔しているし労組つぶしにこれいそしむわけだ。
もちろんこのような政府=支配階級の手先となって「同和」の人々や「在日」朝鮮人をいじめているのが、小学生以下の論理で「いじめ」を論じるTORAその人である。
http://www.asyura2.com/0610/senkyo27/msg/1013.html
明治以来の国家による被差別部落への弾圧や民衆による迫害を象徴的に対象化したものが藤村の「破戒」である(住井すゑ「橋のない川」は残念ながら読んではいない
http://www.ushikunuma.com/~sumii-sue/sakuhin.htm)。