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(回答先: 高校の履修不足問題は正直者が馬鹿を見る事を教えている。クラスメートが「いじめ」を受けても誰も助けない今の子供達。 投稿者 TORA 日時 2006 年 11 月 01 日 14:51:32)
最初の二つの意見は、まるで、教育のことが というか、世の中のこと何もわかっていない人が書いたのですね。
そんなに日教組の見解を聞きたければ、きいて、そしてそれを書けばいいんじゃない。
ただのいやみを言いたいだけのようですね。大人なのでしょうか?
履修問題や、いじめや、教育現場の荒廃の原因をまじめに分析しようとせず、ただの組合にくしに利用しているだけのような、はっきり言って、くだらない感想ですね。
まるで、たくさんのこどもたちが 自殺までして訴えたかったことを、まじめに考えもせず、組合つぶしや、教育基本法改悪に利用する自民党と同じように見えます。
週休二日になった経緯をもう少し調べたらいかがでしょうか。この方は。
学校が週休二日になったのは、組合の先生の運動の結果ではないですね。
それほどすごくないよ、組合の力なんて。家族の生活や、学力にかかわる大問題なのに、権力側が反対なら そんな簡単になるわけないでしょ。
別の力がくわわったのではないの。国際的な。
その頃私は教師でしたが、組合として 何の運動もしていません。
むしろ反対の教師多かったですけど。何せ、形だけの週休二日だから、3時間分、べつの曜日に振り分けて、行事にさく時間を減らし。たいへんでした。
まあ、教師がたいへんでも、こどもが利益をえればいいですが、えているのでしょうかね。
教育に対しては色々な意見があって、いちいち反応しませんが また、それなりに尊重しますが、こういう 学校で何か問題が起こると、日教組のせいにする人がいますね。日教組がかわいそう というのではなくて、それによって、問題の本質を覆い隠すのですよ。
そうすると結局 誰が一番被害をうけるのか、それは、こどもですね。
15年位昔、いじめ問題が大きく報道されていた頃、マスコミはこぞって組合たたきしていました。現場で私たちは、本当にくだらない。って思っていました。
現場では、組合員もそうでない教師も、いろいろなことに直面し、それなりに悩んだり 取り組んでいたんですよ。(だから、偉いなんて言っていませんよ、だめな教師もいます。もちろん)
教師の力だけでは、いじめは解決しないんですよ。教師ももちろん含んだ、社会全体の問題です。もっと社会経済すべてに関係する問題なんです。
現に、組合たたいて、どうなったか。いじめはなくなったか。ますますひどくなっている。
政府の後押しのため、わざとこういう意見を書いているのかしらないが、こういう意見が、いじめなどの問題の解決を遅くする後押しをしている という自覚は持ってほしい。
履修問題も直接組合運動に関係ないし、
◆バランス感覚を失った日本の教育現場 10月31日 総動員でいきまっしょい
http://seizaikai.exblog.jp/4459176
ここのところ、教育現場に纏わる事件が連日報道されている。履修単位の問題、いじめの問題、どれもこれも自然発生した問題ではなく、ある意味人為的に起こった問題である。
本来、教育現場というのは、偏向することなく、バランス感覚が常に保たれているべきである。ところが、戦後60年、日本の教育現場は、荒廃してしまったと言っても過言ではない。その根本には、日本人の精神を骨抜きにせんがための進駐軍による戦後政策が影響していることは間違いない。アメリカ人は、日本人の精神性に驚異を感じていた。彼らの思考回路では、到底理解できないことであった。だからこそ、骨抜きにしてしまうことが、今後再び日本をアメリカにとっての脅威として復活させないための道と思ったのだ。
確かに、そのアメリカによる戦後政策の結果、日本は60年間平和を維持することができた。軍隊を必要とするような危機的状況に巻き込まれることもなかった。だが、そのような平和と引き換えに、日本人は魂を売ってしまったと言っても決して過言ではない。そのようなアメリカの戦後政策が、戦後60年にして、結実しているのである。アメリカも忘れていた、戦後政策の答えが、今、奇しくも日本の教育現場に症状としてあらわれている。
一言で言ってしまえば、平和ボケしたが故に、教育現場でも五感が退化し、予期していなかった悲惨な事件が、次から次へと発生しているのだ。ある意味、アメリカの戦後政策は成功したのかもしれない。しかし、日本にとっては等閑にはできない重大なる問題に発展してしまったことは間違いない。
戦後暫くの間は、日教組が強く、教育現場は荒れていた。自由の履き違えも甚だしい状況であった。大体、自国の国旗や国歌を認めない、とか掲揚したり斉唱したりしない、などということを教育現場で子供達に強要することの方が、教育という事柄を履き違えていること甚だしい。国旗や国歌を敬うな、と教育するような国が、世界中探してみても、日本以外に何処にあるというのだ。
国旗を掲揚することが正しくないか、国歌を斉唱することが正しくないか、は成長した後子供達が独自に判断することであって、大人が、ましてや教師が強要するものではない。日教組の教師達は、国旗の掲揚と国歌の斉唱を学校で強制することに反対、と唱えているが、それは逆で、掲揚させず斉唱させぬことの方が、子供達へ対しての強制である。教師にその権利はない。
大体、国旗を認めず、国歌を認めない、というのであれば、学校という教育現場でそのことを子供達に強要するまえに、まず国旗を変えようとか、国歌を変えようという議論を教育現場ではない場で為してからが筋であろう。無垢の子供達が勉学にいそしむべき学校という場で、一番の弱者である子供達を洗脳するような、そのようなことの方が非常識なことは一目瞭然である。そのことは、諸外国のメディアが、常に不思議に思い続けてきたことであった。
昨今では、教育現場のバランスも少々変わってきた。以前のように、必ずしも日教組が強いというのでもない。日教組に所属する教師の数も年々少なくなってきた。それでも、尚、教育現場での問題は絶えない。何故ならば、やはり教育現場でのバランス感覚が欠如しているからだ。
昔のように親は、教師を尊敬しなくなった。また、親に尊敬されるような教師も少なくなった。その結果、親は子供達の前で、教師の悪口を平気で言う。当然のことながら、そんな親による教師へ対しての批判ごとを耳にした子供達は、教師へ対して尊敬の念などもてなくなる。それどころか、教師を生徒が馬鹿にさえするようになってしまう。その結果、教室は荒廃する。教師によって、生徒達を纏められなくなってしまう。
教師は、父母に攻撃されることをおそれ、信念を失う。その姿は、子供達に勘違いをさせる。教師は親がお金を払って雇っているのだから、自分達が言うことを聞く必要などない、と子供達は思ってしまう。
同じようなことは、家庭内でも起こっている。母親は、子供達の前で、父親を罵倒する。その結果、子供達は父親を尊敬しなくなる。父親は家に居場所がなくなる。当然のことながら、家庭内では不協和音が生じる。そして、両親の不協和音を察知した子供達は、寂しさを癒やそうと、外へと目をむける。または、そのはけ口を、「いじめ」という形で、他人へと向ける。それらの行為は、どれも大人達や親達の行為の後姿を真似した姿なのである。
教師は教師で、上と親しか見ず、生徒達へ目を向けない。クラスを上手く纏めたいが一心で、生徒の気を惹くために、生徒達が「いじめ」ている生徒を敢えてスケープゴートにしてしまう。本来、教師が救わなければならぬにも関わらず、いじめられた上に、教師にまでスケープゴートにされた生徒は、死を選ばざるを得ない状況に追い込まれる。
「いじめ」によって死に追い込まれても、その後、その教師や学校長の態度は二転三転する。この期に及んで自らの保身や学校の存続のため、問題と正面から対峙しようとしない。記者会見を開き、ノウノウと「いじめ」が原因であるという証拠がないので、「いじめ」による死とは言えない、などと平気でのたまう。あのようなことを、記者会見の場で平気で言える校長は、教育者でもなければ、人間でもない、悪魔としか言いようがない。あのような人間を校長に奉る、現在の日本の教育現場に問題があることは誰の目にも明らかである。
この教育現場で起こっている諸々の問題の解決策は、一つである。それぞれが、逃げず、真正面から対峙する。それだけである。小手先芸では、答えはだせない。その場凌ぎの対応でも、答えは得られない。子供達と真正面から対峙しなければ、この国の未来を支える子供達を救い出すことはできない。子供達を救い出すことができないということは、この国に未来が無いということに等しい。教師も、文科省の役人も、親も、全ての大人達も、そして、子供達も、思惑で言動せず、心で受け止め、心で感じ、心眼で見、心で聞き、心で語って、はじめて解決できる問題である。心で、対峙するしか解決方法はない。私は、強くそう思う。