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(回答先: 高校の履修不足問題は正直者が馬鹿を見る事を教えている。クラスメートが「いじめ」を受けても誰も助けない今の子供達。 投稿者 TORA 日時 2006 年 11 月 01 日 14:51:32)
□きれいごとだけの「大本営」:高校「履修漏れ」問題 [JANJAN]
http://www.janjan.jp/media/0611/0610283626/1.php
時評=きれいごとだけの「大本営」:高校「履修漏れ」問題 2006/11/01
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高校が必修科目を履修させていないという「履修漏れ」問題は、とどまるところを知らない拡大ぶりである。
どうしてこんなことでメディアが騒ぐのか? まず疑問である。もう40年以上前のことになるが、私たちが高校生だったころ、過度に受験ばかりを意識している「ヘンな奴」がいた。音楽・図工など芸術系の科目では、「内職」をしている。体育は「風邪をひいた」と言ってサボる。こうして受験集中型の高校生活を送るのである。生徒会やクラブ活動など、もちろんつき合わない。
こういうヘンな奴たちは、受験も上手く行かないという「神話」もあった。受験に役立たない教科もきちんとやる。生徒会でもクラブ活動でも人並み以上に活発にやって、さらに受験勉強をやる。そういう姿勢でなければ、受験での成功はおぼつかないというのである。この神話は、おそらく教師たちがつくったのだろう。
どちらの道を選ぶかは、生徒の自由に委ねられていた。私はどちらの道にも属さず、翻訳小説ばかり読んでいる、人並みはずれたヘンな奴だった。ひどい「内職」ぶりで、英語の時間に数学を、数学の時間には世界史や物理を、そして世界史や物理の時間には英語をやっているという感じだった。ときどき教師に見つかり、「何やってるんだ」と叱られたが、その程度ですんだ。
どういう高校生活を送るかは、生徒の自由だった。高校は義務教育ではなく、同世代で職に就いている人も少なくない。高校生は自分で生活を組み立てることができる大人として扱われたのである。
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必修科目を省略して、受験に必要な科目に振り替えてやるのは、学校が「内職」を公認し、場合によっては内職を強制していたという情景だろう。「生徒のため」という口実があり、有名大学合格者数を増やすという「受験校」としてのメリットもある。
内職が発展して「学校指定」にまでなったのは、奇妙な事態ではある。しかし一方に教育課程の多様化・自由化という大義名分があり、一方に大学受験という目標がある。必修科目が軽んじられるのは「時代の流れ」だったのだ。
新聞論調を見ると、「必修科目の履修漏れはけしからん」一色である。とくに読売の社説、「高校?必修?逃れ 受験偏重が招いたルール無視」(10月27日付)は「教育現場でルール無視があってはならない」と断言している。どうして「内職」ぐらい認めてやろうよ、と書けないのか? 不思議というほかない。
文科省や中教審は、第2次大戦中の「大本営」になったのと勘違いしているのではないか? きれいな言葉ばかり並べ立てているからだ。ゆとり、多様化、自由化などであり、「学校週5日制」(どうして「週休2日制」と言わないのだろうか?)もあった。そのきれいごとの下で、現場は悩み、ときには「汚れた選択」も行わなければならない。
問題はまったく異なるが、いじめでも同じことだ。「いじめはあってはならない。自殺者を出してはいけない」などのきれいごとが強調されるのに比例して、末端の現場は苦境に立たされる。いじめについての率直な対応が難しくなるからである。
10月28日付「朝日」朝刊1面トップ記事は「必修漏れ、救済検討 首相が指示」だった。安倍晋三は27日、記者団に「子どもたちの将来に問題が発生しないよう対応すべきだし、そのように指示をしている」語った。また講演で「大学受験に手っ取り早く対応できるために、こうしたことに走ってしまったのではないか。もう起こらないようにするにはどうすればいいか、教育再生会議で議論したい」とも述べたという。
「大本営のきれいごと」の典型であろう。経営トップがきれいごとばかり言っている企業に活力はない。トップは「失敗したときの責任は私がとるから、君たちは前向きの仕事に汗を流せ」と言わなければならない。
「闘う政治家」を自称する日本国のトップがきれいごとばかり並べているとどうなるか? かつての大本営指揮下で、末端現場は玉砕を強いられるばかりだった。その二の舞としか言いようのない道を、いまの日本は着実に歩んでいる。それが分からない国民は、愚かとしか言いようがない。
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(藪露亭晋介)