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http://tizu.cocolog-nifty.com/heiwa/2006/10/229_ee41.html から転載。
10/31/2006
第229号 いじめと現代社会
>>日々通信 いまを生きる 第229号 2006年10月30日<<
発行者 伊豆利彦
ホームページ http://homepage2.nifty.com/tizu/
いじめと現代社会
いじめによる自殺が中学生から小学生にまでおよんでいる。
いたましいことだ。
教師の指導が不十分だったとして教師に対する攻撃が強まっている。
たしかに、教師にも問題がある。
しかし、いじめによる自殺の問題は教師にばかり原因があるのではない。
こうした不用意な教師に対する過度な責任追及もいわば一種のいじめなのではないか。
このような責任追及が自殺者を生むということもまたあり得ることだと思う。
誰か弱者を標的にしてみんなで寄ってたかって攻撃する。
たしかにいじめる側にも理由がある。
彼らは常に正義であり多数派なのだ。
彼らに異議を申し立てるものは、今度はその者がいじめの対象になる。こうしてたえずいじめの対象をつくりだすことで多数派のボスは自己の権威を保持する。
このいじめの構造は戦争中の軍国主義による民衆支配を思い出させる。
昭和のはじめはマルクス主義全盛期だった。
マルクスボーイというような言葉もあり、「資本論」はアクセサリーにさえなったらしい。
当時はプロレタリア文学万歳の時代だった。
総合雑誌の文芸欄はプロレタリア作家の作品でうずめられ、マルクス主義的論説が満載された。
これに反対する者は文芸、言論の世界では非難攻撃の集中砲火をあびて片隅に追いやられた。
しかし、やがて満州事変がはじまり、非常時の名のもとに国家権力による弾圧が強化されると、急速に国民感情の右傾化がはじまった。
「非常時」という言葉が合言葉になり、戦争に反対する者は「非国民」「国賊」と罵られた。
当時はアカとレッテルを貼られれば周囲の人々から特別な目で見られ、差別された。
プロレタリア作家の葉山嘉樹は転向したが、警察からにらまれつづけ、中学を受験する子どもが、筆記試験で合格しても口頭試問でおとされ、どこを受験しても駄目だった。このため、ついに率先して満蒙開拓団に参加したと書いている。
いじめの構造は村八分の伝統のなかにいきているのだろう。
戦後はみな一斉に日本の軍国主義を非難して、アメリカの民主主義を讃美した。。
かつて、軍国主義者だったものも軍国主義を非難した。
そうすることで身を守ったのだろう。
マルクス主義が復活し、民主主義万歳だった。
今度はアメリカを讃美しなければジャーナリズムでは生きていけない時代になった。
そして、いま、日本はどこにいるか。
かつてイラクで拉致された人たちについて、自己責任ということがいわれ、非難の声が殺到したことがあった。
いまは北朝鮮に同情したりしたら大変だ。
邪悪な北朝鮮、狂気の独裁者金正日の大合唱だ。
中国に対する理解を示しても、非難が殺到したことがあった。
なにか、旗を振られて、その旗でジャーナリズムが一斉に議論をしているといった感じがする。
事故の責任において自己の判断を示すのではなくて、時代の声を合唱しているようだ。
戦争中とすこしも変わらない。
当時、イギリス人の捕虜に同情して非難の嵐にさらされた女性があった。
なにしろ、米鬼、英鬼の時代だ。
これが捕虜虐待や虐殺の原因となった。
いじめといえば、軍隊の教育の名による暴行が、いまのいじめとそっくりだ。
運動部のいじめなど、いつも愛校心を背景にしているのではないか。
当時も、この暴行に耐えかねて自殺した兵隊がかなりいた。
愛国心が強調された戦争中はいじめが横行した時代だ。
愛国心を強調する教育などがおこなわれたらどう言うことになるか。
戦争を語り継ごうMLに次のようなメールがあった。
共感したので転載する。
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教師をしていて、もっともつらいのがいじめです。
これがなかなかなくなりません。
どうしてでしょうか。
私の長女も、次女もいじめを受けたことがあります。
特に次女は中学時代にとてもつらい体験をしました。
ストレスで髪の毛がちりじりになったことがあります。
私も小学生のとき、いじめを受けました。
私のクラスでいじめが絶えなかったのです。
私は当時クラス委員をしていましたが、
私もいじめに荷担させられました。
それを拒んだところ、いじめが始まりました。
学校に行くのがいやになって、
ある日、荷物をまとめて家出をしました。
その夜中に駅にいるところを警察に補導されて家に連れ戻されましたが、
やはり両親には打ち明けることができませんでした。
ちなみに、このあと、私はそのいじめの張本人の少年に
仕返しをしました。これまでいじめを受けた生徒達をあつめて、
反対にその少年を孤立させたのです。
(クラスの大半の男子生徒が私たちにつきました)
しかし、これは例外的なことだと思います。
<いまから思えば、この軽い「いじめ」についてさえも、加害者も被害者も、誰も話したくないタブーになっているという経験を忘れないようにしたいと思います>
いじめは、いじめられた方は勿論ですが、いじめた方にも心の
傷になって残るものなのでしょうね。
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私も自分の子どもの頃を思い出させられた。
いじめられている自分は親にも知られたくないのだ。
誰にも知られたくないのだ。
それほどの屈辱なのだ。
この方は力があって復讐されたのだが、多くはそれを気にしていないような平気な顔をして耐えている。
教師が気づかないのも当然だ。
そして、ある時、プツンと我慢が切れてしまう。
いじめられるものの多くは、いじめるものに付き従っている場合が多いようだ。
いじめる側につかなければいっそうひどくいじめられる。
こうしていじめるものはますます力をまして横暴になる。
いじめは日本社会に固有のものだろうか。
しかし、イラクやイラン、朝鮮に対するアメリカのやり口はいじめではないか。
核保有大国が、核にしがみつく後進の貧しい国を近隣諸国を集めておどしつける。
朝鮮の核保有が何をもたらすかを考えれば、反対しないわけにはいかないが、アメリカのやり口はそれ以上に問題だ。その尻馬に乗る日本も情けない。
いじめの問題は深刻な現代の問題だと思う。
いじめは常に弱者に向って自己の正しさを主張しながらおこなわれる。
それは勝ち組、負け組というような差別と格差を前提としてはびこっているのではないか。
ただ単に教師の責任ばかりを追及しても空しいような気がする。
勝ち誇ったマスコミの騒ぎかたそのものがイジメなのではないかと思われてくる。
しかも、格差教育を主張する政府筋がそれを利用して、自分たちに都合のいい教育改革論議の材料にしている。
秋らしい日がつづきます。皆さん、お元気でお励みください。