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2006.08.24
若月俊一と佐久病院についてほんのわずか
若月俊一が二十二日に死んだ。九十六歳だった。死因は肺炎とのことだが、このお歳での肺炎は寿命に近いかもしれない。すでに伝説の人というべきか。ウィキペディアには簡潔な説明がある(参照)。二十世紀医学そのものの人生といってもよいだろう。医学的にはどう評価されているのかわからないが、長野県の長寿の一端は彼が開始した巡回診療の影響もあるのではないか。
私の祖父は佐久病院で死んだ。単に地域医療というだけのことだが、見舞いに行ったおり、なんとなくだがこれはよい病院だなという印象を持った。彼が入院するころはもう佐久病院への信頼は揺るぎないものになっていた。もちろん、大衆は警戒的な噂をときおりしたがどうというものでもない。このあたりの大衆と医療の歴史の機微というのはなかなか言葉にならないものがある。
佐久病院といえば、司馬遼太郎の「ひとびとの跫音(参照〈上〉・〈下〉)では、正岡子規の養子忠三郎の友人西沢隆二(同書ではタカジ)の晩年をこう描いていた。
タカジと忠三郎さんの生涯にとって最後の年(一九七六年)になった晩春、タカジは、ひどく無邪気な顔つきをして、信州まで検査を受けに行ってみるといって、大阪から信州にゆくのはどうすればいいのか、と私の家内にきいた。家内も知らず、私も知らなかった。そのことは、すでにふれた。
タカジは、東京に住んでいる。
(東京の病院で検査をうければいいのに)
と思ったが、そういう忠告は彼にはむだであった。彼は信州の佐久の病院を信じきっていた。
結果は、手遅れの食道癌だった。そのまま居つくようにして、佐久の病院に入院した。
「すでにふれた」の箇所の前には同じような記述がある。
信州の佐久の盆地に、土地の農協がたてた総合病院がある。屋上にのぼると、磧石と浅瀬の多い川が盆地を銀色に掻き切るように流れていて、ところどころの黒い杉の森によく映えている。
院長のWさんは半生を農村医療につくした人で、臨床家としても研究者としてもよく知られている。医師というよりも病者の友というほうが、その人柄にふさわしい。
タカジは、この病院を信用していた。
司馬の書き方は簡素でこれだけ書けばわかるでしょという含みがある。だが、もうそうした理解の基礎たる戦後史の常識は消えてしまっているかもしれない。
今この箇所を読み返すと、なぜ司馬が若月俊一をWと略したのか少し疑問に思うとともに、当時は思わなかったが、若月と直接ではなくても佐久病院での活動と西沢にはなんらかの交流があったのではないかとも少し思えた。ウィキペディアの佐久総合病院の項目(参照)にはこんな記述がある。
「農民とともに」をスローガンに地域のニーズから出発して第一線の医療を担いながら発展を続け、農村部に特有のの健康問題を解決しようというところから農村医学という学問もうまれた。また農村部の医療を担える人材を地域で育てようと農村医科大学の設立を目指した。その過程は創成期を支えた若月俊一の「村で病気とたたかう」、や南木佳士の「信州に上医あり」などに詳しい。演劇班や吹奏楽団、コーラス部、野球部など文化活動も盛ん。病院の屋上から響く応援団の練習の声は臼田の夏の風物詩となっている。
ひとびとの跫音
西沢隆二については、「ひとびとの跫音」で十分過ぎるほど描かれていると思っていたが、そうでもないのかもしれない。高倉輝(参照)とかも関係しているのだろうな。
http://finalvent.cocolog-nifty.com/fareastblog/2006/08/post_24a8.html
<コメント>
昭和の巨星 また逝く (合掌)