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(回答先: 【ワールドカップ】日本惨敗 サムライならハラキリだろ!---(反米嫌日戦線「狼」美ハ乱調ニ在リ) 投稿者 ミスター第二分類 日時 2006 年 6 月 15 日 23:46:29)
出典 http://terasima.gooside.com/forum040704patriotism.html
チョムスキー、スポーツを語る---「愛国主義とスポーツをめぐって」
2004年7月4日、7月8日
翻訳:寺島隆吉+寺島美紀子、公開2004年9月2日
拝啓、チョムスキー様
アンドリュー・パロディ、2004年7月4日
引用しながら言及しようと思い、貴著『権力を理解する』に眼を通してみましたが、不幸にも引用したい箇所を発見できませんでした。
しかし、もし私が正しく記憶しているなら、貴著では次のことに十分な言及をされていないように思うのです。
すなわち、国民国家システムがひとつの国の労働力を他の国の労働力に対抗させ、全ての人の生活水準を低下させたということ、またNAFTA(北米自由貿易協定)のようなシステムが技術進歩と連動したこと、移民の生活基準が現在より厳しくなっているという事実が国民国家システムの構造と連動して機能し、その結果、自国の労働力が他国の労働力と対抗させられていることなどです。
それについて間違っているかもしれないのですが、手元に引用できるものがないので、この点に関しては記憶に頼らなければならないのをお許しください。
愛国心については、もしそれが自分の共同体についての懸念や心配を意味するなら、それは良いものであるということに同意しますが、それが自分の国家の優越性を主張することとして使われることの方が多いように思います。
したがって、それはしばしば自国が望むことなら何でも許される「白紙小切手」としてあらわれます。
換言すれば、愛国的であろうとするなら、自国の指導者に質問をしてはいけないのです。しかし、それは何と広く一般に行き渡っている現象でしょうか。全く恐ろしいことです。
言語学者として、あなたは愛国心(patriotism)という言葉そのもののもっと深い意味について、私よりも知っておられると思いますが、私見では(私は間違っているかもしれませんが)、その言葉は家父長制(patriarchy)という言葉から来ていると考えています。家父長制度が意味するのは、父親のために父親によって統治されるシステムです。
もしこれが本当なら、愛国心の概念そのものは非常に男中心(macho)の概念ではないのではないでしょうか?
何故、たとえば、母系主義者(matriarchist)であったり兄弟主義者(fraternalist)であったりしてはいけないのでしょうか。
スポーツに関して、私がしばしば非常に不安にさせられたことのひとつは、団体精神への呼びかけでした。というのは、高校時代にそういった不気味な決起集会に参加し、団体精神を注入されたことを覚えているからです。
その底に流れるメッセージは他の集団の人々を征服するという精神性と等しいものに見えました。
それは非常に恐ろしい意味を含んでいます。
「命令された英雄的行為、無分別な暴力、愛国心という名の下におこなわれる全ての忌まわしい無意味な行為−−私はそれを激しく憎む!」(アルバート・アインシュタイン)
「アンドリュー・パロディからの愛国主義」について答える
ノーム・チョムスキーからの返信
2004年7月4日
国民経済統合の効果はそれがいかに実行されるかによって変わります。
NAFTAの場合、それが取るべき形態で [民衆と為政者の間に] 幾つかの基本的な不一致がありました。
ひとつは政府間協定で、それは本質的で、関係する全3カ国[カナダ、アメリカ、メキシコ]の多くの人、おそらくは大多数の反対にもかかわらず、横車が押しつけられたことでした。
もう一つは労働運動と議会が設置した調査委員会、すなわち技術評価局(Office of Technology Assessment)によって、もう少し詳細に展開させられたものです。両者とも、かなり似た用語で述べていましたが。
その双方が主張したのは、政府案は[民衆には]低成長・低賃金、[企業には]高利益という結果をもたらすというものでした。が、これらの否定的影響を克服するための修正案は提案されましたが、できませんでした。
労働者とOTA(技術評価局)の主張は、部分的には南ヨーロッパの最貧国をEU(欧州連合)に統合した経験から引き出されたものですが、討論にはいることを許されませんでした。そして歴史から削除されてしまっているのです。
当時の議論は、ZNetマガジンへの私の論文(それは拙著Deterring Democracy『民主主義を押し止める』に入れられています)で少しは見ることはできます。
ですから、その問題が解決されているとは思いませんし、起こったことが、あなたが示しているように、NAFTAの結果であるかどうかは分かりません。[なぜなら、労働者とOTA(技術評価局)の主張は議論されなかったからです。]
愛国心については、言語学も語源学も何も我々には教えてくれません(たとえば「友愛主義者・兄弟主義者」fraternalitという語も男性起源です)が、その語の語法・使用法は教えてくれますし、使用方法はあなたが示すとおりです。
それについては何も言語固有のものはありません。
それは、権力と支配のシステムが、我々が使う言葉を翻訳する特別な方法をいかに選択し増幅するかということを反映しているにすぎません。
そのような言語の使用法を変えることは、社会変革に向けられた活動全体の一部なのです。
「団体精神」についても同じです。協力するのは良いことです。が、スポーツは「良いスポーツマンシップ」と「自分自身のチームを越えた団結」という概念とによっても、同じように活気づけられうるのです。
再論「スポーツについて」
アンドリュー・パロディよりチョムスキーへ
2004年7月7日
チョムスキー様
スポーツに関するあなたの返答に大変驚きました。
そこであなたは「スポーツは、『良いスポーツマンシップ』と『自分自身のチームを越えた団結』という概念とによっても、同じように活気づけられうる」と書いていらっしゃいます。
私は今までスポーツをこのように考えたことがありませんでした。
なぜなら率直に言いますと、私はこれまでにこんなことが起こったことを見たことがないからなのです。
私がこれまで見てきたのは、おそらく家族のピクニック以外でですが、スポーツが「ショービニスム(好戦的愛国心)」を奨励し、競争への衝動をかき立てることだけでした。
私が思い起こすのは10年ほども前に広がった「玩具のために命を賭ける奴が勝利する」という素晴らしいスローガンです。
そして私はそのスローガンがナイキ[スポーツ製品製造会社]のものだったと思っています。
この点に関しては、あなたの言葉は全く意外でした。
というのは、400ページ以上もの大部な貴著『権力を理解する』の中でスポーツに関する部分(pp.98−101)が実際に私の好みの部分だからです。
これらのページと同じほど明瞭に述べられている、「見るスポーツ」について根底に潜む意味を読んだことも聞いたことがなかったからです。あなたは、私が常にスポーツについて感じていたが言うことができなかったことを言葉にしてくださいました。
そこで、あなたの主張は次のように考えるべきなのでしょうか。
「スポーツは権力構造の従属することを励ますようなやり方で使われている」
「しかし、それはスポーツに本来的に内在するものではない」
「それはまさに主流文化の中で平均的人間が押しつけられているやり方と同じである」。
私は、「スポーツ本来の性質は競争に基づいているのだから、文脈に関係なく必ずショービニズム(好戦的愛国心・盲目的愛国主義)」的傾向を強化するに違いない」のだと考えてきました。
敬具
アンドリュー・パローディ
チョムスキー、再論「スポーツについて」に答える
ノーム・チョムスキーからの返信
2004年7月8日
スポーツ(あなたのメール第1段落)と「見るスポーツ」(第2段落)との間には違いがあります。
「スポーツは『良いスポーツマンシップ』と『自分自身のチームを越えた他者との団結』という考え方とによって活気づけられることも可能だ 」と考えます。
そして私は幾つかそのような例を見てきました。
[したがって、もちろんスポーツは権力への従属を促す側面も持っている。]
しかし、次のように言うのが正確であるように私には思われます。すなわち「特に『見るスポーツ』は権力への従属を促す傾向が強い。が、これは元々スポーツに内在するものではないと私には思われる。」ということです。
ノーム・チョムスキー
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[コメント]
チョムスキーの言葉を持ち出すまでもなく、「サムライ」とか「ハラキリ」とか、特攻隊の云々などといったモチーフがマスコミによって持ち出されて来ている事には注意が必要と思います。
ワールドカップ、オリンピックなどの「見るスポーツ」が回を重ねる毎に「ナショナリズム」が強まってきているように感じるのは私だけでしょうか。