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植草氏逮捕に関するメディアの独断性と偏頗性 〔神州の泉〕
http://www.asyura2.com/0601/nihon20/msg/747.html
投稿者 いいげる 日時 2006 年 9 月 22 日 23:02:30: Xn2tbFdBriSHs
植草氏逮捕に関するメディアの独断性と偏頗性 〔神州の泉〕
http://shimotazawa.cocolog-wbs.com/akebi/2006/09/post_aeca.html
より抜粋。
テレビはワイドショーが
特に典型的だが、有名人が事件を起こすと、必ずそれを取材に行き、周
囲の迷惑も省みずに、事件の関係者や周辺にいた人たちにあることない
ことを聞きまわる。それはほとんど事件の本質とはかけ離れたプライベー
トなことに重点を置いているが、少なくともテレビ独自のソースを見つけて
取材を行うのが通例である。テレビが独自の取材を行うのは、テレビが
文字メディアとは異なり、視覚メディアであることを示す存在証明でもあり、
矜持とも言える。
しかし、不思議なことに、今回の植草氏に関することについては、テレビ
も警察発表ソースだけで止まり、独自の画像主体の取材活動を行ってい
ないように見える。アナウンサーやキャスターが、警察発表の新聞記事を
そのまま棒読みしている感じなのだ。各局とも、一様に、前回の手鏡疑
惑を強調し、電車内の件についてはテレビ独自の取材行動をしていない
ようなのだ。思い起こせば、前回の手鏡騒動の時も、テレビは駅構内の
混雑した映像のみを流しながら新聞記事と同じことを繰り返していたよう
に思う。つまり、植草氏の件に関しては、テレビの存在証明である関係者
画像を用いなかったのである。
その気になれば、当日、現場に居合わせた者を一人や二人見つけて、
ワイドショーらしい覗き見趣味な質問を行っていたはずである。あるいは
未成年の女子生徒本人は避けても、その親兄弟や親族、近所の住民に
聞き込みに行くくらいは常套手段であったはずである。ところが、そのゴキ
ブリ的な生命力は、植草氏の件に関してはまったくと言っていいほど発揮
されていないように見える。テレビの有名人報道が、植草氏に関しては、
その定番的な下司取材を行わないということは、あらためて思うと不可解
である。
うがって考えれば、これは昨年の郵政民営化時にテレビが、民営化の
背後で糸を操る、外資やアメリカの意図を報道することを一切禁忌にし、
徹底的に忌避したことと、どこか似通っているキナ臭さがあるのだ。宮
崎学氏の「大衆迎合的人道主義」という言葉を借りて言うなら、植草氏報
道に限っては、普段よりも極端な大衆迎合的人道主義が優先され、テレ
ビメディア特有の映像取材による検証がなかったような気がする。そのこ
とはとりもなおさず、テレビの報道視点が植草氏の件に関しては通常と
異なっていることを暗示している。昨年の郵政民営化総選挙前の一ヶ月
あまりのテレビ報道には明らかに報道管制が敷かれていた。それは一
貫して、郵政民営化推進の小泉擁護の報道視点であった。これに反す
る考え方や視点は一切封じ込まれたのである。この時、テレビが報道
世界の良心や魂、公平性を完全に亡失していたことは記憶に新しい。
その時を髣髴とさせるほどあからさまではないにしろ、今回の植草氏報
道でも、テレビの視点は偏頗性を強く有している。つまり、事実を検証しよ
うともせず、はじめに植草氏の痴漢逮捕ありきという前提を、あたかも常
識であるかのようにセンセーショナルに伝えたのである。事実を伝えると
いう段階をすっ飛ばして、植草氏の決定的な社会的ダメージを構築する
ことが目的であったかのような印象を受ける。つまり、テレビや他のメディ
アが、今回の植草氏報道に本音のメッセージとして孕んでいたものは、
常態的に痴漢をするような性癖の植草氏の言うことはまったく信用できな
いでたらめなものなんだぞということである。警察発表に出た正確な情報
の異常な少なさと、メディアの偏頗性を足して二で割ると、権力を有した
第三者の策謀という線が浮かんでくる。
(※いいげる的コメント)
畠山鈴香氏の時には妙に映像がありすぎて、繰り返し報道されたために逆にうそ臭くなってしまったから、今度は一撃離脱作戦に出た!?
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