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http://blog.e-otegami.net/butch/archives/2006/09/post_116.html
「お世継ぎ」誕生は国民的慶事なのだそうだ。秋篠宮家に第3子が誕生したことは、確かにおめでたいことには違いない。だが、「国民的慶事」としてテレビが朝から晩まで繰り返し取り上げ、新聞が号外を出して「言祝ぎ」の雰囲気を盛り上げる、そのはしゃぎ具合が、へそ曲がりのButchには「ハンカチ王子」と同レベルに思えて仕方がない。それはともかく、今回の男子誕生で現行の天皇制が今しばらく続くことになりそうで、おそらくButchが生きている間は天皇制のない時代は迎えられそうにない。ちなみにButchは皇太子と同い年。1960年(昭和35年)の、彼もButchも2月生まれだ。両親はいわゆる皇室ファンで、自宅には浩宮がまだ小さいころの皇室3世代のファミリー写真と、昭和天皇崩御の号外の縮小コピーが額に入れて飾ってある。
同じ歳ということもあって、子供心に、「なぜ我が家は貧乏で、欲しいおもちゃもたまにしか買ってもらいないのに、彼(浩宮)はピカピカの服を着て裕福そうな生活をしているのか」と疑問に思ったものだ。いろいろ考えた挙句にたどり着いた結論は、「生まれた家が違うから仕方がない」だった。
その後、長ずるにしたがって、生まれた家によってあまりに境遇が違うことへの苛立ちや不公平感が芽生えた。特に比較する相手が額に汗して働いているとは思えなかったことがその想いを募らせた。そしていつか、Butchは「天皇制なんか要らない」と思うようになっていた。まだ随分若い頃の話だ。(こう書くと、貧乏な我が家への不満、という風に受け止められるかもしれないが、そうではなく、貧乏な中でも大学に生かせてくれた両親への感謝の念は、歳を重ねるごとに強くなっていった)
「改憲論者」として憲法第1章の廃止を主張したこともある。なぜ天皇制は要らないか、というと、生まれた境遇による不公平ということもあるが、天皇がいる限り、日本人は無責任体質から逃れられないのではないか、と考えたからだ。大日本帝国陸海軍を統帥する大元帥であった昭和天皇は、戦後、その戦争責任を免責された。日本人はその昭和天皇の戦後の行幸を日の丸を振って歓迎した。
あれは小学校1年生のころだったか、1学年1学級しかない田舎の小学生だった我々は、なぜか日の丸の小旗を渡されて、線路沿いに並ばされた。そこには顔見知りの大人たちが大勢集まっていて、同じように日の丸の小旗を持っていた。先生は「天皇陛下がいらっしゃるので、旗を振るように」というようなことを言っていた。しばらく待っていると、左から列車が来て、「ゴーッ」という音とともに右に去っていった。車窓から男女が手を振っているのが一瞬だけ見えた。天皇皇后だった。不思議だったのは、大人たちがみんな嬉しそうな顔をしていたことと、ほんの一瞬誰かの姿を見るために、小学校の生徒全員ばかりか大人たちまで大勢集まっていたことだった。
後になって考えたことだが、戦争責任を問われることもなくその座を去ることもなく天皇として存在し続けている一人の人間を、大の大人が「陛下がいらっしゃる」と言ってありがたがり、あろうことか学校の授業を中止して小学生を動員することの意味するところは、到底、日本は国民が主権者であるという文字通りの意味での民主主義の世の中になっていないということだ。それは、将来、「戦前」が到来したとき、「教育勅語」が与えられれば、大人たちは再びそれをありがたがって「臣民教育」を始めるであろうことを想像させる。「御上」がいる限り、国民は責任を負わずに済む。そんな日本人の精神構造が、限りなく「甘え」に近いものではないかとも思った。
今でも「天皇制のない日本」を思い描くことはある。が、今では別の観点から憲法第1章の重要性を感じてもいる。それは、「強制にならないように」と天皇に言われてあたふたする将棋指しや、「富田メモ」を首相の靖国参拝反対運動に利用する左翼勢力を見るとき、今、憲法第1章を廃止して、天皇家を野に放つことが極めて危険だからだ。仮に、「富田メモ」ではなく、今の天皇が「私はA級戦犯が合祀されている限り靖国神社には参拝しない」と発言したら、どうだろう? それでも首相が8月15日に靖国参拝を強行したら? おそらく、多くの国民は首相を批判するに違いない。あるいは分祀をしようとしない靖国神社を。
もっとも、皇室に対する尊敬の念をまるで持ち合わせていないことが昨今の吹き上がり右翼モドキの特徴だから、彼らは天皇の言葉を無視し、コイズミの参拝を支持するだろう。それは昨年の総選挙でコイズミを支持した層と重なる。彼らは既存秩序の破壊を求めていて、天皇の言葉に逆らっても靖国に参拝することも、彼らにとっては、中国に言われて参拝を中止してきた歴代首相が築いた既存秩序の破壊なのだ。
そして彼らは、ある意味で正しい。靖国参拝を支持することが正しいのではなく、天皇の言葉を無視することが、正しいのだ。前にも書いたが、それが立憲君主制を成り立たせるための必要条件だからだ。
「将棋指し」や「富田メモ」を見ればわかるように、天皇が漏らしたり残したりした言葉に右往左往する様は、とても立憲君主国とはいえない。そんな状態で、憲法第1条を廃止して天皇家に自由を与えてしまったら、将来、新親王が自民党総裁、内閣総理大臣になってしまいかねない。そして誰もその政策に反対できなくなる。仮にそうなったとしたら、制度、形式としては議院内閣制を維持していながら、その実態は専制君主制である。今の天皇は優れた戦後民主主義者だから、そういうことにはならないだろうが、将来はわからない。どんな人物が天皇家を継ぐかわからない。カリギュラのような人物かもしれないし、ヒトラーのような人物かもしれない。そうならないための担保は国民の主権者としての意志しかあり得ないのだが、その準備はまだ我々には出来ていないように思われる。
憲法第1章は、天皇家を政治権力から遠ざけ、封じ込めるために必要なのである。今はまだ。
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