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http://blog.e-otegami.net/butch/archives/2006/09/post_115.html
鳥越俊太郎を編集長に迎えてスタートしたオーマイ・ニュースに、元一水会代表の鈴木邦男が「『愛国』の座標軸」というコラムを寄せている。「不忠な人間たち」
http://www.ohmynews.co.jp/omn/OhmyColumn.aspx?news_id=000000000731
と題したコラムが興味深いので紹介したい。
テレビの政治討論番組で自民党の議員が「教育勅語を復活させるべきだ」と発言したことを紹介して、一つのエピソードに触れている。その部分を引用する。
右翼・民族派の集会は、どこも開会前に「教育勅語奉読」があった。しかし、うまく読めない。読み間違える。つっかえる。立ち往生する。愛国者だから、こうすべきだという形や使命感、義務感だけが先行すると、こんなことになる。「新右翼の教祖」と言われた野村秋介さんが、たまりかねて怒鳴った。「こんなことは、もうやめろ!」と。
「どんないいことでも強制され、形式的になったら、心がなくなる。それに人間は成長する。大人になったのに小学生の時の服を着ようとしても無理だ」と言った。皆、シーンとなった。もう20年近く前のことだ。それ以来、皆、やめた。
「どんないいことでも強制され、形式的になったら、心がなくなる」(野村秋介)
いい言葉だ。真正右翼の誇りに満ちている。日の丸君が代を強制している文部省や教育委員会に聞かせてやりたい。同時に、ただ「護憲」を叫んでいただけの護憲勢力にも。
確か「太田光の私が総理大臣になったら・・・秘書田中。」というテレビ番組だったと思うが、太田が「たとえ押し付けられた憲法でも、いいものだったら護っていけばいい。それで日本は経済的に繁栄した」と発言したのに対し、宮崎哲弥が「そんなものは奴隷の繁栄じゃないか」と突っ込んだ。正にその通りで、日本の護憲勢力は、自ら憲法を撰び直す、あるいは自ら憲法を書くことを怠ってきたのだ。そうした手続きを経て憲法は国民のものになる。そうして国民のものになった憲法は、そうやすやすとは変えられない。
国民意志の表明である憲法を、現在、多くの政治家や国民が蔑ろにしているのは、現行憲法が自分たちのものではないと感じているからだ。
ここで護憲勢力は考えなければいけい。護憲運動が形式的になっていはいないか。世論調査で「改憲」賛成が反対を上回ったのはなぜか。それをメディアその他のせいにしていないか。自らの護憲戦略は誤っているのではないか。「護憲」運動が形式的になっていたのではないか。
今、「新憲法制定」を旗印に掲げた主将が誕生しようとしている。それこそ護憲勢力がやらなければならなかったことだ。憲法の精神を護るために。世界に誇る憲法9条(1項2項)を護持したいなら、国民が自らの手で9条を書かなければならない。
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