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根 室 通 信;北方領土問題ノート「夜明けを待つ島々;― 日本はまだ占領されている ―」
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投稿者 Kotetu 日時 2006 年 8 月 21 日 18:58:20: yWKbgBUfNLcrc
 

夜明けを待つ島々

― 日本はまだ占領されている ―

 あなたは日本とロシアとの間に領土問題があることを知っていますか。あなたは日本がまだ占領されていることを知っていますか。

 北海道の根室の納沙布岬にたつと、海の向こうにいくつかの島が見えます。現在そこには多くのロシア人が住んでいますが、その島はロシア人たちのものではありません。

 納沙布岬の北東に位置する島々、すなわち歯舞群島(はぼまいぐんとう)、色丹島(しこたんとう)、国後島(くなしりとう)、択捉島(えとろふとう)は歴史的にも法的にも日本のものであることは明らかです。

 これらの島々を政治的な理由から「北方領土」と呼び、私たちはロシアからの返還を求めています。ロシアはできるだけ早く島々を返還すべきです。そうしなければロシア人と日本人は根本的に和解できない、と私は思うのです。

 第二次大戦が終わろうとしていたとき、ルーズベルト、チャーチル、スターリンはクリミヤ半島のヤルタで戦後の日本の処理について会合を開きました。そこでスターリンは対日参戦の代償としてクリル諸島の引渡しを要求し、他の二人もそれに同意したのです。日本は無論ヤルタでの協定については知る由もありませんでした。当時日本はソビエト連邦と中立条約を結んでいましたので、島々の住民たちはソビエト軍が侵攻して来るとは夢にも思いませんでした。

 私は1951年生まれなので、島で暮らしたことはありません。そこで私は旧島民の子孫として、あるいは北方領土に隣接する根室地域の住民としてお話しようと思います。

 私の曾祖父は明治時代(1868-1912) の終わり頃北部千島で漁業を最初に手掛けた一人でした。彼の仕事を受け継いで、祖父は歯舞群島の一つである、志発島(しぼつとう) で漁業を営み、大いに繁盛しました。父の家族の幸せは祖父の成功によるところが大きかったのです。

 志発島は、一見荒涼とした島にしか見えませんが、漁業資源に恵まれた宝の島でした。そこには沢山の魚、例えばタラ、カレイ、カニ、ホタテガイ、コンブがあるとよく聞かされたものです。

 しかし、1945年のスターリンの軍隊による北方領土占領は父の家族の運命を突然変えたのです。祖父は長年苦労の末築いた財産を一夜にして失ったのです。彼は1951年失意のうちに死に、二度と島へ帰ることがありませんでした。中国からまもなく復員した父も結局祖父の漁業を受け継ぐことができませんでした。そのため私の家族は大変な苦労をしなければなりませんでした。彼らはスターリンによって破られた島での素晴らしい夢を私に遺産として残し

たように思います。

 私は子供のころ父母や他の島民あるいは学校の先生たちから聞いた話から北方の島々に憧れを抱いたものです。

 北方領土周辺水域は世界三大漁場の一つとして数えられ、まるで水産資源の宝庫です。川の中に棒が真っ直ぐ立つほど鮭が登るとか、子供より大きい蟹がいるとかという話に驚いたものです。また、島々には千メートル以上の山が幾つか聳え、温泉や豊かな森林、美しい湖、大きな川などあります。

 私はそんな北方領土の自然の豊かさと大きさに次第に魅せられて行ったのです。私たちは山も海も愛します。願わくばその両方とも得たいと思います。そんな意味では、北方領土の自然は理想的なものであると言えます。

 北方領土は大きく、豊かで、素晴らしい所だ、自分もそこへ行って住んでみたいものだ、という思いを死ぬまで抱き続けるでしょう。

 しかし、それに反して北方領土は辛く、悲しい状態に置かれていました。根室の漁船がソ連の監視船に拿捕されたというニュースをよく聞いたものです。

 占領以来12海里の領海を主張して、ソ連(ロシア)は領海を侵す日本漁船を捕まえるようになったのです。捕まると何ヵ月も、ある場合には何年も帰ってこられなくなるのです。友達のお父さんも拿捕されて家族が大変苦労している話を聞く度に心を痛めた記憶があります。

 私はまだ小さかったので、一体どうしてこんなことが起きるんだろう、と思いました。根室の漁民が本当にロシアの領海を侵犯したというなら、彼らはやはり悪いことをしているのであり、同情の余地はありません。むしろ両国の関係を悪くし、日本国中の人々に迷惑をかける罪人として厳しく罰しなければなりません。しかし、真実はそうではありません。

 ある日突然、何の権利のない人があなたの土地に侵入してきて、あなたを追い出したとしたら、あなたはどうしますか。もしある日突然、外国の軍隊が東京に侵入してきて、そこに住む人々を追い出したとしたら、かれらはどうするでしょうか。こうした例えは私には極端なものとは思えません。東京も北方領土も日本の一部です。

両者の間には如何なる差異もあろうはずがありません。根室の漁民のとって、北方領土周辺海域は伝来の漁場であり、かれら自身の庭のような所です。かれらにはそこが外国の海であるとは考えられないのです。たとえ誰かがそんな危険な所へ行くなと言っても、そこが彼ら自身の漁場であり、そこに沢山の魚がいるというだけで彼らは行くのです。

 1963年の6月に歯舞群島周辺の昆布漁に関する民間協定が、1977年の12月に北西太平洋の200海里水域における相互漁業協定が締結されましたが、これらの協定が実質的に北方領土をロシアの領土と認めているため、漁民たちのとって決して満足できるものではないのです。

 この時から漁民たちはロシアの官憲ばかりか日本の官憲からも制約をうけるようになり、かれらの魚を奪ったロシアに島の周辺で漁業をする許可を求めなければならなくなったのです。

 これまで、1304隻の漁船と9266人の漁民が拿捕され、そのうち501隻と30人が何らかの理由で帰還しておりません。拿捕による損失はこれまで計算されていませんが、精神的な損失も含めると相当なものになると思われます。

 最近根室の漁船がロシアの監視船に狙撃され、それで漁民が負傷するという事件も島の周辺海域ではしばしば起きております。

 ロシアのお偉方は根室の漁民が北方領土周辺で魚を取りたいのならお金を支払うべきだと言ってきております。根室の漁民は今、その意に反してロシアの国境を認め、彼ら自身の魚を取るためにロシアに金を払おうと考えています。かれらはそうしなければ漁業を続けられないと考えているのです。根室の街の経済がある程度こうした漁業で支えられているとしたら、悲しい状況だと言わなければなりません。

 私たちは根室の漁民を安易に非難することはできません。この問題は、領土問題が解決されなければ解決しないのです。このような屈辱的な状態が戦後ずっと続いており、未だに先が見えないのです。

 1951年にサンフランシスコで調印された、対日講和条約は日本の独立と国際社会への復帰を認めました。一般的には、科学に目覚めた日本人が一生懸命に働き、こんにちの経済大国を築いたと言われています。しかしアメリカに占領された沖縄と北方領土の犠牲を忘れないでください。

 もしあの時日本が連合国の条約案に調印しなかったら、独立も国際社会への復帰も認められず、こんにちの反映も築けなかったでしょう。沖縄はその後何とか返還されましたが、北方領土はまだロシアに占領されたままです。北方領土が日本へ復帰しない限り、旧島民や漁民、根室地域の犠牲も終わらないでしょう。全国の人がこのことを理解して全力を上げて問題の解決にあたって欲しいと思います。

 旧島民は年々歳をとり、次第にその数を減らしております。北方領土の島々には1万7千人以上の島民が住んでいたと言われますが、現在何人のひとが残っているでしょうか。当時30才の人も今は80才です。千島歯舞諸島居住者連盟の調査によれば旧島民の三分の一以上が既に死亡しているということです。

 私たちは旧島民の子弟を組織して北方領土返還運動の灯を消さぬよう全力を尽くしています。当時の村の様子を地図に落としたり、旧島での生活について島民の話に耳を傾けたり、北方領土に関する歴史や条約を学習する会合を開いたり、北方領土返還を全国の人に訴えるキャンペーンに参加したりしております。

 しかしこうした活動は全国規模では微々たるものです。一体いつ返還が実現するのだろうか。私はそんな思いからどうして逃れることができません。そして、私たちは島で暮らしたことがないので、島についての意識は次第に薄れていっております。私はいっそこんな辛い問題から逃れたいと思ったこともあります。

 ところで、北方領土を取り巻く情勢はここ数年激しく変化しました。冷戦がおわり、ソ連の崩壊が続きました。それらは根室地域の大きな影響をもたらしました。前にはロシア人が根室市に立ち入ることができませんでしたが、1991年の2月に許されるようになったのです。

 それ以来水産物を運んで来るロシア人島民が根室では時々目につくようになりました。彼らはいつも商店街で買物をし、帰りに船に沢山の車を運んで行くのです。

 一方、1991年の4月にミハイル・ゴルバチョフが来日して領土問題の存在を公式に認めたことはやはり大きな前進でした。それまでどんなに北方領土の返還を求めてもソ連は答えようとはしなかったのです。彼の訪問は問題解決への扉を開けたのでした。

 私は国際情勢の変化だけでなく継続的な運動があったればこそこうしたチャンスがもたらされたと思っております。ミハイル・ゴルバチョフはまた来日した時、ロシア人島民と日本人との間の無査証の相互訪問を提案しました。日本政府は相互理解と領土問題の解決のため結局その提案を受け入れました。

 相互訪問は、しかし、やり方を誤れば、問題の本質を隠してしまう危険があります。私たちはロシアによって強いられた既成事実を認める訳には行かないのです。目下のところ、日本側がうまく対処しているので、相互訪問はうまく言っているようです。

 北海道新聞は1992年の8月にロシア人島民の70%以上が何らかの条件付きで北方領土の日本への返還に同意していると報じております。かれらが最初に根室のスーパーマーケットに来たとき、余りにも多い品物に驚き、またロシア人島民のあるグループが東京を訪れた時には、東京都庁ビルの展望室に登ってもっと驚いたのです。彼らは島を日本へ返した方が豊かになり、得であると考えているようです。しかし、どんなに多くのロシア島民が返還に賛成して

も島は帰らないでしょう。

 ボリス・エリツイン、ロシア大統領が1993年10月に来日した時、私たちは彼が新しい提案をするとは期待していませんでした。結果は私たちが考えていたとおりでした。彼はただゴルバチョフと海部首相との間で結ばれた1991年の「日ソ共同声明」を間接的に確認しただけでした。

 私たちは再びモスクワ方面から不愉快な声をしばしば耳にしています。

 「ロシアはその領土の1ミリたりとも渡すべきではない。」

 「ロシア国民は1956年の日ソ共同宣言に拘束されない。」

 「日本が領土問題についてガタガタ言うなら原爆をぶち込んでやる。」

 そのような声には何の道理もありません。それらが意味するところは、ロシアはただ島を返したくないから返さないんだ、ということです。賢明なロシア人たちでさえも領土問題を前にして理性を失ってしまうようです。

 ロシア国民は本当に北方領土の武力占領について理解しているのでしょうか。彼らはスターリンが行った罪悪についてどう考えているのでしょうか。彼らはスターリンの遺産をしっかり受け継ごうというのでしょうか。またチャンスが来たらロシアを大国へ復帰させるつもりでしょうか。ロシア国民のプライドとはロシアが大国であることを意味するのでしょうか。

 私はロシア国民のほとんどが島を返すつもりはないと思っています。ロシア人の80%が北方領土の日本への返還に反対していると言われています。モスクワの政治家たちはロシア国民の意識変革を促すどころかむしろ彼らの民族主義を煽っているように見えます。私はそのような状況下では島は返還されないと考えています。ロシア国民の意識変革なしには北方領土の返還が実現しないことは明らかです。

 日本政府はその経済力を利用してロシアに譲歩させようとしています。しかしロシア国民ともっと突っ込んで対話して彼らの良心に訴えることのほうがもっと重要でしょう。

 ところで、1983年の4月に「北方領土問題の解決の促進のための特別措置に関する法律」が施行され、日本国民が皆北方領土へ本籍を移せるようになったとき、私は真先に本籍を北方領土へ移しました。日本政府は北方領土は日本の一部であると主張してきましたが、北方領土の村に村長がいないという理由で、今まで私たちがそこに本籍を持つことは許されませんでした。

 私が本籍を置いたのは蘂取村(しべとろむら)1番地です。そこは択捉島の最北端すなわち日本の最北端にあります。私は北方領土を絶対に諦めないという理由で本籍をそこに移したのです。

 そして、もし北方領土が私の代で返還されなかったら、この問題を息子に託すつもりです。彼はまだ小さいので、私は特に北方領土について話したことはありませんが、それでも私がぼやくのをしばしば耳にするようです。彼はしばしばこんな風に北方領土について聞きます。

 「島を取ったロシア人がどうして根室の街を歩けるの。」

 昨年の4月にビザ無し交流の一員として根室市に来た4人のロシア島民が私の家を訪れました。私の家族と友人は彼らと互いの生活について語り合いました。ロシア人たちは皆善良な人々でした。彼らは私たちに彼らの苦しい生活のことを話していました。私の記憶に残っているのはあるロシア婦人の言葉です。彼女は択捉島では前年(1993年)たった一人しか子供が生まれなかったと言っていました。

 私は択捉島へ行くつもりだったので、彼らとの再会を約束しました。しかし、私が択捉島へ行こうとしていた時、未だ経験したことのない大地震が発生し、私は択捉島へ行くことができませんでした。ロシア島民たちは厳しい状態にあると聞いております。私は我が家を訪問した4人のロシア人のことを心配しております。

 北方領土は千葉県と同じ位の5000平方キロメートル、周辺の海域を含めるとその倍以上の面積があります。そしてその98%は国公有地です。返還が実現したら私はその豊かな自然を利用して全国の人が休養でき、多くの外国人が互いに交流できるような、すばらしい理想郷を築きたいと思います。それが私の夢です。もちろんロシア島民の生活を守ることをお約束致します。私たち日本人は彼らの生活を改善するためにあらゆる努力をするでしょう。

 アイヌ民族は北方領土のことを、「日出づる処」を意味する「チュプカ」と呼んでいましたが、そこでは真の意味で太陽はまだ昇っていないのです。私は夜が明けるまでこの暗闇に耐えようと思っています。どうか国際社会の皆さん、出来るだけ早く私たちの故郷の島が返還されるよう応援して下さい。

   1995年2月7日

                   西 村 快


http://www.d3.dion.ne.jp/~kaibo/matsu.htm

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