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(回答先: 安倍晋三の本「美しい国へ」を嘲笑う「醜い国」の現実 小泉暴政悪政はこの国をこれほど悪くした 投稿者 黄昏時のパルチザン兵士 日時 2006 年 8 月 19 日 15:30:43)
メディアの責任も大きい。メディアが小泉の「問答無用」のやり方をもてはやしたのだから。
>郵政反対派を次々と切り捨てていった首相の政治姿勢が、日本の社会に「問答無用」の風潮をもたらした面もある。
日刊ゲンダイは違うが、他の大マスコミは、皆こぞって、小泉が作り出した「抵抗勢力」という言葉に乗り、小泉をほめそやした。
郵政反対派を次々と切り捨てた小泉のやり方を正面切って批判した大マスコミがあったか。
あったら教えてほしい。
それを、今ごろになって、大新聞は、
小泉が靖国参拝反対論者にレッテルを貼り付けたことを怒ってみたり、
加藤氏の実家への放火事件を受けて、言論の萎縮を心配する、とか言い出している。
権力を監視しなければ、というようなことまで言い出している。
まともなことを言っているとは思うし、いいことを言っている場合は記事を阿修羅で紹介するなどして「褒める」、といったことも、必要だとは思う。
だが、彼らの弁には、今更という気が強くしてしまう。
メディアがちゃんと小泉を監視せず、小泉劇場を作り出してきたから日本はここまで酷くなったのではないか。
今頃になって反省しても遅い。
それに、安倍のことを持ち上げる姿勢だって変えていないではないか。
口先だけとはこのことだ。
本当に反省しているのなら、小泉の悪政を正面から批判し、安倍の本性を暴くことだ。
そして、共謀罪にもしっかり反対する。
でなければ、大マスコミは権力監視機能も、言論者としての責任も、果たしているとは言えない。
それから、毎日新聞の社説(http://www.mainichi-msn.co.jp/eye/shasetsu/archive/news/2006/08/20060816ddm005070151000c.html)によると小泉は
「私を批判する方は、つきつめれば中国、韓国が不快に思うことはやるなということだ」とも言っているそうだが、
これは逆に言うと、他人が不快に思うことをやって何が悪い、ということだ。
他人が不快に思うことをやらないのは人間として基本ではないのか?
こんなところも、突付こうと思えばいくらでも突付けるのに、突付いているメディアの論調を聞いたことがない。
こんな小泉の暴言を無批判に垂れ流すから、日本は乱れに乱れるのだ。
メディアは、まずは自分たちが権力者の土俵に乗って権力者の言うことを無批判に垂れ流してきたこと、そして、今の日本の風潮を作り出してきた責任を認め、反省すべきではないか。
でなければ「ジャーナリスト宣言」(朝日新聞)が死ぬというものだ。
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≪参考≫
●朝日新聞社説 2006年08月16日(水曜日)付 「靖国参拝 耳をふさぎ、目を閉ざし」
http://www.asahi.com/paper/editorial20060816.html
(前略)
首相の目には、日本国内にある反対の広がりが見えないのだろうか。
朝日新聞の7月の世論調査では、参拝反対が57%で、賛成の2倍に達した。新聞も大半の全国紙、地方紙が反対の立場だ。自民党内ですら、歴代首相ら重鎮の多くをはじめ、反対論や慎重論を唱える人は少なくない。連立パートナーの公明党は明確に反対している。
首相は、こうした声をすべて中国や韓国に媚(こ)びる勢力とでも言うつもりなのだろうか。「いつも批判する勢力」と切り捨てようというのか。
(以下略)
●朝日新聞社説 2006年08月17日(木曜日)付 「加藤氏宅放火 政治テロを許さない」
http://www.asahi.com/paper/editorial20060817.html
(略)
政治家は国民に選ばれ、国民の代表として活動をする。その自由な発言が暴力で封じられれば、民主的な社会は成り立たない。
自分が気に入らないからといって、暴力に訴える。そんな卑劣な行為は断じて許すことができない。
(略)
大事なことは、政治家や経済人、言論人が今回のような事件にひるまず、語るべきことをきちんと口にすることだ。
戦前、首相をはじめ政治家が次々にテロに倒れ、政党政治がつぶされていった。そうした暗い時代を二度と繰り返さないためにも、テロを追いつめ、許さないことが大切だ。
●朝日新聞社説 2006年08月19日(土曜日)付 「戦争とメディア 競って責任を問うた夏」
http://www.asahi.com/paper/editorial.html
(前略)
メディアが権力を監視し批判する使命を放棄したらどうなるか。この重い教訓を忘れないようにしたい。
●毎日新聞社説 2006年8月18日 「加藤議員宅放火 言論封じる風潮を憂う」
http://www.mainichi-msn.co.jp/eye/shasetsu/news/20060818ddm005070113000c.html
(略)
憂うべきは、言論への批判を恐れる人々が、萎縮(いしゅく)して沈黙する現状ではないだろうか。苛烈(かれつ)で容赦のないバッシングが目立つ折、過敏なまでに警戒心を強めているのだろう。孤立するのを避けようと少数派と自覚した人が発言を控えるため、結果的に多数派がことさら幅を利かせる「沈黙のらせん」と呼ばれる現象が進んでいるのかもしれない。いつの間にか言論の自由が狭められており、戦前に逆戻りしかねないようにさえ映る。
この間、加藤議員の発言が際立ったのも、他の参拝批判派の国会議員らが口をつぐんでいたのが一因だ。事件後、右翼陣営から「文化人らが過激な言辞を競い合うため、右翼は体を張るしかないと思い詰めている」といった声が出たことも、尋常ならざるムードの広がりを感じさせる。過失事故の責任者らに一方的な批判を浴びせたり、凶悪犯への厳刑をヒステリックに求める論調と通底するものがあるのかもしれない。一部メディアの報道姿勢や、匿名の無責任な意見をも拡散させるインターネットの影響も見逃せない。
首相参拝の評価についての本社世論調査でも明らかなように、靖国問題は国を二分する重大テーマだ。本来、国論をまとめるべき立場の小泉首相が、テレビカメラに向かって反対勢力の存在を強調し、敵味方に分けて発言したことも危惧(きぐ)せざるを得ない。国会で繰り返し説明すべきを怠り、このまま退陣するのでは言いっぱなしとなる。国のリーダーの言葉の重みが、視聴者に与える影響も考慮してほしかった。
振り返れば、政治家のスキャンダルを暴かれたくないと政府が先導し、個人情報保護法などを通じてメディア規制を画策しだしてから、言論を取り巻く環境が危うくなっている。改めて指摘するまでもなく、少数意見を尊重し、どこまでも話し合いで解決を目指すのが民主主義の要諦(ようてい)だ。原点に立ち返り、自由な言論を封じるかのような風潮は、暴力と同様に、一掃しなければならない。
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