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終戦の日に考える
平和主義は百年の公約
団塊の世代がまもなく一線から退いていきます。戦争は知らないが戦後民主主義育ちの世代。若き現役世代へ伝えるべきは、平和主義は日本百年(とこしえ)の公約の想(おも)いです。
一九四七年から四九年の間に生まれた団塊の世代の六百八十万人は、四六年十一月公布、四七年五月施行の日本国憲法と誕生と成育をほぼ同じくしてきました。
「政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意」(前文)した徹底的平和主義の憲法は、この六十年の間に、不磨の大典から、改正が現実的な政治テーマとなるほどの変わりようをみせています。平和憲法が危ういのでしょうか。
■改憲論学者の転向はなぜ
慶応大学の小林節法学部教授といえば改憲派の代表的論客として知られてきました。政党、経済団体、マスコミのブレーンを務め、世論づくりに重要な役割を果たしてきましたが、最近になって、その改憲論を棚上げ、改憲阻止へと方向転換してしまいました。転向の理由を聞かないわけにはいきません。研究室を訪ねました。
小林教授は四九年生まれ。団塊の世代に属し、慶応入学時は学園紛争のただ中でしたが、学生運動を拒否、国会図書館通いに徹しました。生まれついての左手障害のハンディキャップが「生きるための勉強」を決意させたのです。優等での卒業、米・ハーバード大学への留学が憲法探究への道となりました。
憲法論争といっても、その核心は非戦非武装を宣言した憲法九条への態度と解釈いかんであることは、今も昔も変わりません。
小林教授の立場は、(侵略は禁止だが)自衛権、自衛戦力保持明記で学界では少数派。このような考えで憲法を明確に書き直すべきだとの自称「護憲的改憲派」で、海外派遣を順次解禁した政府解釈を「政府が最高法について嘘(うそ)をつくことこそ害悪」との考えです。
憲法をめぐる環境は、九一年の湾岸戦争とソ連崩壊を境に劇的に変化しました。極東の弱小敗戦国から経済大国となった日本には、国際協力と国連平和維持活動への積極貢献が求められ、改憲論争のタブーがとかれていきました。
小林教授の「憲法改正私案」公表が九二年、講師を務めた読売新聞の憲法改正試案が九四年、自民党の憲法調査会の勉強会への参加となっていきました。しかし、この権力サークル内での活動と若手議員たちとの接触体験が統治する権力側への不信となっていきました。
■9条以前に本体が危うい
苦労知らずの二世、三世議員。決定的だったのは、根幹の憲法観をめぐるその姿勢にありました。
「憲法は権力を縛るもの」−。この立憲主義こそ近代憲法の原理原則であり、人類が歴史から学び、たどりついた英知でもありました。
人間は不完全な存在で、内に無限の欲望をもちます。個人の能力を超えた権力を与えられた政治家、公務員は暴走し、国民を苦しめます。それゆえに権力にたがを嵌(は)める立憲主義は、小林教授にとって「人間の本質に根ざした真理」であり「統治者が身につけるべき常識」でした。
ところが、権力に近い世襲議員たちの憲法観は、憲法をつかって国民を縛ろうというものでした。「国を愛せ」「家庭を大切に」と道徳にまで介入しようとするその“新しい憲法観”は、その実、明治憲法への逆行でした。
小林教授には、この国のなかに「国家とは私」「まるで自分たちが主権者だった明治天皇の地位にいるような古い感覚」の特権階層が生まれたことが、心底からの驚きでした。
立憲主義の本質をわきまえない政治権力ほど恐ろしいものはありません。自分たちは安全地帯にいながらの歯止めなき海外派兵ともなるでしょう。
かつての小林教授自身が、自分が戦争に行くなどと考えもせず、九条論を戦わせていた体験があるから分かるのです。
「九条以前に憲法本体が脅かされている」が小林教授の危機感で、その怒りは、平和を叫ぶだけで真の憲法教育を怠ってきた護憲派にも及びました。
■立憲主義を国民の常識に
国民が十分成熟するまでの憲法改正封印が小林教授の真意。「われわれ団塊の世代にはまだしばらく時間がある。もう一度、立憲主義の原点にかえって、正しい言葉で後の世代に語り残す責任がある」とも。
「憲法は百年は改正すべきではない」というのは平山正剛日弁連会長。兄二人を戦争で亡くし、戦争のない平和な社会をとの母親の願いがあった。アジアへの侵略の歴史。
「憲法九条があれば近隣諸国は日本から仕掛けてくることはないと思うでしょう。あと四十年。論語にも『徳は孤ならず必ず隣あり』とある。分かってくれるはずだ」という。
徹底的平和主義はアジア諸国への百年、いや永久(とこしえ)の公約であり、国内への拘束に思えます。
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