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(回答先: 従軍看護婦については、heart さんに振ります (^^ゞ 投稿者 Kotetu 日時 2006 年 8 月 13 日 18:09:21)
私はKotetuさんほどの知識も持っていませんでしたので振られてすごく困ったのですが(笑)、日赤の従軍看護婦の証言を見つけましたので転載させていただきます。
http://www.zennisseki.or.jp/html_2002/kiji/zadan.html(98年1月1日)より一部転載。
■木の葉が落ちるように人が死ぬ
岡田
それでは、戦時中の従軍時の体験を出していただいて、その辺から又話を進めていきましょう。
津村
私は昭和十九年に召集を受けました。
行った先は満州の延吉陸軍病院でした。
そこへ行って一年後に敗戦ということになりました。
終戦後、延吉陸軍病院と回りに兵舎がいくつかありましたが、それが全部鉄条網で囲まれてソ連の捕虜収容所になったのです。
ソ連の司令部が来まして、兵隊を労働に耐える者はシベリアに送ったんですね。
で、労働できない病弱者はみんな延吉に置かれたんです。
そういうところでしたから、食べ物がない、病気が増える、薬も何もない、いくら死んだか分かりません。
何しろ来る日も来る日も多数の死者が出ました。
私は日赤の看護婦としてとにかく死後の処置をして葬るのが一番大きな仕事になっていました。
木の葉がはらはらと落ちて朽ちるように人間が軽々と死に、最後は穴を掘って全部一括して入れて終わりと、本当にあの時のことを考えるとこの世の地獄ですね。
ソ連は次の年(昭和二十一年)の春引き上げて、帰れるんだと喜んでいたら、今度は中国の内戦です。
岡田
中国革命の内戦。
津村
ええ。だから、まだ日本の患者がいたのに、日本の患者は全部外に出せと言うんですよ、でみんなバラックの兵舎に入れちゃって、中国の患者をドッとその病院に入れてきたんです。
で言葉もさっぱり分からないのに看病です。
こちらも捕虜ですから、本当に震え上がったですよ、恐ろしくて。
それから内戦が終わって、解放軍に抑留されて、中国や朝鮮の看護婦の教育、初歩的な看護婦養成などをやってきました。
岡田
ソ連の占領下での医療器具とか医療材料はどんな状態だったんですか。
津村
ないです。ソ連がみんな持って帰ってしまったから。
だから、例えば、栄養失調で消化機能が衰えてよく下痢をするんです。
ソ連にそのことを言ったら、干し草を、馬の飼料かなんかをいっぱい持ってきてこれを使えと。
そんな具合でした。
薬はないは、食べ物もないはで、だから死んだんですね、たくさん。
それが敗戦で放り出された者の末路ですね。
村松
それに対する国際的な取り決めとかありますけれども、もう戦争になりますとそんな者が適用されるものではないですよね。
赤十字のマークが入った病院だって、なんの意味もなさないですよ。
岡田
中国に変わってからの医療器具関係は充足はされたんですか。
津村
だんだんと充足されてきましたね。
中国の解放軍になってからは飢えることはなかったですね。
コーリャンという雑穀を食べていました。
岡田
バラックに移された人はどうなったんですか。
村松
そこは本当にバラックですからね、氷点下三十度近いわけですから、凍死・餓死・栄養失調、それで患者がバタバタ亡くなって閉鎖になりました。
■凍った死体に荒縄をかけて
村松
私は昭和十八年六月に行きました。
終戦後、ソ連軍の捕虜として扱われ、延吉に行き、兵舎に入れられました。
薬も何もないわけですから私たちの仕事といえば、粟とかコーリャンとかを配るのと屎尿の世話、シラミとり、そういう仕事でした。
氷点下三十度の所で軍隊用の毛布ですからみんな凍えて、亡くなった人の身ぐるみをみんな剥いだんです。
遺髪だけは少し切って保管しました。
死体は荷車に真っ裸で積んで、真冬では凍ってしまいますから十体、二十体と積んで荒縄を掛けて、元気な患者さんが穴を掘ってドンドン埋めたわけですよ。
本当にあの時の悲惨さは地獄の生活ですよ。
その後、中国の医療機関からの要請で、私たちは三々五々に色々な病院に行かされたわけです。
それまでは全く捕虜扱いでしたけれども、その後は中国人と同じような待遇を受けながら医療に従事しました。
私たちは国の政策で外地に流れて十年十五年もほったらかしにされたんです。
私たちは好きで残ったわけではないんです。
当時中国との国交がなかったから国と国の交渉では日本人を返すわけにはいかないんですよね。
それで昭和二十七年頃平和委員会と日本赤十字と日中友好協会が中国の紅十字と交渉して、私は昭和二十八年一番先に帰ってきました。
だから、今の政府の新ガイドラインなどの戦争に巻き込む政策には私たちは憎しみを持っていますし、それと同時に従軍看護婦に軍人と同じような恩給を慰労給付金を支給するのが今の政府の果たすべき任務だと思っています。
■河はまるで血の海水浴場
間沢
私は昭和十八年八月に行きまして、帰ってきたのが昭和三十三年の七月十三日です。
軍隊というところは、戦争になったら上の者はみんな無傷で全部後方に行っちゃうわけです、戦況なんかはこちらは全然分からないわけですよ。
私たちは昭和二十年の八月に変える予定だったんです。
ところが八月九日に何がなんだか分からないうちに列車に乗って出発したんです。
後ろを振り向いたら町中火の海なんですよ。
ということは連れていけない人は全部病院に火を付けて燃やしてきたんです。
殺してきたんですよ、患者さんを。
とにかく列車で出発したんですが、途中でソ連の飛行機の爆撃を受けて、どこに逃げればいいのか分からないまま、戦場の中を歩き通し歩きました。
どこをどう歩いたか分からないけれども、毎日雨と嵐のような爆撃の中を歩きました。
中国人の家に潜り込んでその人を殺して品物を盗むような人もいました。
ソ連の戦車に追いかけられて、バラ線につかまって血の海の海水浴場みたいな川を渡りました。
死んだ人がどんどん上から流れて来るんですよ。
一人の兵隊に命を助けられたけれど、その人は殺されてしまった。
戦争になったら本当に悲惨ですよ。
私たちもそうだけれど、中国の人はどれだけの苦労したか分からないですよ。
日本に帰って子供や孫は絶対に戦争にやりたくないと、自分だけでたくさんだという気持ちでいっぱいなんですけれども、今また再びそういうことが形を変えて行われようとしていることはすごく危険な状態だと思います。
■一人でも多くの人達に伝えて
岡田
では最後に、それぞれの立場でメッセージなり、要望なりありましたら、お願いします。
村松
女なのに捕虜になったとか、朝鮮送りになったとか、調べていない方が多いわけですよね、だから初めて聞く話だからビックリするわけですよ。
戦争の悲惨なことがわからない世代が多くなっているわけですね。
だから本当に一人でも多くの人に知らさなければならないと思っています。
津村
今政府等が二交替を押しつけようとしていますけれども、これは一旦なってしまえば取り返しがつかない、やはり三交替だと思うんです。
長いこと二交替をしてきた自分の経験からそのように思います。
もう一つは、私も長い間看護婦としてやってきましたけれども、この職業は女性の中では最高に誇りのある仕事だと思います。
私は本当に天職だと思ってやってきましたから、誇りを持って頑張ってくれることを希望しています。
私たちの活動にも限界がありますが、今のお母さん達がこういうことがあったとか、こういう本があるとかそういうことを子供達に教えてほしいと思います。
間沢
若い人達の動きというのがすごく年寄りに励みになるんですよ。
この間、ガイドラインの問題で街頭でビラをまいたら結構若い人達が関心を持ってくれるんですよね。
「おばちゃん、話を聞かせてちょうだい」とか、沖縄の問題でカンパの手伝いをしたときでも、若い子がお礼に来たの。
若い人達のそういう動きというのが、ものすごく年寄りを励ましてくれるんですよ、我々を。
だからそういう点で少しでも私たちが役に立てばいつでも出向きますから、皆さん広げていただきたいと思いますね。
岡田
戦争は、人権も、医療をも破壊することが明らかになったと思います。
皆さん方の実相と体験を、今の世代の人たちに経験させてはならないことを身をもって受けとめることができました。
日中戦争から太平洋戦争にかけて当時の日赤は、赤紙の召集令状のもとに従軍看護婦として動員され、多くの犠牲者を出しながら、日本軍国主義を側面から援助・補助するものとなっていました。
全日赤としては、この歴史を反省し、戦争に協力・加担する政策にはいっさい協力してはならないし、国内外を問わず紛争当事国の一方を援助するような救護はいっさい行なってはならないことを態度として明らかにしておきたいと思います。
そして、この立場で運動をすすめていく決意を表明いたします。
また、平和をめざしての学習会でご協力いただくこともお願いして終わりたいと思います。
本日はありがとうございました。
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